4章「残月の鬼のしもべ」その3

 朦朧とした意識の中、自分の体が揺れていることに気付き、ルカはようやく目を覚ました。


 ここは……?


 彼女は電車の、横並びのシートに座っていた。家にいた時のままの白いワンピース姿で。電車はどこかに向かって走っているようで、その振動が彼女を覚醒させたらしかった。もう夕暮れなのだろう。窓の外に見える空は赤く焼けていた。そして、流れて行く風景は、田んぼや林ばかりだった。


「起きたのかよ。薬が足りなかったか。めんどくせえな」


 隣から、男の声が聞こえた。はっとして横を見ると、青いモッズコートを着た、若い、白い髪の男が膝を立てて座っていた。その顔は見覚えがあった。


「お前は……」


 そう、突然窓から家に侵入してきて、殴りかかってきて、さらに蹴り飛ばしてきた男! そのときはすぐに気を失って、考える暇もなかったが、今ならわかる。こいつは――。


「竜薙左紋……?」

「そうそう。あんたの彼氏の弟だよ。残月のおオチビちゃん」


 左紋はにやりと笑った。ルカはたちまち強い恐怖を感じた。すぐにこの男から逃げなければ……。だが、ルカの両手は後ろ手に縛られており身動きがとれないようになっていた。さらに、何やら、体が重い……。


「わ、私に何を飲ませた?」

「あんたの部屋にあった薬だよ。鬼の力を使って暴れられると、色々とめんどくせえからな」


 左紋はコートのポケットから空の空き瓶を出して、彼女に見せた。なるほど、確かにそれは彼女の部屋にあったものだった。しかも、今日の朝、弓雅から届けられたばかりのものだ。


「お前はあの薬のことを知って……」

「まあな、オレも一応、竜薙の家でベンキョーしてたわけよ。鬼のこととか、鬼を弱らせる薬のこととかさ。ま、でも、薬の量まではわかんなかったかな。テキトーに二本分飲ませたのに、こうもすぐに目が覚めちまうとはな」

「そうか、それで……」


 こうも体が重いわけだ。普段は、一本ずつ飲んでいるものだし。


「お前は私をどこへ連れていくつもりだ?」

「別に。どこへも行かねえよ」

「何を言っている? 現に今、私達はどこかへ移動しているではないか」

「ああ、この電車のことか」


 左紋はまたにやりと笑った。今度は、妙に下卑た笑みだった。


「よく周りを見ろよ。本当に、この電車がただ移動してるだけなのかをさ」


 ルカは視線を周囲に走らせた。彼らの乗っている車両には、まばらに乗客が座っていた。だが、その様子はおかしかった。みな、その表情は死人のように硬く、瞳はうっすらと金色にきらめいている……。


「この者達は……瘴鬼! どういうことだ?」

「この車両だけじゃねえぜ。この電車に乗ってるやつは、一人残らずみんな瘴鬼だ」

「な……何を考えている!」


 ルカはぞっとした。この男は、元は人間でありながら、大量の人間をこうもあっさり蹂躙するのか。


「なに。ただの遊びだよ。どうせ、兄さんが竜薙の風花を取り戻すまでにまだ時間はかかるだろうしな」

「遊びだと? これのどこが――」

「面白いだろ。乗客完全瘴鬼化ミッション。梱包材のプチプチを潰していくのと同じくらいにはさあ」


 左紋はふと両手を広げ、高笑いした。


「いいか、この電車は、クソ郊外からスタートして、ゆっくり人の多い街に向かっている。途中、駅に止まるたびに、何も知らない客が乗りこんで行く。最初は当然、人数が少ない。電車が走りだし、密室状態になったところで、そいつらを瘴鬼にするのは実に簡単だ。だが、だんだん街に近づくにつれ、乗りこんでくる人数が増えて行く。難易度は徐々に上がって行くってわけだ。すでに瘴鬼とした連中をうまく使って、そいつらをスマートにさばかなくちゃいけなくなる。もちろん、駅に止まっている間は、絶対に異変に気付かれないようにな。どうだ、なかなかスリリングなゲームだろ?」


 それはルカの理解の範疇を超えた話だった。この男は、狂っている……。人一倍臆病な彼女は、恐怖で心臓が潰れてしまいそうだった。


 そして、その残忍な表情には見覚えがあった。そう、彼の父、竜薙雷伝がかつて見せたものとよく似ていた。


 そうか、あの日、あの男があの場に竜薙の風花を持ってきたところから、すべては始まっているのだな……。ルカのまぶたに、当時の記憶が鮮明に蘇って来た。あの晩秋の日の早朝、枯れ葉舞散る山の中で、彼女は見た。十歳の少年が四人の人間を殺すさまを――。


 最初の三人は、ほんの数秒のうちに彼に命を絶たれた。彼らはみな少年よりはずっと屈強で、それぞれ武器も構えていた。だが、彼らには明らかに慢心や油断があった。瘴鬼だろうと、相手はたかが十歳の子供と見くびっているようだった。殺気で瞳を赤くたぎらせた少年はそれを見逃さなかった。彼らが斬りかかって来た瞬間、彼は恐ろしい速さで横に飛んだ。そして、彼らの視界の外から石を投擲した。それは一人のこめかみに命中し、頭蓋骨を陥没させた。


「な――」


 残る二人は、その光景に愕然とした。だが、その刹那の間にも、少年は動いていた。一人は瞬時に間合いをつめられ、足払いをかけられ、後ろに倒れかかったところで、頭に、少年の肘を受けた。その顔は大きく潰れ、血を飛散させた。もう一人は正面からやられた。少年の攻撃にはもはや何の工夫もなかった。ただ、まっすぐ、人間の反応速度を超えた速さで男の懐に潜り込み、みぞおちに指を突き立てただけだった。少年の手は男の体を貫通し、彼の道着は帰り血で真っ赤になった。


「ば、ばかな……こいつらは、うちの道場でも指折りの手練なんだぞ……」


 一人残された雷伝は、その場に膝をつき、目を見開いた。その体は、声は、恐怖で震えていた。


「彼らが死んだのはお父さんのせいです。お父さんが、彼らに、僕を殺せと命令するから」


 血まみれの赤い瞳の少年は、雷伝にゆっくりと近づいた。雷伝は「く、くるな!」と、顔をひきつらせ、地面に腰をつけたまま後ずさった。


「お、俺が悪かった! 許してくれ! 頼む、殺さないでくれ!」


 雷伝は土下座し、命乞いをし始めた。少年はふと足を止め、そんな無様な父親をじっと見つめた。


「そ、そうだ! お前にこれをやろう。竜薙家の当主の証だぞ!」


 雷伝は、ふと、腰に差していた刀を少年に差しだした。柄に龍の意匠が施され、鞘とつばが紐で結ばれた刀だ。つばの金の透かし彫りは花の文様だ。少年は無造作にその鞘をつかみ、受け取った。


「おじい様はおっしゃっていた。華伝、お前こそが竜薙家の当主にふさわしいと。俺もまったく同感だよ。さあ、その刀を抜いて、俺にそれを証明して見せてくれ。お前なら、間違いなく、その刀を使える!」


 雷伝は、顔をひきつらせながら哄笑した。それは、追い詰められた者の、最後の悪あがきだった。そして、少年は、そんな父の思惑を完全に見抜いていた。即座に「それはできません」と、一蹴した。


「お父さんは、僕が何も知らないとでも思っているんですか。これは、お父さんのように使い手になれなかった人間がさやから抜こうとしても、ただ抜けないだけで終わるけれど、瘴鬼や鬼の場合はそうじゃありません。そういう存在が、これの封印を解こうとした瞬間、たちまち、ここの抗いの紐に祓われてしまいます。鬼ならそれに耐えられるかもしれませんが、瘴鬼ならたぶん死んでしまうでしょう。だから、僕はお父さんの言うことを聞けません」

「ぐ……」


 雷伝は少年をにらみ、歯ぎしりした。その額には脂汗がにじんでいた。


「……ただ一つ、確かなことがあります。お父さんが今、この刀で僕を殺そうとしたことです」


 少年の瞳が、いっそう赤く、冷たく光った。


「ち、違う! 俺は本当にお前を当主と認めて――」

「もういいです」


 瞬間、少年は鞘を横に払い、雷伝の首に叩きつけた。雷伝の首の骨は一瞬で砕け、その体は下に転がった。少年はその大きく開かれた口に、鞘ごと刀を突き刺した。血がまた飛び散り、少年の端正な顔を赤く汚した。


 ルカは炭焼き小屋の入口から、その一連の流れをずっと見ていた。今の少年の赤い瞳には、冷たい殺意以外、なんの感情も宿っていないように見えた。それは今まで彼女と過ごしてきた彼とは別人のようだった。怖かった。あそこにいるのは、いったい、誰なのだろう……。


「か、華伝……」


 ルカはゆっくりと少年に近づいた。彼は父親の死体の前で、じっと立ち尽くしていた。まるで彼女の存在など気付いていないようだった。ルカは少年のそばに来たところで、もう一度彼の名前を呼んだ。そして、後ろからぎゅっと抱きつき、ゆさぶった。


「華伝……華伝……。お願いだ、返事をしてくれ……」

「あ……」


 彼はそこではっと我に返ったようだった。瞳の色が、元の黒に変わった。


「ルカ……僕は……」


 華伝は血で汚れた自分の手をまじまじと見つめた。そして、周囲に転がっている四人の男達の死体に目をやり、顔をひきつらせた。


「そうか……みんな、僕が殺して……」


 彼はとたんに、強い痛みを感じたかのように目を固くつぶった。


「ルカ、僕はやっぱり、化け物だったんですね。こんなに簡単に、人を殺しちゃうなんて……」

「ち、違う、華伝。お前は――」

「違いません。僕は今、僕じゃなかった。頭の中が、かっと熱くなって、気が付いたら、全部、壊してました。それじゃ、あの館に閉じ込められてる人達と、同じだ……。お母さん、ごめんなさい。僕、約束守れませんでした。僕、化け物になっちゃった……」


 華伝の目から大粒の涙があふれ出した。ルカは彼の悲痛な泣き顔を見て、胸がきりきりと痛んだ。「違う! 違う!」強く叫び、彼を力いっぱい抱き寄せた。


「大丈夫だ。お前は化け物ではない。お前が今流している涙がそのあかしだ。化け物は泣いたりしない。罪の意識に苦しんだりしない」


 華伝の震える小さな背中をさすりながら、ささやくように優しく言った。


「でも、僕は瘴鬼の力でお父さん達を殺して……」

「ああ。お前がやらなければ、お前は殺され、私は連れ去られていた。お前はその力で、私とお前自身を守ったのだ」

「僕が、ルカを守った……?」


 華伝はふと顔を上げ、ルカの顔をのぞき込んだ。その涙に濡れた幼い瞳は、不安げに瞬いていた。「そうだ。私はまたお前に助けられた」ルカは微笑み、彼のまなじりにたまった涙を指でぬぐった。そして、自分の額を彼の額にくっつけた。


「お前は今まで通り、瘴鬼の力で私を助けただけだ。だから何も、怯えることはない。お前は化け物などではない。断じて。お前は今も変わらずお前のままだ……」

「ルカ――」


 とたん、華伝はルカの胸に勢いよく抱きついてきた。まるでそれは体当たりだった。二人はふらつき、抱き合ったまま、その場に腰を落とした。


 華伝は彼女の胸に顔をうずめてしばらく泣いていた。ルカは何も言わず、時折その背中や頭を撫でた。腕の中で震えている、その小さな、頼りない体が、とてもかけがえのないもののように感じられた。


 やがて、落ちついたのだろう、華伝は彼女から少し離れた。その目は泣き腫らして、すっかり赤くなっていた。


「……ルカ、手を出してください」


 いったい何をするつもりだろう。とりあえず、彼女は言われたとおりに右手を差し出した。すると、彼はそれをつかみ、人差し指に噛みついた。痛い!


「いきなり、なにをする。血が出たではないか」

「はい。そのために噛みました。ごめんなさい」


 彼はそのまま、彼女の指先からにじむ血を口に含んだ。


「ルカ、これで僕はもう、あなただけの瘴鬼になりました」

「え?」

「鬼であるあなたの血を飲みましたから」


 華伝はまっすぐルカを見つめた。強いまなざしだった。お前は元から瘴鬼だろう、そもそも残月の私の血に人を瘴鬼に変える力はない……。ルカは一瞬、そう言いかけたが、やめた。彼だって、きっとそんなことはわかってるはずだから。


「そうだな。お前はもう私のものだ」

「はい。僕は今日から、あなたのしもべになります。これからは、僕の瘴鬼の力は、あなたのためだけに使います」


 華伝は再びルカに抱きついてきた。彼の体は血なまぐさくて、けれどとてもあたたかかった。ルカもその体をぎゅっと抱きしめた。


「だから、ルカ。お願いです。僕とずっと一緒にいてください。それで、僕が今みたいに僕じゃなくなりそうになったら、僕の名前を呼んでください」

「……ああ。約束する。私はお前とずっと一緒だ。名前など、何度でも、いくらでも呼んでやるぞ」


 二人はお互いの耳元で囁きあいながら、誓いあった――。

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