小さな兄②
ラッドの家までついていくと、彼の家は村の外れの方にあった。近所には他に家もなく、森の中にただぽつんと小さな一軒家があるだけだった。
彼の家族は、村からは少し距離を置いて暮らしているらしい。それで生活苦に襲われて子供を放ったらかして出稼ぎに行き、その間に子供が苦しんでいては本末転倒だ。ただ、これも結果論でしかない。俺は敢えて、ラッドの家庭事情については触れなかった。触れても仕方ない事だからだ。
軋む扉を開けて家の中に入ると、奥のベッドでは小さな女の子が苦しそうに
「おい、ニア! 大丈夫か!? 偶然シスターのお姉ちゃんと出会ったから、すぐに治してくれるからな! 頑張れよ!」
ラッドが妹──ニアという名のようだ──に呼び掛けるが、妹は何も応えない。もはや意識もないのだろう。思ったより危険な状態だ。
一応、ラッドには俺達は冒険者で、ティリスはシスターだという事にした。説明するのも面倒であったし、何よりティリスの正体については、知らない方が良いと思ったからだ。
ティリスがニアの元まで歩むと、ラッドはその場を譲るようにベッドから離れた。ティリスはニアの額に手を当ててから頬に手の甲を当て、最後にその吐息に手をかざした。その間にも、ニアは何度か咳き込んでいた。とても辛そうだ。
「どうだ?」
「はい……多分、元はただの熱病なのでしょうけど、それが原因で呼吸が上手くできていないようです。かなり悪化していて、生命力が落ちています」
このまま放っておいてはあと数日持つかどうか、とティリスは付け加えた。
その言葉を聞いたラッドは泣きそうな顔になっていた。
「治せるか?」
「このくらいであれば、多分……いえ、治してみせます」
ティリスはちらりとラッドを見てそう言い直し、ニアの胸に手を当てた。紫紺の瞳を瞼で覆うと、彼女の手から柔らかく白い光が溢れる。神官やシスターが使うのと同じ、<
ティリスは魔法と呼ばれるものならある程度なんでも使えるそうだが、どちらかというと攻撃型の魔法が得意で、<
<
「……ふう」
ティリスが小さく息を吐くと、治療をやめた。そして、こちらを見てにっこりと微笑む。その額にはうっすら汗をかいているところを見ると、結構頑張ってくれたらしい。
「終わったか?」
「はい。直に目を覚ますと思いますが、体力までは完治できないので」
目覚めてももう少し休ませて下さいね、とティリスはラッドに微笑んだ。
「お姉ちゃん……ありがとう!」
ラッドが泣きながらティリスに抱き着いた。
「あ、おい……!」
人族が迂闊にティリスに触れると殺されるんじゃないか──と、慌てて止めようとしたのだが、予測は外れた。銀髪の美少女はただ困った顔をして、おろおろとこちらを見上げいるだけだったのだ。
予測が外れてよかった。傭兵の時みたいに問答無用で腕を落とすんじゃないかと思ったが、下心や欲情がなければ話は別なのだろうか。それとも、子供は大丈夫とか? いや、敵意の有無で判別しているのか。
「撫でてやれば?」
そう言ってやると、ティリスは迷いながらも、ぎこちなくラッドの頭を撫でてやっていた。俺の頭を撫でる時はもっと自然なのにな、と思うのだけれど、それはそれで、ちょっと特別感があって嬉しい。
彼女の膝の上で、母親に甘える子供のように泣いていた少年だが、暫く彼女が撫で続けていると……安心したのだろう。すやすやと眠り始めてしまった。
「……寝てしまいました」
「ちょっとだけ寝させといてやれよ」
嘆息して言うと、「
おそらくこの少年は、妹の身を案ずるあまり、ほとんど眠れなかったのだろう。それは目の下の隅を見ればわかる。彼は今ようやくその心労から解放されたのだから、少しくら休んでも許されるはずだ。彼の頑張りが、行動力がこうして俺達を引き合わせたのだから。それに、何故だか俺は、妹を想うこの子の気持ちを、どうにも他人事とは思えなかった。
「さて、と……」
俺は立ち上がって、家の台所に向かった。目覚めた時に何か作っておいてやろうと思ったのだ。
こう見えても勇者マルスのパーティーに居た時は、雑用全般を熟していたのだ。簡単な料理くらいなら俺でも作れる。いや、全く以て自慢にはならないのだけれど。
そう思いつつ台所の棚等を見てみると……
(麦粉しかないのか……)
見たところ、ラッドの家が酪農家ではない事は明らかだった。チーズや牛乳、ヨーグルトなどもないだろう。おそらく麦粉を水で溶かして粥にしていたに違いない。
美味いものとは言わないが、もうちょっとマシなものを食わせてやりたい。せめて味を変えるくらいはしてやろう。
「
家の外に出ようとすると、ティリスが座ったまま訊いてきた。膝の上にはすやすや眠るラッドがいるので、迂闊に動けないのだろう。
「ああ、馬車。確かじゃがいもがあっただろ。それと塩とコショウ、香辛料でもあれば、幾分マシかなと思ってさ」
そう言って馬車に行き、麦粥に入れられそうなものを選別して、家に戻ると、台所の火を起こした。それから家の横にあった井戸から水を汲んできて、鍋に入れて沸かす。その間にじゃがいもを適当に切ってから、沸いた湯に麦粉を入れれば、トロ煮の麦粥の完成だ。あとは調味料を入れて味を少し濃い目にしてやれば、味無しの麦粥よりは随分とましなものになるだろう。
俺が料理をしている際、ティリスは「私もお手伝いすべきなのに」と申し訳なさそうにしていたが、今の彼女の優先事項は膝枕だ。それに、どうせそんなに難しい料理でもないので、一人でもできる。
ぐつぐつと麦粥が煮えてきて良い匂いがしてきた頃、パチッとラッドが目を開けて起き上がった。
「あ、あれ、俺寝て……あ、なんか良い匂いがする」
たとたとと起き上がって、少年が台所まできた。その後ろにティリスもついてきている。鼻をくんくんさせているところが可愛らしい。
「あ、勝手に麦粉使わせてもらったぞ」
ラッドにそういうと、目がキラキラ輝かせていた。
「え、具が入ってる……! それに、なんか匂いも違う……」
「ああ、馬車ん中にじゃがいもがあったからな。あとは香辛料とか適当に入れておいた。普段食ってるのよりは味はすると思うぞ」
「兄ちゃん……ありがとう。俺、2人に助けられてばっかりだ」
「ばか、助けてなんてない。お前にはちゃんと代金もらっただろうが。その分の仕事をしただけだ。冒険者としてな」
俺は、ラッドから渡された銅貨を見せて言ってやった。
「……兄ちゃんの冒険は、麦粥を作る事だったの?」
「う、うるさいな。そういう冒険だってあるんだよ」
実際に野営の時は俺が雑用で食事を作っていた。というか、そういうものが主な俺の勇者パーティーとしての仕事だったので、それが冒険だったと言われても、反論はできない。情けないから言わないけれど。
「食うか? もう食えると思うけど」
「いや……ニアが起きてから、一緒に食べるよ」
ちらりとすやすや眠る妹を見て、兄は言った。
「そっか」
本当にラッドは妹想いの良い兄だった。こいつなら、きっと妹をずっと守れる兄貴になるのだろう。
「じゃあ、俺達はそろそろ行くか」
「はい」
ティリスは微笑んで頷いたが──いきなり「ちょっと待って下さい」と言って、馬車に一人でぱたぱたと走って行った。すぐに戻ってきたかと思うと、彼女が手に持っていたのは、飴玉が入った袋だった。
ティリスは、それを袋ごとラッドに渡した。
「お姉ちゃん……? これは?」
「えっと……これは、飴玉というお菓子です。美味しいので、ニアさんが元気になったら、一緒に食べて下さいね」
ティリスは優しい微笑を少年に向けていた。
俺はこの時、彼女を魔神だというのを一瞬忘れてしまった。それは人化の術を用いているからという話ではなく……聖母か何かのように、優しくて暖かみのある笑みを浮かべていたのだ。
彼女のこの行動は、俺にとっては全く予測不可能な事だった。ティリスは馬車に乗っている道中も、あまり飴玉を食べ過ぎるとすぐになくなってしまうから、と大切に味わって食べていたのだ。それを、残り丸ごと少年に渡すとは──しかも見下しているはずの人族の子に──予想できるはずもない。
「お姉ちゃん、いいの?」
少年の遠慮がちな問いに、ティリスは「はい」と優しい微笑みを浮かべたまま頷き、こう付け加えた。
「その代わり、これからもしっかりと妹さんを守ってあげて下さいね」
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