第255話 廃棄部屋

 人魔収容所のはずれには誰も近づかない部屋があった。

 というのも、その部屋につながる廊下には、いつもゴミが腐ったようなにおいが充満していたのだ。

 もう臭くて臭くてとても近寄れない。

 ちょっとでも近づこうものなら、服に匂いがこびりつき、しばらく間、鼻腔の奥に残った匂いで頭がクラクラしてしまうのである。

 そのため、ながらく掃除をされてないその部屋の入り口は、かなり赤黒く汚れていた。

 もしかしてこのシミは血液なのだろうか?

 どうやらこの血で染まったドアの向こう側から嫌な臭いは漏れ出しているようであった。


 その部屋はひんやりとした黒い石壁で四方を取り囲まれ窓すらもなかった。

 しかも、明かりとなるものも無いようだ。

 ただ、入口の扉がうまく噛み合っていないせいなのか、若干出来たドアの隙間から廊下の明かりがかろうじて入り込んでいた。

 差し込む薄明りに浮かぶ6畳ほどの空間の奥には、天井にも届きそうなほどの大きな山の影ができていた。

 どうやらこの山こそが、この強烈な吐き気を伴う臭気の発生源のようである。

 先ほどから、石壁に唯一設置された小さな換気扇がそんな異臭を懸命に吐き出そうとカタカタと低い音を立てて回り続けていた。


 そんな暗闇の中に、二つの影がうごめいた。

 一つの影は大きい男。

 もう一つの影は華奢な女のようである。

 だが、薄暗い部屋のせいで、その姿をハッキリと確認することができなかった。


「お嬢……これ全部食いちぎられてますぜ……」

 ウンコ座りをした大きな男の影が、目の前の山から何かを掴み上げ、その匂いを嗅いでいた。

 これは死臭? いや、腐敗臭と言ったほうがいいのだろう。

 それも、一つ二つの匂いではない。


 男が、つかみ上げていたのは腐った腕。

 ところどころ骨が見えている人間の右手だった。

 そのつまんだ腕をプラプラと振って、これみようがしに女へと見せた。

 揺れる手首はおそらく皮一枚でつながっていたのだろう。その反動で手首は関節からドロリとした液体を引きながら足元に落っこちた。

 その瞬間、落ちた肉の中に封じられていた異臭が立ち昇る。

 咄嗟に男は頭から被った紙袋の上から鼻を押さえた。

 どうやらその紙袋、裸エプロンの男、イサクのようである。


 イサクの目の前には食い荒らされた人間の死体が大量に転がり山をなしていた。

 その数、数十……いや、もっと多いにちがいない。

 というのも、目に見える腐った骸の下からは干からびた腕や足がのぞいているのだ。


 イサクの横で少女が膝を付き、観察するかのように小さき死体に手を伸ばした。

 そんな少女の顔には、イサク同様、顔を隠すかのように大きな蝶を模した大きなメガネがかけられていた。

 だが、この少女、おそらく真音子で間違いないだろう。

 その短きスカートのスリットから見えるみずみずしい太ももには見覚えがあったのだ。


 死体を見る真音子はつぶやく。

「これは……魔物の仕業ではないようですね……」


 イサクは相変わらず腐った死体をつまみ上げてはゴミの様に放り捨ていた。

「魔物のなら頭は残さないでしょう……だってアイツラ、人間の脳ミソは大好物ですから……」

 そう、目の前に転がる腐った死体には、何故か全て頭がついていたのだ。

 だが、柔らかい肉質の腹部や太ももといった部分は貪るよう噛みちぎられていた。


 そんな食べ残された少女の頭を優しくなでる真音子。

「そうですね。これは魔物というより、どちらかと言うと獣に近いようですね……」


 確かに肉を食うと言う事であれば、柔らかくより脂が乗った部位を真っ先に食すだろう。だがそれはまるで、頭は頭蓋骨ばかりで硬くて好みではないと言わんばかりの食べ方である。

 一体、何がこの人間たちを食ったというのであろうか……


 うずくまる真音子とイサクは、とっさに顔を上げた。

 かすかに廊下の奥から音がしたのである。

 しかも、その音はだんだんと大きくなってくるではないか。

 ――誰かが、コチラにやってくる。

 だが、この部屋は廊下の奥に位置している。

 今から部屋の外に飛び出しては、近づいてくるものと鉢合わせである。

 なら、近づくものを殺してしまうか……

 いや、この部屋の情報は少しでも欲しいところ……

 生かしておけば何かが分かるかもしれない。

 しかし、部屋の中には隠れそうな場所など、目の前の死体の山しかないのである。


 真音子とイサクは全く言葉を交わすこともなく、阿吽の呼吸で死体の山の陰に姿を隠した。


 徐々に大きくなってきた足音がドアの前でピタリと止まった。

 外では何やらブツブツ言っている。

 声からすると男のようである。

 次第にドアが静かに開いてくると、廊下の明かりが暗い部屋の中に流れ込んできた。

 その光の中に何かを担いだ男二人の影が映し出された。


「今日もソフィア様はよく食べるな」

「これで何人目だよ……」

 部屋の中に入ってきた男たちは、死体の山の前で担いだ何かを振り子のように振りはじめると、勢いをつけて山の中腹へと投げ込んだ。


 その衝撃で死体の山が、がさりと崩れる。

 瞬間、真音子の鼻面を腐った男の顔がかすめるように落ちてきて止まった。

 その顔からドロリと落ちる腐った目玉。

 ゆっくりと糸を引いて落ちていく。

 先ほどまで目玉が収まっていたであろう黒い洞穴が、隠れる真音子をジーッと見つめていた。

 そんな洞穴からは、慌てたウジどもが次々とあふれ出すかのように飛び出してくる。

 だがそれは、まるでその死んだ男が無念の涙を流すかのようにも真音子には思えた……


 普通、この状況、女の子だったら悲鳴の一つでもあげそうなものである。

 いや、男の子だったとしても無理だろう。

 だが、真音子は一切、声も立てずに、目の前の黒い洞を睨み続けているではないか。

 動じぬ胆力。

 この女、ただの借金取りとは思えない。


 真音子たちが作る無の気配に、当然、男たちは気づく様子すらなかった。

 そして、何事もなかったかのように部屋のドアが閉まると、男たちの気配も遠ざかっていった。


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