第239話 帰りたい・・・(5)

 王宮内に備えられた一室。その部屋はネルの執務室であった。

 

 中には一つぽつんと置かれた年代物の机を取り囲むように、重厚な本棚が取り囲んでいた。

 本棚はまるで外界の音を遮る防音壁のように本が二段重ねでびっちり詰められて、もはや新たな本を入れるスペースもないほどだった。

 そんな静まり返った執務室では、先ほどからネルが動かすペン先の音だけが小気味よくリズムを刻んでいた。

 

 ネルはアルダインあてのあらゆる書類をあらかじめ吟味し不備がないように書類を整えているのだ。

 その確認は書式だけに及ばない。

 今の融合国にとって最善な政策を選択決定し、足りないものは責任者を呼び出して叱責までするのである。


 しかも、この作業をアルダインが自室にこもって何やらしている間におこなってしまうのだ。

 そして、自室から出てきたアルダインがご機嫌なうちに、ササッとサインをさせるのである。

 そうでもしないと、融合国の政務、軍務は滞ってしまうのである。

 ネルがアルダインのそばに仕えるまで、書類の決裁は最低でも1か月を要した。

 1か月など、まだいい方である。

 ひどいものになると1年2年もほったらかしということもあったのだ。


 ハッキリ言って、ネルが一人でアルダインの執務をしているようなものである。

 その上に、アルダインの世話までしないといけないとは……

 この美人秘書、一体いつ寝ているのであろうか。

 その働きぶりに、少々心配になってしまうのは筆者だけではないはずだ。

 ほんと……睡眠不足はお肌に天敵だというのに。


 そんな静かな執務室のドアがいきなり大きな音を立てて開いた。


「ネル様!」

 大きな声と共になんとフジコが飛び込んできたではないか。

 血相を変えたその様子。何かタダな成らぬことがあったのか。


 だが、ネルは目の前の書類からいっさい目を離さない。

「なんだ、騒々しい!」


 というか、今、フジコは神民病院にいるはずでは?

 そう、フジコは、ネルによってソフィアとケテレツの関係を探るために神民病院に潜入させられていたのである。

 こう見えてもフジコさん、いろいろな資格を持っているスーパー派遣! いやスパイなのだ。


 しかし、一つネルは大きな誤算していた。

 と言うのも、フジコさん……看護師資格は持っているものの、全く役に立たない看護師だったのである。

 薬を取り違えるのは当たり前。

 注射一本まともに打てない。

 あまつさえ、金を持っていそうなドクターに色目を使うのである。


 そんなこんなで神民病院の婦長からは、ネルの元に毎日のようにクレームが入っていた。


 ならおそらく、今回も大したことはないのだろう。

 もしかしたら、ついに神民病院をクビになったとか……

 となるとフジコの代わりのスパイを考えないといけないかもな……

 などと思うネルの手はいまだに書類の上を素早く動いていた。


 そんな机の前で、フジコがモジモジとしている。


 それをちらりと伺うネル。

 ――コイツさっきから……うっとおしい!

「トイレは外だ! 早くいけ!」

「そうじゃありません……あの……その……」


 ついに見かねたネルが顔を上げ、声を荒らげた。

「早く用件を言え! 私は忙しい!」


「ハイ!」

 咄嗟に、気を付けをして背中を反るフジコさん。

 もうその動きは、条件反射と言っていいほど素早いものであった。

「実は……アルテラさまが、あの男と共に……人魔収容所に入られました」


 ネルの手がピタリと止まる。

「なんだと!」


 先ほどまであんなに吊り上がったような鋭い目が、今度は、まん丸と大きく見開かれていく。

 その表情は明らかに驚きを隠せない様子。

 そんなネルが、フジコを睨みつけたまま固まっていた。


 ――このおばさんのこの表情……ちょっと怖いんですけど!

 おびえるフジコは、ネルからそれとなく目をそらす。


「それはいつの事だ?」

「はい、えーと、その、ついいましがたかなって……」

 どうやらよく思い出せないフジコは、頭を掻きながらとりあえずその場を取り繕った。

 

 ガタ!

 ネルが先ほどまで座っていた椅子が背後へと倒れた。

 立ち上がるネルの勢いに、机に積み上げられていた大量の書類が散らばり落ちていく。しかも、目を通した処理済みの書類がである。

 あーぁ、もう、こんなに散らばったら最初からやり直し確定ではないか。


 そのせいか、ネルの顔が顔色が青ざめている。

 だがしかし、その原因は違っていた。


 ――ソフィアのもとにアルテラが……

 無気力に机を迂回し始めるネル。

 すでに心ここにあらずといった雰囲気である。


 ――もし、アルテラの身に何かあったら……

 不安を抑えきれないようなネルの表情は、今度は何かに気付いたかのようで瞬間、鬼のような形相に変わった。

 もはや先ほどまでの美しい面影はそこにはない。

 まるで般若!

 鬼のような形相でフジコを睨みつけていた。


 ヒィィぃ!

 もう、フジコは生きた心地がしない。

 ――マジで怖いんですけど! このおばさん!


 次の瞬間、ネルはいきなり駆け出した。

 鬼女のような形相が、呆然と立ち尽くすフジコの横をかすめていく。

 そして、そのままに執務室のドアから慌ただしく飛び出していったではないか。

 その様子は、まるでトラの檻に近づくおバカな子ラインを懸命に止めに行こうとする母ライオンの姿。


 王宮の廊下に敷かれた赤い絨毯の上に響くをネル足音が怒涛の勢いで小さくなっていく。


 ネルのいなくなった執務室では、ぽつんと一人フジコが取り残されていた。

「……私、この仕事やめようかな……」


 昼下がり、人魔収容所の門をくぐるタカトとビン子とアルテラ。

 人魔収容所は大きな壁に、鉄格子の門で一般街と区切られていた。まるで、そこは刑務所。収容所の中から一匹も人魔を外に出さまいとする、その厳重さである。


「いやぁ、助かったわ! ここ最近、道具の注文受けていなかったから、お金がなくて」

 タカトが照れながら頭を掻いた。

 というのも、権蔵は、万命寺の襲撃以来、小門内の整備で忙しい。すでに受けていた注文をこなした後は、新たな注文を全く受けていなかったのである。そのため、道具の納品から得られる代金は入ってくるはずもない。まあ、仮に道具を納品したとしても、タカトの事だ、どこぞの誰かに寄付して同じようになくなるだけのことなのだが。


 アルテラが嬉しそうにタカトへと振り返った。

「でしょう! 私に感謝しなさいよ! 今回のは、結構、上客なんだから、うまくいけば、続けて依頼もらえるかもよ」

「まじか!」


 そんなアルテラとタカトが、収用所の玄関へと続く道の上で、キャッキャッと騒いでいる中、隣を歩くビン子は少々、不機嫌なご様子だ。

 もしかして、アルテラとタカトの仲がいいことが癪に障るのだろうか。

 だが、今の自分はタカトの妹と言う身分。

 ここで二人の間に口を出すとおかしなことになりかねない。

 いやいや……さすがに、このままではマズいだろ!

 ということで、妹ですけどお兄様大好き! などと言うブラコン設定で、無理やり間に入り込むか。

 どうやらビン子は、ビン子なりに真剣に悩んでいる様子だった。


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