最終章 悪役令嬢は愛するあの人を幸せにしたい

第1話

 王国ハルスウェルに薄く積もった雪が解け、陽だまりが麗らかな春の気配を帯びたころ。


 私は、王都で最も格式高い教会に足を運んでいた。ステンドグラスに透ける光も、祭壇に飾られた花々も何もかもが美しい。


 ……あの祭壇の前で、二人は永遠を誓うのね。


 その光景を想像して、思わず頬がにやけてしまう。この日のために仕立てたドレスは、もちろん彼の瞳の色に合わせた紺碧だ。


「……やけに嬉しそうだな」


 隣に並び立つのは、深い黒に近い礼服姿のお義兄様だ。礼服姿の時は往々にしてそうであるように、今日も銀の髪を片側だけ上げる色気のある装いをなさっている。このところは、以前にも増して怪しげな美しさを漂わせるようになっているので、一番傍にいるはずの私でも、どぎまぎしてしまうことが多かった。


 それは今も例外ではない。さりげなくお義兄様から視線を逸らしながら、私は改めて祭壇を見据える。


「それはそうですわ。だって今日は——」


 思わず顔を綻ばせながら、指を組んで酔いしれるように告げる。


「――ルシア様と王太子殿下の結婚式ですもの!」


 暖かな気配が王国を包み込み、あらゆる花々と緑が芽吹くこの良き季節に、二人は遂に結ばれるのだ。


 未来の国王夫妻の結婚式というだけあって、王都はこの一週間ほどお祭り騒ぎだ。結婚式が終わった後もしばらくはこの賑わいが続くのだろう。


 街には王太子殿下の瞳の新緑とルシア様の深緑の瞳にちなんだ装飾が施され、王国全体がまるで森のような柔らかな緑に染め上がっている。今日はそこかしこで紙吹雪が舞っていることだろう。


 私とお義兄様はというと、次代のロイル公爵夫妻として式に招かれていた。秋ごろに晴れて婚約を交わした私たちだが、お義兄様の婚約者として臨む公式の行事はこれが初めてだった。


 お義兄様の婚約者として見られるのだ、と思うと何だかそわそわとしていたのだが、もともと私のエスコート役はお義兄様が務めていたこともあり、周囲の人からしてみればお義兄様の隣に私がいることはごく自然なことのようで、物珍しさはなかったようだ。顔なじみの貴族に会っても、いつも通りの挨拶をされたに過ぎなかった。


 いまいち新鮮さに欠けるが、まあ、良しとしよう。こうしてお義兄様の隣で、陽の光の下、親友の結婚を祝えることに感謝した。


 式は、厳かに進行した。王族や高位貴族に見守られながら永遠を誓う二人の姿を目に焼き付ける。


 ルシア様は、やっぱり今日も淡い新緑のドレスを身に纏っていた。白金の髪を優雅に結い上げ、慎ましく長い睫毛を伏せるその姿はまさに女神と呼ぶにふさわしく、式の最中だと言うのに思わず感嘆の溜息を零してしまったほどだ。


 式を終えた後は、お二人はバルコニーから教会の周りに集まった国民たちに手を振っていた。美しい王太子夫妻を、国民の誰もが祝福している。まるで御伽噺の一ページを見ているかのような心地だ。


 ふと、王太子殿下がルシア様を引き寄せたかと思うと、慈しむように彼女の頬に手を当てて、そっと口付ける。ルシア様は耳の端まで真っ赤になりながらも、彼の口付けを受け入れていた。


 バルコニーの下で見守っていた人々から、わっと歓声が上がる。集まった民衆への礼の代わりなのかも知れないが、大胆なことをなさったものだな、とまじまじとお二人を見つめてしまう。だが、意味ありげな眼差しでルシア様を見つめる王太子殿下を見て、思わず苦笑が零れた。


 ……あれは単に見せつけたかっただけね。ルシア様が誰のものなのか。


 全く王太子殿下らしい独占欲の見せ方だ、とにやけてしまう。ルシア様を見つめる殿下の瞳には、未だ何かを切望するような熱が帯びていて、彼の中のヤンデレ成分は健在なのだろうな、と思い知らされる。ルシア様も大変だ。


 お義兄様も独占欲を覗かせるタイプのヤンデレだと思うが、公の場で見せつけるようなことはしないので、その点は安心だ。


 今だって、お義兄様は若干呆れたように私を見ている。婚約者となっても、こういった公の場では以前と何ら変わりない。決して甘い雰囲気を見せることはないのだ。傍から見れば、冷めた婚約者同士だと思われかねないくらいのそっけなさかもしれない。


 ……まあ、その分、二人きりの時は恥ずかしくなるくらいの甘さを漂わせてくるけれど。


 今朝もここに来るまでに五回は抱きしめられたし、三回はキスをした。その光景を見てしまったレインが、呆れ交じりに小さく溜息をついていたのを思い出して、ますます恥ずかしくなってしまう。


 もっとも、言うまでもなく彼との触れ合いは少しも不快ではないのだが、我が婚約者ながら朝から心臓に悪いお方だと思う。婚約期間でこれならば、結婚したらどうなってしまうのだろう。


 ふと、お義兄様が手の甲で私の頬を撫でた。彼の手の冷たさに、頬に帯びた熱の高さを思い知らされる。


「……今更あのくらいで照れているのか?」


 からかうようなお義兄様の背後では、王太子殿下とルシア様がもう一度口付けを交わしていた。確かに情熱的なキスだから、人によっては何だか照れてしまうだろうが、残念ながら私はそこまでの純粋さを持ち合わせていない。


 思わず彼から視線を逸らしながら、声を絞り出して正直に告げる。


「……今朝のルーク様との口付けを思い出していただけです」

 

 視線を逸らしていても、お義兄様がふっと笑ったのが分かった。きっとこの上なく満足げな表情をなさっているに違いない。


 そのまま私の機嫌を取るように、彼の手の甲が私の頬をすりすりと撫でた。彼がこうやって私に触れるときは、機嫌がいい時だと決まっている。公の場でこうして触れてくることからしても、かなりご機嫌がよさそうだ。


 それだけ私の言葉がお気に召したのだろう。彼が甘い言葉を返してくれることは滅多にないが、こういう仕草でどれだけ愛されているのかを思い知らされる毎日だ。


「ルーク、それにエレノア嬢も。今日は来てくれてありがとう」


 一通りの民衆向けのパフォーマンスを終えたのか、バルコニーから爽やかな笑顔の王太子殿下と彼の腕に寄り添うルシア様が戻って来た。私たちのいる廊下には、次のスケジュールに向けて早速動き出すべく待機している無数の従者たちがいるが、多少の時間の余裕があるのかすぐには駆け寄ってこない。


 私はお義兄様の隣にすぐさま並び立ち、ドレスを摘まんでお二人に向かって慎ましく礼をした。


「親愛なる王太子殿下、王太子妃殿下、本日は誠に——」


 お義兄様が決まりきった祝辞の言葉を述べようとしたその時、突如としてルシア様が私の腕にしがみ付いてきた。


 いつでも慎み深いルシア様らしからぬ行動に、驚いて彼女の顔を見つめれば、頬を真っ赤に染め、深緑の瞳を潤ませて縋るようにこちらを見つめてくる。普段の涼し気なお顔とは打って変わって庇護欲をそそるような表情に、何だかどぎまぎしてしまった。


「……る、ルシア様? どうなさいました?」


 慌てて彼女の肩に両手を置けば、ルシア様が瞳をうるうるとさせながら、か細い声で私に縋りつくように告げる。


「……いっぱい、キス、されたの。殿下に」


 ただでさえ口数の少ないルシア様が、とぎれとぎれに言葉を紡ぐほどの緊張は、どれほどのものだっただろう。


 ……真っ赤に照れていらっしゃるルシア様、なんてお可愛らしいの!!


 ここが屋敷ならば、あまりの尊さに叫んでいたところだ。いや、何なら今もバルコニーから「ルシア様かわいいー!!」と叫びたいくらいである。


 だが、当然そのようなことをすれば教会から追い出されかねないので、ここはぐっと我慢だ。


 未だ真っ赤に顔を染め、小さく震えるように私に縋りつくルシア様をそっと抱きしめながら、何とか彼女を宥める。


「見ておりましたよ。その……とても愛されておられるのですね」


 ルシア様のこの反応からして、恐らく口付けられたことが嫌だったわけではないと思うのだが、かける言葉に迷ってしまう。


 ルシア様は気まずそうに視線を泳がせながら、更にぽつぽつと続ける。


「息の仕方……分からなくなってしまうの」


「っ……」


 やられた。これはもう完全に私の心臓を止めにかかっている。軽く天井を見上げながら、あまりのルシア様のお可愛らしさに、敬虔な信者でもないのに神様に語り掛けてしまった。


 ……神様、ルシア様に可愛さを詰め込みすぎですわよ。


 これは、国が傾きかねない愛らしさだ。ルシア様には今後も殿下の一番お傍にいてもらわなければ。


 大きく深呼吸をして何とか戸惑いを押し込めてから、私はなるべくにこやかにルシア様に笑いかけた。

 

「大丈夫、殿下だって、ルシア様の呼吸を奪うような真似はなさらないはずですわ。何もかも、殿下にお任せすればよろしいのです」


「……エレノアも、そうしているの?」

 

 縋るような視線を向けてくるルシア様に、これには私まで頬が熱くなってしまう。


「っ……ま、まあ、そう、ですわね。ええ……」


 助け舟を求めるようにお義兄様を見上げるも、彼はそれとなく視線を逸らしてしまった。我関せずと言ったような涼し気な表情をしておられる辺り、会話に入ってくださることは無さそうだ。


 王太子殿下に至っては、ルシア様の愛らしさにあてられたらしく、先ほどから頭を抱えてしまっている。


 結婚式は終えたとはいえ、この後王城での舞踏会やら何やらでまだまだ公務は目白押しなのだ。この調子で大丈夫なのだろうか、この初々しい王太子夫妻は。


 そうこうしている間に、王太子殿下の従者らしき男性がそろそろ移動するように促してきた。


「ルシア、そろそろ行こう」

 

 どうにかいつも通りの爽やかな笑みを取り戻した殿下は、ルシア様に向かって手を差し出した。


「はい」


 ルシア様はにこやかに返事をすると、一度だけ私に向き合って、そっと抱きしめてくれる。


「……今日は、ありがとう、エレノア。ここまで来られたのはきっと、あなたのおかげよ」


「大袈裟ですわ、ルシア様。……どうかお幸せになってくださいませね。この国で一番幸福な花嫁は、きっとあなた様ですわ、ルシア様」


 心からの祝いの言葉を贈れば、ルシア様はふわりと花の綻ぶような笑みを見せた。


 ……お幸せそうでよかった。


 親友の輝かしい姿を目に収めながら、私は慎ましく礼をして王太子夫妻を見送った。彼らが悲しい結末を迎えなくて本当に良かったと思う。


 王太子夫妻の後を追うようにして、廊下にずらりと並んでいた従者やメイドたちも移動してしまった。後には私とお義兄様だけが取り残される。


 私たちとて、そうのんびりとはしていられない。この後の舞踏会に向けて支度を整えなければ。


 そう思い、お義兄様を見上げれば、すぐに視線が絡んだ。ずっと私のことを見ておられたのだろう。こういう様子を見せるお義兄様は、何か言いたいことがあるのだと決まっている。


「……どうかなさいましたか?」


 ルシア様とくっつき過ぎたのがお気に召さなかったのだろうか、とある程度予想しながら首をかしげる。だが、続く彼の言葉は全く予想外のものだった。


「……この国で、一番幸福な花嫁になるのはエルだ」

 

 お義兄様はそれだけ告げて、ふい、と視線を逸らしてしまう。何とも彼らしい反応に、思わずくすくすを笑みが零れてしまった。


 ……ああ、駄目だわ。どんどん愛おしくなってしまう。


 一人密かにお義兄様への想いを募らせながら、そっと彼の腕に寄り添った。


「ふふ、承知しておりますわ。楽しみですわね、私たちの結婚式」


「……そうだな」


 お義兄様は柔らかく微笑んで私を見下ろしていた。その慈しむような眼差しが、私だけに向けられているのだと思うとたまらない気持ちになる。


 そのまま私たちは腕を組んで歩き出した。場所が教会であるせいか、さながらそれはいずれ迎える二人の結婚式の予行演習のようだった。

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