第5話

 夜会から三日ほどが経ったある昼下がりのこと。


 私は、私室のベッドに突っ伏するようにして蹲りながら、悶々と夜会のことについて思い返していた。


 そう、あの夜、お義兄様に口付けられて以来、私はずっとこんな調子なのだ。お義兄様のことを思うと、胸がいっぱいになってまともに起きていられない。


 あのお義兄様の鮮やかな眼差し、激しい口付け、秋めいた夜風の温度、頬に帯びた熱。


 その全てを鮮明に思い出しては、一人悶える日々を続けている。このところはまともにお義兄様の顔も見られなかった。


 ベッドに突っ伏した姿勢のまま、ばたばたと手足を跳ねさせる。


 ……あのお義兄様が!! 私に!! キスをしたのよ!!


 感情も熱も衝動もなにも持ち合わせていませんよ、というような無感動な瞳ばかりするあのお義兄様が、私に口付けたのだ!


 その事実だけで、たまらなくなる。あの口付けの意図を正しく把握することは不可能だが、少なくともあの瞬間は、私を義妹ではなく、一人の女性として求めていたということだろう。


 それだけでかっと頬が熱を帯びるのを感じて、毛布を体に巻き付けながら、広いベッドの上をごろごろと転がった。


 この恥ずかしくて嬉しくてたまらない気持ちは、一体どうすればよいのだろう。ときめきのやり場に困ってしまう。

 

 ヤンデレカップルを見たときの尊さとときめきは、パンを何斤も食べることで誤魔化していたが、今は何だか胸もお腹もいっぱいだ。何も食べられない。


 ……これが、恋煩いというものなのね! 素敵だわ、とっても素敵だわ!!


 自分でまきつけた毛布で簀巻き状態になりながら、私は両手で顔を覆って悶えた。鏡で確認したらきっと、私の顔は林檎みたいに真っ赤になっているに違いない。


 ……お義兄様は、どんなお気持ちで私に口付けたのかしら? 私に触れられるのは嫌ではない、と最大限に示してくださった結果なのかしら?


 えへへ、と一人だらしなくにやけながら、お義兄様のことを考える。口付けられたときに出来た唇の傷はもう塞がってしまっているが、今となってはそれが却って寂しく思えるほどだ。


 どちらかといえば乱暴にも思える仕草だったけれど、好きな人にあれだけ求められるというのは嬉しいものだ。あの夜のことを思い出しながらうっとりとするも、ふと、私はどんな表情をしていただろうかと思い返す。


 ……もしかして、私、とても不細工な表情をしていたんじゃなくって? 上手く息が出来なかったから、見るに堪えない顔をしていたとしてもおかしくないわ。


 それ以前に、今まで散々お義兄様の前で見せてきただらしなくにやける顔を思い出して、うっとりする気持ちが冷え切っていく。当然寝顔なども何度も見られているはずだ。


 ……変な寝言とか、言ってなかったかしら? そもそもヤンデレを前にしてにやけている顔に引かれていないかしら?


 簀巻きの状態のままうつぶせになって、今までの自分の奇行を振り返る。変な呻き声が出そうだ。


 先ほどまでお義兄様へのときめきにも悶え苦しんでいたかと思えば、こうして自分の今までの振る舞いが不安で仕方なくなるなんて。


 我ながら驚きの精神状態の振り幅に、何だかふっと笑えて来てしまった。恋というものは、やはり、人を大きく惑わせる代物らしい。


 ……これはヤンデレたちも病むわけだわ。


 芋虫のような格好で、一人うんうんとヤンデレたちに理解を示していると、不意に私室のドアがノックされる音が響き渡った。


 こんな妙な格好で誰かに会うわけにはいかない、と慌てて毛布をかぶり直して入室を許可すれば、静かに扉が開かれる気配がした。


「……お嬢様!? また、横になっておられたのですか……?」


 入室してきたのはどうやらレインのようだ。可憐な声を聞き届けながら、私は頭から被った薄手の毛布越しに返事をする。頬の熱が引くまでは、何だか気恥ずかしくてレインと目を合わせられない。


「何でもないの、ちょっと考えごとをしていただけよ」


 お義兄様のことを考えていたせいか、私の声は緊張で震えていた。いや、本当は緊張の理由はもう一つあることを私はちゃんとわかっている。


 レインには、私がお義兄様に口付けられたことは話していないのだ。このところレインはお義兄様と親しくしているし、何よりお義兄様のヒロインである彼女に対して、どのように話せばよいのか分からず、いつの間にか三日も経ってしまった。


 ここで引け目を感じるほど、私はいい子ではない。本来のこの世界のシナリオがどうであれ、優先されるべきは当人たちの感情であると思っている。


 お義兄様への想いが定まっていなかった以前はともかくとして、お義兄様への恋情をはっきりと自覚した今、私は、レインがヒロインであるという理由でお義兄様から身を引くつもりは少しも無かった。

 

 だから、もしもレインがお義兄様に惹かれているというのなら、私は彼に惹かれている一人の女の子として、レインと話をしようと思っていた。そのきっかけは未だ、掴めずにいるのだけれども。


「お嬢様、どうかお顔をお見せくださいませ。お声が震えているではありませんか」


 失礼します、という言葉と共に、レインに毛布を剥ぎ取られる。陽の光に満ちた室内の明るさに思わずきゅっと目をつぶれば、頬に帯びた熱のせいなのか、両目が潤んでいたことに気づかされた。


「お嬢様……!?」


 レインは私が泣いているとでも思ったのだろう。慌てて私は起き上がり、潤んだ両眼を擦って否定した。


「違うのよ! これはちょっと、眩しかっただけで……」


 一人でお義兄様へのときめきに悶えて、涙目になっていたなんて恥ずかしすぎる。レインを安心させるように笑いかけるも、彼女の灰色の瞳に浮かんだ憂いが薄れることは無かった。


「お嬢様……お可哀想に……」


 レインは憐れむように私を見つめたかと思うと、身をかがめてふわりと私を抱きしめた。石鹸と花の香りがする。


「あの、レイン、本当に泣いていたわけではないのよ? 紛らわしくてごめんなさいね」


 私もそっとレインを抱きしめ返せば、彼女は多少たじろぐような様子を見せる。


 やがて彼女はその体勢のまま、どこか懐かしむような声で呟いた。


「……こうしていると、お嬢様に出会ったあの日のことを思い出します。覚えていらっしゃいますか? もう十年は昔の、あの雨の日のことを」


「もちろんよ! あの日も、ちょうどこのくらいの季節だったわね」


 レインと出会ったのは、およそ十年前の、秋雨の季節だった。


 あの日、私は珍しくお父様に連れられて王都を歩いていて、ある路地裏で、ぼろぼろの布を纏った少女を見つけたのだ。


 雨に打たれた彼女は、髪だけでなく、ぼろ布から伸びた手足も灰色に薄汚れていて、可哀想なくらいにやせ細っていた。

 

 少女の姿を目にした私は、自分と同じ年のころの少女が雨に打たれているのを見ていられなくて、彼女の前に歩み寄ったのだっけ。


 ——おうちが無いの? それなら、エレノアのおうちにいっしょに帰りましょう? エレノアのおうちにはね、おとうさまとね、おにいさまがいるのよ! きっと楽しいわ!


 そう言って雨に濡れたレインを抱きしめて、私は彼女を屋敷へ連れ帰ったのだ。


 見ようによっては、貴族の気まぐれでしかない傲慢な行いなのかもしれない。それでも私はあの日、偶然出会ったレインのことを無視することなど出来なかった。


 思えば作中のエレノアは、レインにこんな台詞を言っていなかった。何なら作中では、レインをたまたま見かけたお父様が彼女を憐れに思い、メイドとして公爵家に引き取った、という流れだったような気もする。


 作中ではただの主従関係でしかなかったエレノアとレインが、今、こんなにも仲良くなっているのは、もしかするとあの日の出会い方がきっかけだったのかもしれない。


「……あれが私の運命の日だったのでしょうね。一生忘れることはないと思います」


「ふふふ、なかなか大袈裟な表現ね? いつものことだけれど」


 どちらからともなく、抱きしめ合う手を緩めれば、レインは間近でふっと儚げな笑みを見せた。天使のように愛らしい顔立ちをしているだけあって、思わず見惚れてしまうほどの美しさだ。


「私はいつも、本当のことしか言っておりませんよ」


 レインはエプロンから白いハンカチを取り出すと、私の目元に当てて潤んだ目に溜まっていた涙を拭ってくれた。常々感じていることだが、とても大切にされていると思う。


 やはり、レインは私にとっても大切な友人なのだ、ということを改めて意識させられて、ますますお義兄様のことを言い出すのが躊躇われた。


「……甘いお菓子と紅茶をご用意いたしました。今日はよく晴れておりますから、窓辺で召し上がりますか?」


「ええ、そうするわ。ありがとう、レイン」


 ベッドから足を下ろして彼女に微笑みかければ、レインはどこか切なそうな表情で私を見た。どうしてそんな目で私を見るのだろう。


 思わず小首をかしげて彼女に微笑みかければ、レインはそれに応えるように弱々しい笑みを浮かべて、私に背を向けお茶の準備に取り掛かった。


 ……レインはもしかして、私とお義兄様の間に何があったのか、気づき始めているのかしら。


 だとしたら、一刻も早く心を決めてレインときちんとお話をしなければ。


 一人そう決意を固めながら、静かに窓に視線を向け、雨とは正反対の、秋の陽だまりをぼんやりと眺めたのだった。

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