第12話

 それから三日ほどして、遂に私とお義兄様が帰る日がやって来た。


 屋敷を訪れたとき同様、玄関広間で私はミラー伯爵家とフォーリー家のみんなと別れの挨拶を交わす。


「寂しくなるわね、エレノアちゃん。またいつでも遊びに来て頂戴」


 叔母様が、ぎゅっと私を抱きしめながら優しい言葉をかけてくださる。お母様と同じ薄紫の瞳には、私を慈しむような感情が溢れていた。


「ありがとうございます。とっても楽しい二週間でしたわ」


 叔母様の隣では、伯爵もにこやかに微笑んでいて、滅多に喋らないお方だったけれど、彼もまた私を可愛がってくれていたのだと分かった。叔母様に抱きしめられた体勢のまま、伯爵にもにこりと笑いかける。


「ロイル公爵令嬢、何かご入用の物があればいつでも私たちにお申し付けください。王国のどこへいたって飛んでいきますよ」


 伯爵夫妻の後ろに控えたフォーリー代表が、にこやかに申し出てくれる。言葉通り、手紙一つ出せば翌日には屋敷に飛んで来そうな勢いを感じて、思わず苦笑いを零してしまった。


「まあ、嬉しいですわ。何かあったときにはどうぞよろしくお願いいたします。……でもまずは、リリアーナとウィルの恋物語を見届けさせてほしいですわ」


 悪戯っぽく微笑めば、伯爵夫妻の隣で仲睦まじく腕を組んでいるリリアーナとウィルが幸せそうに笑った。


 ウィルとリリアーナは、二人の関係が認められてからというもの、このところずっとこの調子なのだ。


 リリアーナに愛を囁くことを許されたウィルの溺愛は、それはもうすさまじいものだった。


 積極的に甘い言葉を囁くようなタイプではないようだが、リリアーナに触れる際の繊細な手つきと言い、彼女に向ける甘く幸福そうな微笑みと言い、リリアーナを宝物のように大切に想っていることが嫌でも伝わってくる振舞なのだ。


 これには二人の恋に難しい顔をしていたケイリーお兄様も、早々に折れてしまった。リリアーナの性格からしても、もうこの二人を引き離すことはできないと悟ったのかもしれない。今では「リリが幸せならそれでいい」と非常に寛容な態度を示す始末だ。


「はあ……リリはルークのような男が好みなのかと思って、祝祭ではあれだけ気を遣ったって言うのに、まるで正反対じゃないか」


 ケイリーお兄様は、私の隣に並び立つお義兄様とリリアーナを見比べて、悩まし気に溜息をついた。


 そういえば、祝祭を巡る際のあの不自然な組み分けは、リリアーナがお義兄様に見惚れていたから応援してやりたい、という気持ちからなされたものだったのだっけ。


 これに関しては、リリアーナもお義兄様も初耳だったのか、二人して怪訝そうに表情を歪ませる。


「わたくしが、ルーク様に……? 確かに綺麗なお顔立ちに見惚れはしましたけれど、特別な感情はありませんのよ」


 その言葉に、リリアーナの手を取っていたウィルが、ぴくりと肩を震わせる。そして縋るような夕暮れの瞳でリリアーナを見つめた。


「お嬢様は……ルーク様のような方がお好きなのですか……?」


 まるで捨てられることを恐れるかのような言葉に、ウィルの愛の重さを思い知る。ちょっと他人をほめただけでこれならば、人によってはうんざりしてしまうかもしれない。


 だが、リリアーナはふっと可憐な微笑みを見せて、ウィルの頬に触れた。その薄紫の瞳に浮かぶ歪んだ熱に、どうして誰も気づかないのだろう。


「あらあら、あなたって本当にかわいい人ね。私が好きなのはあなただけなのに、そんなに不安そうにするなんて……ああ、何て愛おしいのかしら……」


 ウィルとは反対に、リリアーナはかなり直球な言葉選びをする。彼女の言葉によってウィルが戸惑いを見せるのを知っていて、わざと言っているのだ。


 我が従妹ながら、人を翻弄することに長けているリリアーナを末恐ろしく思う。もっとも、ウィルだってリリアーナへの愛は重いのだから、お似合いのヤンデレカップルであることに間違いはないのだが。


 その一方で、お義兄様は何も言わず、ただケイリーお兄様を睨んでいた。祝祭の一件のことを引きずっているのかもしれない。


 一見すれば険悪そうな雰囲気だが、お義兄様があの表面ばかりを取り繕った微笑みを向けない相手というのは、非常に貴重である。つまり、お義兄様の中でケイリーお兄様はそれほどに親しい友人と認識されているということだ。


「怖いなあ、リリもルークも、二人してそんなに睨まないでくれよ。僕が悪かったって」


 ケイリーお兄様はしゅんと肩を落として、小さく溜息をついた。彼はリリアーナとウィルの恋に反対していただけあって、このところリリアーナからのあたりが強いのだ。可愛い妹に睨まれてばかりで、ケイリーお兄様も参っているのだろう。


 加えて友人となったお義兄様からも睨まれたとなれば、しょんぼりしたくもなるかもしれない。


 幸せそうなヤンデレカップルの横で、げんなりとするケイリーお兄様が何とも憐れで、私はそっと彼の前に歩み寄って笑いかけた。


「ふふ、お義兄様に睨まれるということは、逆を言えばそれだけ心を許しているという証ですのよ。そう落ち込まないでくださいませ」


 ケイリーお兄様の手を握って励ませば、彼の紫の瞳にぱっと輝きが戻る。そのまま子供にするような仕草で、彼にぎゅっと抱きすくめられてしまった。


「エルは優しいなあ……。明日から寂しくなるよ。王都に行く機会があれば知らせを送るから、そのときは是非とも一緒に王都を回ってほしい」


「ええ、もちろんですわ」


 ミラー伯爵領では、抱擁は挨拶の一環だ。私もケイリーお兄様をぎゅっと抱きしめ返せば、横から伸びてきた手にあからさまに引き離されてしまった。


 言うまでもなく、私とケイリーお兄様を引き剥がしたのは、お義兄様だ。


 お義兄様は私とケイリーお兄様の間に割って入るようにして、ケイリーお兄様に意味ありげな微笑みを送る。


「挨拶にしては少々長すぎませんか? 婚約者がいる身で、誤解を招くようなことはなさらない方がよろしいかと」


 お義兄様はさりげなく私の肩を抱きながら、あくまでも親切を装って忠告した。


 その言葉を字面通りに受け取ったらしいケイリーお兄様は、何てことないとでも言いたげに笑い飛ばす。


「誤解も何も、エルは可愛い従妹だよ? 僕にとっては妹みたいなものだ。従妹や妹相手に、親愛の情こそあれ、誤解をされるような感情なんて持ち合わせようがないじゃないか」


 ここまで来ると、ケイリーお兄様のこの天然っぷりも本当に天性のものなのか疑わしくなる。お義兄様の前で良く言ってのけたものだと思うが、本当に私とお義兄様の親密さには気づいていないのだろうか。


 現に、伯爵夫妻とリリアーナ、ウィルは信じられないものを見るような目つきでケイリーお兄様を見つめていた。

 

 逆を言えばミラー伯爵家のみんなは、それだけ私とお義兄様の親密さを正しく理解しているということだ。それはそれで気恥ずかしい。


「……親愛の情、か」


 お義兄様は意味ありげに呟いたかと思うと、感情を思わせない瞳で私を一瞥した。目が合った途端に、僅かに紺碧が翳ったような気がする。


 ……どうして、そんな睨むような目で私を見るのかしら。


 今の会話のどこに私が睨まれる要素があったのだろう。思わず引き攣った笑みを浮かべながら、私は小首をかしげてお義兄様を見つめ返した。


「ルーク様、お嬢様、馬車の準備が整いました」


 屋敷の外から私たちを呼びに来たレインの言葉に、私はぱっと顔を上げる。


「では、皆様御機嫌よう。王都についたらまたお知らせいたしますわね」


 深い蒼のドレスを摘まんで礼をすれば、皆口々に別れの言葉を述べた。いよいよお別れの時間だ。


 いよいよ私がお義兄様のエスコートで屋敷を出ようかというとき、ふと、リリアーナが軽やかな足音で駆け寄ってきた。そしてそのままそっと、私に顔を寄せて耳打ちをする。


「……エル、どうしてもルーク様から逃げたくなったら、すぐに知らせてね。あなたがわたくしに言った言葉をそのまま返すようだけれど……あなたが彼の病みに飲み込まれて、悲惨な結末を迎えるのだけは御免よ」


「逃げるだなんて、そんな……」


 苦笑交じりに告げるも、至近距離で私を見つめるリリアーナの瞳は至って真面目だった。これには思わず息を呑む。


 流石はヤンデレと言うべきか、ヤンデレ同士、互いの病みには敏感なのかもしれない。たった二週間の滞在だったが、リリアーナにとっては、お義兄様の危うさを見抜くには充分だったようだ。


「……そんなことにはならないと思うわ、多分ね」


 ……だって、お義兄様にはレインがいるんだもの。


 いわばお義兄様にとっては運命の相手と言ってもいいのがレインだ。今のところ二人が惹かれ合う様子は見られないが、それでもいつか二人の恋物語が動き出すのではないだろうか。


 それを想像しては少しだけ、胸を痛める自分がいることに気づく。ああ、私はいつからこんなにも彼に惹かれていたのだっけ。


「不安の残る言葉だわ」


 リリアーナは私の耳元から顔を離すと、大げさなくらいに溜息をついた。そして私の手を引くお義兄様を見つめて、可憐ながらも含みのある笑みを見せる。


「……御機嫌よう、ルーク様。エルのこと、くれぐれもよろしくお願いいたしますね」


 お義兄様は無感動な目でリリアーナを見つめていた。一瞬だけ二人の間の空気が張り詰めたような気がした。


「……善処する」


 お義兄様はそれだけ告げて私の肩を抱くと、リリアーナに背を向けてしまった。


 波の音が響き渡る、夏の終わりの青空の下、私はこれからのことをぼんやりと想う。


 ……恐らく次はいよいよ、お義兄様とレインの物語なのよね。


 彼らの恋物語が始める直前だと言うのに、私は自分の身の振り方を決められずにいる。


 今まで通り、尊いヤンデレカップル誕生のため、ハッピーエンドに向かって奔走するべきなのだろうか。——胸に僅かに芽生えた、黒くもやもやとした感情には気づかない振りをして。


「エル」

 

 お義兄様が馬車の中から私に向かって手を差し出す。その優しい温もりにそっと自らの手を重ねれば、力強く馬車の中へと引き寄せられた。


「……何をそんな難しい顔をしているんだ?」


 お義兄様の手が私の頬に触れる。お義兄様は本当に私のことをよく見ていらっしゃるようだ。


「何でもありませんわ。少し、寂しくなってしまっただけで」


 頬に触れた彼の手が、どうしようもなく愛おしく感じた。


 私は軽く目を閉じ、その温もりに頬をすり寄せる。


「ふふ、お義兄様の手は優しくて、とっても安心します」


 そっと自らの手も彼の手の甲に重ね合わせれば、僅かに彼の指がぴくりと戸惑うように動くのが分かった。


 どうしたのだろう、とお義兄様の手に頬をすり寄せたまま、瞼を開いて彼を見上げてみれば、紺碧の瞳は戸惑うように揺れながら私を見つめている。


「……俺を試しているのか?」


「え?」


 何のことだろう、と目を瞬かせれば、お義兄様が、はあ、と悩まし気な溜息をつくのが分かった。そのまま頬に触れていた手も離されてしまう。

  

 お義兄様はそのまま窓の外を見つめるようにして、私を視界から追い出してしまったようだった。


 少し慣れ慣れしかっただろうかと反省しながら、私もまたお義兄様の隣で姿勢を正して、窓の外を眺める。


 やがて動き出した馬車は、王都の公爵邸に向かって走り出した。流れていく景色を見つめながら、王都に着くまでの旅路の間、私はぼんやりとこれからのことについて想いを馳せていたのだった。

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