第7話
◆ ◆ ◆
夏の終わりの海、青白い月が浮かぶ幻想的な夜空の下、青年は白いワンピース姿の少女と共に海辺に佇んでいた。
夜風が少女のワンピースの裾と、ストロベリーブロンドの髪をなびかせる。青年はしばしその姿に目を奪われていたが、そっと彼女に近付いて、その細く白い指にスノードロップで作った小さな指輪をはめた。もちろん、場所は左手の薬指だ。
「ふふ、素敵。とっても可愛い指輪だわ」
普段の調子で朗らかに笑う少女だったが、彼女も確かに、これから二人に起こる悲劇を正しく認識していた。
伯爵令嬢と執事。叶うことの無い恋に絶望して、二人で夜の海に沈んでいく。
ありがちな話だ。ありがちで、愚かしくて、それでもどうしてか人の心を惹きつける、悲しい結末だ。
そんな結末しか用意できなかった自分を呪いながら、青年は少女の前に跪いて、そっと指先に口付けた。
「……次にお目にかかるときにはきっと、本当の指輪を、あなたに差し上げます」
「嬉しいわ、ウィル! わたくし、とっても楽しみにしているわね!」
少女は軽く屈みこんで、青年の頬に口付けた。至近距離で見つめ合う二人はどちらからともなく、くすくすと笑い合う。
それは、誰がどう見ても幸せそうな恋人たちの姿だった。
少女は跪く青年の頭をそっと胸に抱き、静かな声で告げる。
「ねえ、ウィル。わたくし、本当に幸せよ。あなたと最後まで一緒にいられるのですもの」
「お嬢様……」
「こんなに素敵な指輪をくれたのに、まだわたくしをそうやって呼ぶつもり?」
「っ……」
波の音、心臓の音、静寂とは程遠い沈黙が、二人の間を支配していた。
「……リリ」
青年の絞り出すようなその声に、少女はぱっと華やいだ笑みを見せる。
「そう! これからはそうやって呼んで頂戴ね! あなたにそうやって呼ばれると、わたくし、とっても温かな気持ちになるわ!」
少女は青年の手を引くようにして立ち上がらせた。青年はどこか困ったように苦笑を浮かべる。
「これからは……って、もう幾許も無いではありませんか」
「あらあら、わたくしにとってはこれからが、この人生の最も輝かしい部分なのよ?」
屈託のない笑みを見せる少女を前に、青年は眩しいものを見るような微笑みを浮かべ、やがてゆっくりと目を閉じた。
陽だまりを奪い去る罪を、この笑顔を暗い海の底に沈めることへの抵抗を、深い息をつくと同時に捨て去った。覚悟を決める時が来たのだ。
「……それなら参りましょうか。夜が明けてしまう前に」
青年はそっと少女に手を差し出した。少女は満面の笑みで青年の手を取り、苺色の紐に紫の貝殻が付いた飾り紐を取り出す。
「離れてしまわないように、わたくしたちの手をこれで結ぶのはどうかしら?」
「奇遇ですね。僕も同じことを考えていたんですよ」
青年もまた、白い紐に橙色の貝殻が括りつけられた飾り紐を取り出す。それは、祝祭の時に互いに贈り合った祈りの飾り紐だった。
「祈りの言葉は何がいいのかしら……?」
「悩むまでもありませんね」
二人は繋いだ手に飾り紐を巻き付けてきつく結んだ。決して、離れてしまうことの無いように。
「……次こそは、あなたと結ばれますように」
偶然にも重なった声に、二人は顔を見合わせて笑い合った。どこまでも気が合うのは昔から変わらない。
青年は慈しむようにそっと少女の頭に口付けた。少女はそれを受けて、満足そうにふっと笑う。
やがて、二人は夜の海の中へと歩き出した。青白い月が海に作り出した、銀色の道を辿るようにして。
夏の終わりの海が、二人の体から熱を奪い去る。それこそがまさに、二人が永遠を手にした瞬間だった。
◆ ◆ ◆
「フォーリー商会、ね……」
祝祭から数日後、私はロイル公爵家の使用人から上がってきた報告書に目を通していた。
祝祭のあの日、ウィルが話してくれた手掛かりから、十数年前に賊に襲われた商会の船が無かったか、使用人に頼み込んで調べ始めていたのだが、たった数日で面白いくらいに絞り切れてしまった。
ウィルの実家は恐らく、フォーリー商会というところだろう。
この国で最も有名と言っても過言ではない、とても大きな商会だ。効率的な布製品の開発法を発明したり、貿易を通じて他国との関係調整に一役買っているという王国への貢献が認められ、商会の主はそろそろ爵位を授けられるのではないかという話も耳にしている。
「狂愛のスノードロップ」にまつわる記憶とウィルの話からして、十中八九彼の生家はこの商会に違いなかった。もう少し丁寧に調べを進めてみる必要はあるが、切り札となり得そうなものは随分とあっさり手に出来てしまった。
これで少なくとも、二人が心中するような悲しい結末は避けられるだろうか、と安堵の溜息をついたところで、朝食の準備が出来たと声がかけられた。
事件が起こったのは、この朝食の席でだった。
ミラー伯爵家のメイドに連れられるようにして、いつものように食堂へ向かっていた私だったが、食堂の扉の前で立ち止まるお義兄様の姿に気づいた。
どうして中へお入りにならないのか、と不思議に思いながら、お義兄様の傍に駆け寄ってみる。
「おはようございます、お義兄様。何か、問題でも——」
と、言いかけたところで分かってしまった。食堂の中から何やら言い争うような声が聞こえてきたからだ。
「……リリの声?」
どうやら主にリリとケイリーお兄様が言い争っているようだった。あの仲の良い兄妹に一体何があったのだろう。あまり品の良いことではないが、思わず聞き耳を立ててしまった。
「……とにかく、わたくしは婚約なんてしたくありません!」
「リリ、伯爵令嬢として生まれたのに、そんな我儘が通ると思わないでくれ」
「お兄様はよろしいですわよね。ご婚約者様のことを、とっても愛しておられるのですもの」
「僕だって、彼女に会うまではこんなに好きになるなんて思ってもみなかった。なあ、リリ、まずは会ってみるだけでもいいじゃないか。そこから少しずつ相手のことを好きになるかもしれないよ」
「嫌と言ったら嫌なのです!! お兄様のわからずや!」
リリアーナとは思えぬ大声に、思わず私とお義兄様は顔を見合わせた。どうやらリリの縁談の話が持ち上がっているらしい。
これはまさに、リリアーナとウィルの恋物語の分岐点になる出来事ではないか。ウィルの生家について手掛かりを得ておいてよかった、とほっとしたのも束の間、リリアーナがわっと泣き出す声が聞こえてくる。
「もうお兄様なんて知りません! わたくし、失礼いたしますわ!」
リリアーナは泣き叫ぶようにそう告げたかと思うと、食堂の扉を勢いよく開いて飛び出してきた。
扉の付近で待機していた私とお義兄様を見て、一瞬はっとしたように目を見開くが、そのまま何も言わずに走り去ってしまう。
「っ……待って、リリ!」
思わず追いかけようとするも、続いて食堂から出てきたらしいケイリーお兄様が溜息交じりに告げる。
「大丈夫だ。どうせ私室に閉じこもるだけなんだから。待たせて悪かったね、エル、ルーク」
ケイリーお兄様は笑ってはいたが、いつもよりずっと生気のない顔をしていた。リリアーナと喧嘩したことが堪えているのかもしれない。
「決定事項というわけでもないのに、縁談が持ち上がっただけであの有様だ。いつまでも我儘ばかりで困った妹だよ」
はあ、と悩まし気に溜息をつくケイリーお兄様に、何と返してよいか分からない。
ウィルがリリアーナを追いかけてくれていたらいいのだが、と気がかりに思いながらも、私とお義兄様はケイリーお兄様に導かれるままに食堂へと足を踏み込んだのだった。
事が大きく動いたのは、リリアーナ抜きで朝食を取り終えた、ちょうどそのときだった。
「旦那様! 奥様! リリアーナ様の姿がどこにも見えません!!」
食堂に飛び込んできたメイドは、肩で息をしながら悲痛な表情で報告をした。
真っ先に動揺を示したのは、リリアーナと言い争いをしたばかりのケイリーお兄様だ。
「どこにもいない? ……私室にも、庭にもか?」
「はい……屋敷中をお探ししましたが、どこにもいらっしゃらないのです。どこかへお出かけになると言うような言伝も預かっておりませんし……」
これには伯爵夫妻の表情も曇る。縁談の話に嫌気がさしたリリアーナが、ちょっと屋敷を飛び出しただけだと思いたいが、貴族令嬢が一人で外をうろつくことにはどうしたって不安が残る。
それに、私の懸念は別にあった。リリアーナとウィルは、心中し得るほどにお互いのことを想い合っているのだ。
今までもそうであったように、全てが私の知っている「狂愛のスノードロップ」のシナリオ通りに進むとは限らない。ケイリーお兄様のお話では、縁談は決定事項というわけではなさそうだったが、リリアーナが絶望して、勢い余って二人で心中を図ろうと考えていてもおかしくはないのだ。
「っ……すぐに捜しましょう! 馬車を使わずに出ていったのならば、まだそう遠くへは行っていないはずですわ!」
思わず席を立ちあがり、伯爵夫妻とケイリーお兄様に目配せをする。
「……分かった。手分けして捜そう。僕は街の方を見てくるから、エルには海辺の方を頼んでもいいかい?」
「分かりましたわ!」
土地勘のある使用人に頼んで、案内してもらうのがいいだろう。おぼろげな「狂愛のスノードロップ」の記憶も多少は役に立つかもしれない。
私の隣に座っていたお義兄様も立ち上がると、そっと私の腰に手を当てて引き寄せた。
「……エル一人では心もとないから、俺も海辺を捜そう」
「ルーク……すまないな、恩に着るよ」
ケイリーお兄様は感極まったような目でお義兄様を見つめていた。
だが、私の腰に回されたこの手からして、恐らくお義兄様はリリアーナを捜したいと言うよりは、私を一人で歩かせたくないのだろうな、と察してしまう。こんな事態の中でまで独占欲を覗かせなくたっていいのに。
「それでは、私たちは屋敷の周辺を見てまわるわ。もしもあの子が帰ったら、すぐに知らせを送るわね」
叔母様は憂いを帯びた表情で、窓の外を眺めていた。普段は穏やかな表情を浮かべている伯爵も、今ばかりはどうにも不安そうだ。
「承知いたしましたわ」
手短に答えて、私はお義兄様と共に足早にテーブルを離れた。
食堂を出て行く直前、ふと、私は半身で振り返ってケイリーお兄様の紫の瞳を射抜いた。
「リリが見つかったら……リリの気持ち、ちゃんと聞いて差し上げてくださいませね、ケイリーお兄様」
貴族令嬢として生まれた以上、舞い込んだ縁談に駄々をこねるのは我儘なのかもしれないが、だからと言ってリリアーナの気持ちを無視していい理由にはならない。
これは私の希望的観測であるのだが、私が小細工をしなくたって、リリアーナが真剣に気持ちを訴えれば、この家族は彼女の気持ちを尊重してくれるような気がするのだ。
リリアーナの縁談に伴う利益がどれほどのものなのかは知らないが、どんな利益よりも娘の幸せを優先したいと考える人たちだと私は思っている。
だからこそまずは、リリアーナを見つけ出さなければ。リリアーナとウィルが、最悪の結末を迎える前に。
「……参りましょう、お義兄様」
私の手を取るお義兄様の紺碧の瞳に笑いかけて、今度こそ私たちは食堂を出たのだった。
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