第6話

◆ ◆ ◆


 陽光の差し込む広大な温室の地下は、地上の平穏が嘘のように思えるほど薄暗い。夏でも冷え切った空気はどことなく澱んでおり、光の差さないこの場所に好んで足を運ぶ者はいなかった。


 そう、たった一人、亡霊のような姿で佇む彼を除いては。


 青年は、今日も深い緑の外套に身を包み、虚ろな瞳で黙々と歩く。不健康なほどに痩せた両手には、色とりどりのカトレアを携えて。


 青年が向かう先はいつも決まっている。誰も立ち寄らない彼の実験室、光とは無縁の仄暗い小部屋。その場所に、彼の命よりも大切な大切な「彼女」が眠っているのだ。


 実験室の扉を開ければ、まず真っ先に視界に飛び込んで来るのは、青白い光に照らされたガラスの箱だ。棺というには大きなサイズで、カトレアが敷き詰められたガラスの箱の中で眠るのは、伝承と同じ亜麻色の髪をした可憐な「天使」。二度と開かれることの無い瞼の下にある瞳も、かつては美しい亜麻色の光を湛えていた。


「カトレア」


 青年は、目覚めることの無い「天使」にそっと笑いかける。甘く、恍惚さえ覚えるようなその笑みは、およそ一人の少女の遺体の傍で浮かべる表情としては相応しいとは言えなかったが、青白い光に照らされた彼の端整な笑みは、どこか怪しげな美しさを放っていた。


「今日は白と紫のカトレアにしたんだ。君が一番好きだっただろう? 君の亜麻色の髪に、よく似合っているよ」


 ガラスの箱の中に縫い留められた少女の遺体は、いわば標本と呼ぶべき代物だった。彼が持ち得る限りの魔術を使って、彼女の遺体を美しいままに留めているのだ。


 一度削ぎ落されてしまった純白の翼も、縫い目が分からないほどに綺麗に修繕されている。眠る彼女は今、完璧な「天使」の姿をしているのだ。


「眠っていても可愛いなあ……カトレアは。今日はどんな夢を見ているの?」


 ガラスの蓋を開けて、彼はむせ返るように甘いカトレアの香りの中で微笑む。初めは遺体に語り掛けている空しさを感じていたはずなのに、このところは、まるで彼女が本当に眠っているだけのように思えて、悲しい虚無感とは無縁の日々を送っていた。


 カトレアの甘い香りに、彼の精神が蝕まれつつあるのだということを、彼は心のどこかで正しく理解していた。それでも尚、彼は彼女に語り掛けることを止めなかった。


「君の目が覚めたら、どこへ行こうか。こんな温室に留まることは無いよ。君の知らない世界を見に行こう」


 カトレアの冷え切った頬に触れながら、青年は晴れ晴れとした面持ちで彼女との旅の計画を立てる。


「初めはどこへ行くのがいいだろうね。やっぱり、海かな。カトレアは知らないだろう。海の青さも、広さも何も」


 青年は、楽し気な笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込んだが、やがて辛い現実を突きつけられたかのように表情を歪ませた。


「……そうだ、君はまだ、何も知らなかったのに」


 外の世界も、自由も、恋も、何も知らないままに自ら命を絶った唯一の大切な人を前に、憎悪すら覚えるようになってしまったのはいつからだろう。青年は自嘲気味に笑って、少女の肩口に顔を埋めた。


 生前の彼女を抱きしめた瞬間に包まれたあの優しい香りはもうなかった。代わりに彼らを包み込むのは、腐りかけたカトレアの甘ったるい匂いだけ。


 それでも彼は、少女を抱きしめ続けた。温もりなんてもう、どこを探したってありはしないのに。


「……カトレア、君は天使なんだろう。僕も連れて行ってくれよ」


 彼が正気に戻るのは、ほんの僅かなこの瞬間だけ。棺の中に縫い留められた彼女から離れればまた、彼女は眠っているだけだと思い込んで花を運ぶ毎日だ。


 正気を保てていたならば、彼はとっくのとうに命を絶っていただろう。でも、蝕まれた彼の精神が、少女の死を有耶無耶に誤魔化してしまうせいで、彼は今日も死ねないまま彼女の元へ花を運ぶ。


「……叶うなら、君と一緒に終わりたかった」


 彼に残された願いらしい願いは、ただそれに尽きた。青年は僅かに顔を上げると、二度と目覚めることの無い彼女の額に口付けを落とす。


 生前であれば、こうして口付ければ少女はどこかくすぐったそうに笑ったものだった。


 二人の間にあるのは恋ではなかったが、それに劣らない親愛と依存で結ばれていた。彼らの世界は彼らだけで、完璧に完成していたのだ。


 もし少女が生きていれば、いつか小さな恋が芽吹くこともあったかもしれないが、それももう、叶うはずもない未来の話だ。


「……また来るよ。明日も、明後日もその先もずっと……僕が息絶えるその日まで、いつまでも傍にいるからね」


 青年は少女の冷たい頬を撫でて、甘く甘く囁いた。陰鬱さを思わせるその表情には晴れやかな笑みが浮かんでいる。


 深い青の双眸から涙が零れていることになど、少しも気づかないという風に。



◆ ◆ ◆



「――それで、ここの花の茎をこのようにして……って、エレノア様?」


「え?」


 花畑の中、不意にカトレアが私の顔を覗き込んでくる。今朝の悪夢を思い出していたせいで、少しぼうっとしてしまったようだ。


「ごめんなさい。もう一度お願いできる?」


 すぐに笑みを取り繕ってカトレアの亜麻色の瞳を見つめれば、彼女はやんわりと首を横に振った。


「少し休憩しましょう! そろそろルーファス様が、ハーブティーを淹れてくださるはずですから!」


 それだけ告げて、カトレアは作りかけの花冠を放り出し、どこかへ飛び立ってしまう。純白の翼を大きく広げて舞い上がるその様は、やはり何度見ても非現実感があった。


 カトレアと出会ったあの日から、私は連日、お義兄様に連れられるようにして魔術研究院に足を運んでいた。毎日楽しいことばかりだが、今日に限っては夢見が悪かったせいか、少しぼんやりとしてしまいがちだ。


 あの夢は、間違いなくカトレアとルーファス様が辿るバッドエンドの光景だ。ルシア様と殿下の時と同じような臨場感を伴っていたせいで、すんなりと理解できた。


 ある種の美しさを漂わせる光景ではあったが、やはり、彼らをあんな悲しい結末に導くわけにはいかない。


 お義兄様の「天使の付き合いはこの旅限りにしろ」というお話からしても、彼らがハッピーエンドとバッドエンドの分岐点にいることは明らかだ。ルーファス様は恐らく、既にカトレアを殺す命を受けているのだろう。


 これでもしも、ルーファス様がカトレアにスノードロップを渡したら、バッドエンドに進んでしまう。何としてでもカトレアを救わなければならない。


 ……全てはそう、ハッピーヤンデレルートの先にある彼らの幸福のためよ!


 心の中で決意の炎を燃やすように意気込んでいると、花畑の向こうでカトレアが手を振っていた。その傍らにはルーファス様の姿もある。どうやらお茶の準備をしてくれたらしい。


 私は作りかけの花冠を拾い上げて、彼らの方へ歩み寄った。花畑の中に設置されたティーテーブルには、爽やかな香りのハーブティーが並べられている。


「エレノア嬢、カトレアと遊んでくださってありがとうございます。カトレアは何かご迷惑をおかけしていませんか?」


 ルーファス様は柔らかな物腰で私に笑いかけた。数日前の初対面の挨拶よりはいくらか好意的だ。私が彼の大切なカトレアと親しくしているからなのだろう。


 これがルシア様と王太子殿下なら、殿下は仄暗い嫉妬心を覗かせるところであるが、ルーファス様にはその気配がない。カトレアが自分から離れることはないという、ある種の確信と信頼があるのだろう。


 確信と信頼、そう表現すればなんとも頬笑ましいだけの二人だが、その実は共依存のような関係で結ばれていると思うと、非常に尊い。お互いにお互い無くしては生きられない執着関係とは何と美味しいのだろう。


 しかも、カトレアがそれに無自覚であるあたり、尚更美味しい関係性だった。このカップルを見ていても、何斤でもパンを食べられそうだ。


「迷惑なんてとんでもありませんわ。今はカトレアに花冠の作り方を教えていただいているのです。ね? カトレア」


「はい! エレノア様はちょっと不器用ですが、練習すれば上手くなりますよ!」


 あけすけな物言いに、ルーファス様は「カトレア」と彼女の名を呟いて窘めたが、彼女のその無邪気さが私は好きだった。


「ふふ、早くカトレアみたいに作れるようになりたいわ。お父様へのお土産にするの」


 2日目の夕方に、院長から頂いた甘い葡萄をお父様へのお土産に持ち帰ったところ、お父様はそれはもう喜んでくださった。5日目である今日は青い薔薇が混ざった紅茶の茶葉もいただいたので、屋敷に帰ったらお父様に差し上げるつもりだ。


「それは公爵閣下も喜ばれるでしょうね」


 ルーファス様は会話の片手間に、私の目の前のティーカップにハーブティーを注いでくださった。緑がかったハーブティーの色はよく見るものとそう変わりはなさそうだが、香りが随分強いように思える。


「ルーク殿もお誘いしたのですが、断られてしまいました。エレノア嬢もいると言ったんですがね……」


「ふふ、お義兄様はお仕事中はなかなか休憩なさらないのですわ。とても真面目なんです」


 真面目過ぎて、時折心配になってしまうくらいなのだ。何とも厳格なお義兄様らしい。


「ルーク殿はもっと肩の力を抜いて生きるべきですね。なんて、殆ど他人の僕が言うのもおこがましいですが……」


 ルーファス様はカトレアと自分のティーカップにもハーブティーを注ぐと、ようやく席に着いた。花畑の中でお茶会をするなんて、まるで御伽噺の世界に紛れ込んだようだ。


 ルーファス様が淹れてくださったハーブティーは、今まで飲んだどんなものよりも爽やかで、口当たりがよかった。これは貴族向けに売り出せば高く売れそうだ。薄々勘付いていたが、魔術研究院は生活に根付いたお金になりそうな研究にも力を入れているようだ。


「どうですどうです? エレノア様! ルーファス様が淹れてくれるお茶、美味しいでしょう!」


 どこか自慢げな笑みを浮かべるカトレアが可愛らしくて、私はティーカップを片手に頷いて見せた。


「ええ、本当に。とても美味しいお茶をありがとうございます、ルーファス様」


「お口に合ってよかった。良ければお茶菓子もどうぞ」


「はい、いただきますね」


 花の色素をふんだんに使っているというお茶菓子は、メレンゲを焼き固めたような、マカロンに近い触感だった。痺れるほどの甘さだ。色とりどりな見た目も相まって、自然と心が躍る。


「カトレア、口についてるよ」


 ルーファス様は、カトレアの口元についたお菓子をそっと拭ってやると、慈しむように彼女を見下ろした。年の差があるせいもあるだろうが、やはり、この二人に恋愛感情があるとは思えない。もしも恋が芽生えるとしたら、2,3年後、カトレアが私と同じ歳くらいまで成長してからだろう。


 たとえ目の前でその恋模様を見届けられなかったとしても、尊い純愛を生み出す可能性のある彼らを、無事にここから逃がしてあげたい。


 溺愛過保護型ヤンデレのルーファス様が、カトレアをどろどろに甘やかす日々が、この国のどこかで繰り広げられていると思うだけで、不思議と心は満ち足りる気がした。


「エレノア様ご機嫌ですね! お菓子が気に入りました?」


「え? ええ……そうね、とっても美味しいわ」


「良かったです! たくさん食べてくださいね!」


 満面の笑みを浮かべて、カトレアは次々とお茶菓子を口に放り込む。一つひとつがかなり甘いだけに、なかなか衝撃的な光景だった。


「カトレアは翼を維持する分も栄養を摂らなければならないので、甘いものに目がないんです」


 若干引き気味にカトレアを見ていたせいか、ルーファス様が親切にも解説してくださる。それにしたって胸焼けしないのだろうか、と心配になってしまうくらいだ。

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