ミハエルの日常 その4
登下校中の子供達を見守るために、ミハエルは毎日、街角に立った。
そして、子供達が悪ふざけをしていると、敢えて気配を消さずに近付き、
「危ないよ」
と声を掛けたりもした。
昨今、顔見知りでもない子供に声を掛けると、
<声掛け事案>
などと言われたりもするものの、さすがにミハエル自身がまだ小学生にも見える姿なので、この辺りはさすがに大丈夫だろう。
大丈夫なはずなのだが、声を掛けられた方の子供達は、
「うわ~! 不審者だ~!!」
「声掛け事案だ~!!」
などと、明らかに怯えているわけでもなんでもない感じで声を上げつつ逃げ去ったりもした。
しかも、その数日後にはまた、同じようにふざけていたりする。
けれどミハエルは気にしない。
信用しているはずの、信頼しているはずの、尊敬しているはずの相手の言葉にさえ耳を傾けない人間もいるくらいなのだから、完全に見ず知らずの、信用も信頼も尊敬もしているはずのない相手の注意など素直に聞かないのはむしろ当然のことだと理解しているからだ。
だから、その子供達のことを『糞ガキ』などと罵ったりもしない。残念には思いつつも、いつか何らかの形で自身の行いを振り返った時に、
『あれは注意されて当然だった』
と思ってくれればそれでいいと考えている。すぐさま結果が出ることを期待してはいない。
それについては、漫画やアニメやドラマなどのフィクションでよくある、
『間違ったことをした相手を怒鳴ったり殴ったり滔々と説教をしたりして、それで相手が反省したり改心したり納得したりする』
的な展開について、よく考えてみるといいかもしれない。
そうやって反省したり改心したり納得したりする側は、諌めてくれた相手のことを、(たとえ表面上は反発していたりしても無意識や気持ちの深いところでは)信用していたり信頼していたり尊敬していたりという描写はないだろうか?
これが、物語内に出てくる、ものすごく嫌なタイプや心底反発しているタイプに同じことをされて、同じように反省したり改心したり納得したりする姿が想像できるだろうか?
むしろ余計に反発する展開の方が想像しやすくないだろうか?
まさにそれが<答>だと思われる。
見ず知らずの赤の他人にいきなり正論をぶつけられても素直に納得できる者の方がむしろ少数派のはずだ。
『面倒臭いのに絡まれたからこの場は言うことを聞いてるフリをしてやり過ごそう』
みたいに考えて、口先だけで謝って内心では舌を出している、ということも多いのではないか?
ミハエルは、すでに三桁に届こうかという長い年月の中で培った経験からそのことを理解していたのだった。
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