第11話 修羅場な魔王

 息がかかりそうなほど近い唇。


 思わず目を閉じた直後、胸をドンと押された。


 後ろに倒れ込む俺の胸の上に、重圧がかかる。


 そして俺の口の周りを、柔らかいものがこする。


 ああ、これは舌だ。ペロペロと舐められている。情熱的。


 脳のしびれるような感覚のなか、そのザラザラした舌の感覚に、既視感を覚えていた。


 この感覚、いつも感じてるような……。


 俺はゆっくり目を開けた。

 そこには、小さな黒い頭があった。


「レス!?」


 黒猫のレスが、俺の顔を舐めていた。


 隣を見ると、ナギが驚き戸惑っている。


 俺は慌てて起き上がる。


「コイツはうちで飼ってる猫なんだ。いつの間に部屋に入ったんだ?」


 ナギはベッドから離れた。まさか、猫苦手だったか?


「ほら、自己紹介して。わたし黒猫のレス、五才のメスです。よろしくね」


 俺はレスを操って、ナギに紹介する。


 いいところを邪魔されたせいか機嫌はよくなさそうだったが、猫相手に怒ってもしょうがないという感じで、しゃがんでレスと視線の高さを合わせる。


「レスちゃん、はじめまして。ナギです。よろしくね」


 ナギが手を伸ばして撫でようとする。


 レスは頭をスッと動かしてよける。


 空振ったナギが少ぉし目つきを鋭くし、改めて今度は下から触りにいく。

 

 が、レスはそれを猫パンチではたき落とし、怪獣のような威嚇の声をあげた。


 ナギの瞳に、冷たいものが宿った。


「あ、ごめん、いつもはこんなんじゃないんだけど。レス、この人はあやしい人じゃないよ」


 普段あまり見せないほどに険しい顔のナギが、俺の膝の上に座るメスに向けて構えをとっている。


「貴様、カケルにちょっと可愛がられて、ちょっと長く一緒にいるからって、私を拒否しようというのか」


 ナギは右手で後ろ手になにやら取り出そうとしている。ヤバいヤバい、これはヤバいやつだ!


 レスも俺のモモに爪をたて、尻を上げて威嚇する。


「ま、待てナギ、はやまるな! お前もそんなに怒るなよ!」


 俺の声にも双方、引く様子を見せない。


われがこの程度のこと、予想せんとでも思ったか」

「ナギさん!? 一人称変わってますよ、自分を取り戻して!」


 しかしナギは、まったく油断をみせず、真剣な視線は突き刺さりそうだ。


 さすがに見殺しにするわけにもいかず、抱えようとするその腕を、スルリと抜けてレスが飛び出す。


 同時にナギの右手が閃く。


 レスの目の前を毛糸のボンボンが横切り、瞬間的に反応した猫の爪がそれを捉える。


 ナギの持った棒からボンボンにつながる紐が、それを強引にレスの爪から引き抜くと、挑発するように左右に揺れる。


 レスは野生の本能を解放し、ボンボンを仕留めにかかる。


 しかし今度は空振り。ボンボンは床を滑るようにテーブルを回り込む。


 レスもそれを追いかけ、テーブルを一周したところでキャッチ。夢中でかぶりつく。


「猫の……おもちゃ」


 最悪の展開にならなかったことに安堵し、浮いていた腰を下ろした。


「カケルの家族にさぁ、ひどいことするわけないじゃん」


 ナギがレスを操りながら言う。レスがなにかに気づき、改めてナギを警戒するが、続けて取り出された猫用ボールが跳ねて転がるのを追いかける誘惑には勝てなかった。


 そのままナギもレスも楽しそうに、たっぷり十五分は遊んだころには、レスはナギに腹を撫でるのを許すほどに懐いていた。


 俺はその間なにをしていたかって?


 大好きな彼女と可愛い猫がじゃれあっているのを、特等席で堪能していたんだよ。


「レスちゃんも、カケルのこと大好きなんだねー」


 ナギが可愛いことを言っている。


「じゃあ、一緒にいこうか」


 ナギがレスを抱えてこっちて向かってきた。


「え、なにを?」

「えー、だってレスちゃんだけズルいじゃない」


 諦めてなかった! 懐柔かいじゅうされた怪獣かいじゅうも、嬉しそうに鳴いている。


 さすがにここにきて、拒絶できる空気ではない。なにごとも起こらないよう祈って、覚悟を決めるべきか。


 ナギもいざとなると多少意識してしまうのか、じわりじわりと迫ってくる。

 俺は逃げるわけにもいかず、かといって両腕を広げて迎え入れる勇気もなく、ただただ混乱していた。そのときだ。


「お茶をお持ちしましたー!」


 バンッと突然開かれた扉から、元気よくキクが入ってきた。

 彼女は部屋の中の状況を確認したあと。


「ちっ、早すぎたか」


 呟いて、三つの紅茶カップを乗せたお盆をテーブルにそっと置く。

 そして優雅な仕草でクッションに座りながら、カップを一つ手に取った。


「お気になさらず、続けてくださいませ」


 硬直する俺とナギを置いて、ナギの腕から抜け出したレスがキクの膝に乗ってゴロゴロと喉を鳴らす。


 怒るわけにもいかず、かといって全面的に歓迎できるわけでもなく、なんだかもやもやしたものを残したまま、俺とナギもテーブルについた。

 その日は歓談にて時を過ごすのであった。

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