十四話 「『富に招かれし者』」
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「お嬢様が大変申し訳ございませんでした」
老紳士、執事のディズレー・イチムラが志郎に謝罪する。
「いえ、ご無事で何よりでした」
かなり激しい事故であったので、正直エリスとディズレーが無事で良かったと心底思う。
最低でも、むち打ちは覚悟せねばならない衝撃に見えたからだ。骨折してもおかしくなく、最悪は死ぬ可能性すらあった。ただ、見た目よりもダメージがなかったようで、二人ともピンピンしている。
「ありがとうございます。こう見えてもまだ現役ですので。それにお嬢様もそれなりには鍛えておりますから」
ディズレーは、相変わらず堂々と先頭を歩いているエリスに目を向けた。
(たしかに訓練している人間の歩き方だ)
志郎もエリスの後姿を見て、彼女が素人ではないことを知る。少なくとも、あれだけの事故を乗り切るだけの実力はあるようだ。
それはドレスを着ている少女には不似合いであるが、彼女の強い目を見ていた志郎には、さして不思議には思わなかった。
「彼女は武人なのですか?」
「いえ、資質はあるようですが…まだそこまでは」
「では、心が強いのですね」
志郎は、心の強さがもっとも大事であることを知っていた。武人が発する戦気も精神エネルギーの結晶なのだ。芯の強さは実際の強さに反映される。エリスが生粋の武人ではなくとも、その心の強さが彼女を強くするのだろう。
その気持ち。
その気迫が、人を強くするのだ。
それは声にも表れる。だからこそ兵士たちもエリスには触れなかったのだ。まるで炎のような彼女の佇まいが、触れることを躊躇させたのだ。これが強さでなくて何と言うのか。
「ところで取り調べは大丈夫でしたか? 少し長引いたようですが」
「そちらも問題ありません。我々は招待客ですから」
「招待…ですか。こんな日に?」
「ええ、まあ。いろいろと事情がありまして…」
このような厳重な警備が敷かれた日に、アピュラトリスに招待される。その異常さは、都会の事情に疎い志郎でさえ、すぐにおかしいとわかるほどだ。
あの騒動のあと、即座に軍による身元照会が行われた。それが多少長引いたので志郎は心配していたのだが、結局エリスとディズレーは無罪放免となった。
それは彼らが【呼ばれた人間】であったからだ。
エリスは正式にアピュラトリスから招待を受けており、普通に来れば検問も通してくれたはずである。彼女が慣れない運転をしなければ。
「しかしまた、どうしてエリスさんが運転を?」
「お嬢様は昔からああいうところがありまして…。火がつかれると止められないのです」
エリスは招待されたにもかかわらず、検問がしつこいことに腹が立ったようだ。そして強行突破に出たという。実に短絡的な行動である。
ただ、ディズレーはエリスが生まれた時から仕えている執事であるので、まるで自分の娘か孫のように彼女には甘い。彼女にせがまれると断れないのだ。
というよりは、エリスが強引にハンドルを奪ったので、彼では対抗できなかったのが真相である。しかし、執事である以上、今回の一件には強い責任を感じていた。
「このたびはご迷惑をおかけしました。大変申し訳ありません」
「まったくだぜ。いい迷惑だ」
「ディム、やめなよ。もういいじゃないか。誰も怪我がなくてよかったよ」
冷静に考えると、デムサンダーはまったく迷惑を被っていないのだが、あまり自分たちのことを詮索されたくないこともあり、志郎はそのあたりには触れないでおいた。
ディズレーたちは、志郎をダマスカス軍の関係者だと思っているようなので、そう思わせておくほうが得策だろう。
「志郎、ああいう女は甘くするとつけあがるもんだ。お前が優しいのは仕方ないが、なめられたら終わりだぜ」
「でもさ、困っているようだったからさ」
「はあ? あれのどこが困っているんだ?」
エリスは鋭い視線で兵士たちを威圧しつつ、背筋を伸ばして歩いている。エスコートしろとか言いながら、どう見ても誰にも頼っていない姿が印象的だ。
「あんなやつに護衛なんていらないだろう?」
「それでも女の子だよ」
「かー! だからお前は女に利用されるんだ! いつもそうだろう!」
「だって、困っていたら助けたいじゃないか」
「…志郎、お前はやっぱり病気だよ」
デムサンダーは、相方のあまりのお人好しぶりに呆れるどころか、寒気すら感じる。この男を一人にしたら危ない。必ず騙される。変な女に騙されるに違いない。
が、これは未来の出来事ではない。
絶賛今、利用されている最中なのだ。
現在、志郎とデムサンダー、それとエリスとディズレーの四人はアピュラトリスに向かっていた。軍のほうから彼女たちの案内と護衛を頼まれたからだ。
周囲にも異常はなく、暇を持て余していた状態なので引き受けたが、デムサンダーはあまり乗り気ではないようである。エリスのようにやかましい女性は好きではないようだ。
(どうにも危ない感じがするんだよな)
デムサンダーがエリスを嫌うのは、単に最初の印象が悪かったからというだけではない。その身にまとう雰囲気が、どうにも危なっかしいのである。
当然、車で暴走するような少女なので、誰が考えても危ないのは明白であるが、それ以上に危険な雰囲気がするのである。
デムサンダー自身はいい。そんな修羅場はいくらでも潜っている。が、志郎は見ての通りのお人好しである。相方を変な騒動に巻き込むのは本意ではなかった。
しかもエリスは、エルダー・パワーがわざわざ護衛するほどの人間とは思えない。それは大統領の護衛にアミカとチェイミーがついていることからもうかがえることだ。
エルダー・パワーの人材、それも席持ちの武人を、たかが少女の護衛につけるなど、実にもったいない使い方である。それも司令部に伝えたのだが、答えは変わらず「両名にはエリス・フォードラの護衛を最優先事項としてあたってほしい」とのことである。
どうやらアピュラトリス側の要請のようで軍も断れないような雰囲気である。当然、志郎たちも簡単には断れない状況だ。
「よほど嫌われているらしいな、俺たちはよ」
デムサンダーは吐き捨てるようにぼやく。
「仕方ないよ。塔からの依頼なんだ」
「そんなの口実だろう。結局、俺たちを信用していないんだよ」
エルダー・パワー自体に疑念を抱く軍人は多い。個に優れているとはいえ、数万の兵士が警備にあたっているのに、たかだか十人にも満たない人間に頼るなど馬鹿馬鹿しい、というのが彼らの共通認識である。
それもあながち間違っておらず、この中でエルダー・パワーの武人は突出してはいるものの、何千という兵士を同時に相手にすることは難しいだろう。結局は数と武器なのだ。
志郎やデムサンダーがもっとも得意とするのは、一騎打ちでの個での戦いや少数対少数の戦い、あるいはもっと限定した場所での戦闘である。つまり敵に強力な武人がいた場合、それを抑えるのが彼らの役目なのだ。
しかし、軍人には軍人の誇りがある。仮に強力な武人が現れたとしても、けっして彼らの助力を願うことはないだろう。そもそも彼らはエルダー・パワーを必要としていないのである。
それは、こうして歩いていても周囲からの視線でよくわかることだ。誰もが懐疑的な視線で志郎たちを見ているのだ。
「体よくお払い箱になったってことだ。いいさ、あんなやつら、守ってやる義理はないもんな」
「そう怒らないでよ。大きなことじゃないけど、個人の護衛も悪くない仕事だよ。退屈よりましだろう?」
「お前は護衛が好きだからいいけど、俺は苦手なんだよな。弱いやつを守るのはさ」
護衛は志郎の得意分野である。こういった類の仕事において、志郎はエルダー・パワーでも相当な力量を持っている逸材だ。
だからこそ志郎が大統領の護衛につくとばかり思っていたのだが、幸か不幸か大統領が少年ハートを持っていたので、男である彼らはあっさりと除外されたというわけだ。
「それはそうと、アピュラトリスに呼ばれるとは、すごいことなのではありませんか?」
志郎がディズレーに話しかける。ずっとそこが気になっていたのだ。自分たちでさえ、入るのにはかなり手間取るアピュラトリスに招待されるなど、志郎にとっては驚きである。
アズマは一週間以上も前からチェックを受けてようやく入れたくらいだ。それからずっと志郎たちも外の警備をしていたが、アズマ以降、この中に入った人間は数えるほどしかいなかったのだ。
さらに外に出たのは、今日外出したヘインシーだけである。それもまた驚きではあったが、現在は万一のことも考えて業者も立ち入りを禁じているほどなのだ。
見たところエリスは良家のお嬢様であるようだが、なにせアピュラトリスは富の塔。どこぞのお嬢様クラス程度が入れる代物ではないのだ。大統領でさえ、厳重なチェックを受けなければ入れないのだから。
「どこぞのワガママ姫なんじゃね?」
デムサンダーは、エリスの振る舞いから適当にそう判断する。半分は、自分を姫だと思っているかわいそうな女、という皮肉の意味合いもありそうだが。
そもそもダマスカスは王制ではないので、王族や貴族という存在はいない。アピュラトリス(アナイスメル)を研究する学者たちが作った国ゆえに、そういった階級は存在しないのである。
ただ、東の海を越えればすぐシェイク・エターナルがあるので、人種としてはシェイク系ダマスカス人が三割、ルシア系とロイゼン系が二割と、各国からの移住者も多いのが特徴だ。
フォードラの名前もシェイク系の響きがある。もしかしたら遠縁か何かが貴族や大金持ちだった、ということもありえなくはない。
「これにはいろいろと訳がございまして…」
エリスに聞こえないようにディズレーは小声になる。
フォードラはれっきとしたダマスカスの家柄であり、その歴史はそれなりに古いのである。
ダマスカスには貴族制度はないものの【家】というものがある。長年ダマスカスに貢献した家柄、政治家の家柄などが影響力を持つのはどの国も同じである。
フォードラ家もそうした家の一つであり、何より【軍人の家柄】である。
彼女が軍人に対して物怖じしないのはそのためだ。生まれた時から軍人と接し、その生き方を学んだ彼女だからこそ、あのように凛々しく育ったのだろう。
ただしフォードラ家は、すでに家としては大した力を持っていない。父親も亡くなり、母と子と執事一人となった現在、慎ましく生きていけるだけの蓄えはあり、静かに余生を過ごす人生でもよいとディズレーは考えていた。
しかし、エリスの考えは違った。
フォードラ家は誇り高き軍人の家柄。不幸にも男子は生まれなかったが、ならば自分が家長となればよいと考えたのだ。そして再びフォードラ家の力を取り戻そうと決意した。
とはいっても、彼女一人ではどうすることもできない。かつての父のつながりを通じて他家と接触しても、勧められるのは縁談ばかり。あくまで彼女をただの女としてしか見ていない者たちばかり。
当然エリスの性格上、すべてぶち壊して終わるを繰り返す。国の未来ではなく、自分たちの利権しか考えない人間にも嫌気が差し、当時のエリスは相当荒れていたという。
そんな時、アピュラトリスから招待状が届いた。これを逃すつもりはない。なにせこの塔こそがダマスカスなのだ。ここに入れば何かが変わるのは間違いない。
「フォードラ家はすごいのですね」
志郎は素直に感心する。理由がどうあれアピュラトリスに呼ばれるのは光栄なことなのだろう。特にこうした出世を狙う人間にとっては最大のチャンスなのだ。
「そうだとよいのですが…」
少なくとも外野はそう思う。エリス当人もそう思っている。しかし、ディズレーはアピュラトリス行きには反対だった。
それはとても簡単な理由である。
アピュラトリスが、いや、ダマスカスという国家がフォードラ家を必要とする理由がまったく見あたらないからだ。すでに落ちぶれた家にすぎない。エリスは若くそれなりに美しい娘だが、ただそれだけだ。その程度ならばこのグライスタル・シティには山ほど存在している。
だからこそ、それ以外の意図が怖いのだ。
「で、どうしてドレスなんだ? 浮いてねえ?」
デムサンダーはずっとエリスの服が気になっていた。どう考えても普段着ではないだろう。自分が言えた義理ではないが、この場でさすがにドレスは浮いているように思えた。
「あれはお嬢様にとっての挑戦なのです」
エリスは普段、男装のような格好を好む。父親に憧れていたこともあるし、さんざんお見合いを勧められたことでさらに悪化したようだ。
だが今回は、アピュラトリスに招待されたことに対する彼女なりの挑発、あるいは自己主張なのかもしれないとディズレーは感じていた。
「それがどうして挑戦になるんだよ?」
「アミカさんと同じかもね」
「ああ、なるほど」
志郎の頭には真っ先にその女性の名が浮かぶ。その名を聞いてデムサンダーもすぐに納得した。
アミカ・カササギもまた、自分が女であることを事あるごとに嫌っている。それは当人だけの秘密なのだが、「くそっ、女でなければ」「男のくせに」などと言っているのがたまに聞こえるので、ああそうなんだなと周りには筒抜けであった。
エリスもまた、あえて女であることを強調することで、今まで自分を女としてしか見なかった者たちに皮肉を叩きつけているのだ。そして、屈辱を自ら味わうことで、この痛みと目的を忘れないようにと。なんとも豪気な女性である。
「ディズレー、余計なことは言わなくていいわ。それよりずいぶんと物々しいのね」
エリスが気になるのは、周囲に武装した兵士だけでなく戦車やMGなども至る所に配置されている点だ。
アピュラトリスの大きな外周を完全に埋めてしまうほどの量である。よくこれほどの兵を集めたものだと感心すらしてしまう。
ただ、これでも陸軍の一割強程度である。ダマスカスの領土は比較的小さいので、軍人そのものは三十万程度と少ない。ここに傭兵部隊やその他の勢力を加えるとさらに増えるが、ルシア帝国が純軍人だけで一千万人以上なので、それと比べれば可愛いものである。
それでもエリスにとっては、十分すぎる戦力に見える。
「ふん、これが力なのね」
まるでいつか自分が手に入れるかのような口振りでダマスカス軍を見る。
エリスにとって軍とは特別なものである。父親が陸軍出身だったこともあり身近な存在であることと、今は失ってしまったかつての栄光に対して感じる嫉妬。両者はどちらもエリスにとって大切なものなのだ。彼女が上に行くためには。
だからこそ自分を売るような真似すらするのだ。
エリスとて分別ある女性だ。自分が呼ばれることに対して疑念を抱かないわけがない。ただ、一個人の欲望でどうこうしようというものではないこともわかっていた。
この富の塔が求めるのは富だけなのだから。
(ここには富があるのよ。何があっても入らなくちゃ)
富の塔に入ればチャンスが生まれる。それだけは間違いないのだ。が、富の塔は逃げはしない。それより今の彼女は、目の前の青年たちに興味があった。
「あなたたちは軍人なの?」
「うーん、軍人ってわけじゃないんだけど…何て言えばいいのか…」
エリスに問い詰められ、答えに窮する志郎。しかし、エリスはさらに食いつく。
「普通じゃないわ、あなた」
「え? そ、そうかな」
「すごい力を感じるわ。残念だけど、あっちの黒いほうもね」
エリスは二人が【違う】ことに気がついていた。軍人の中に普段着の人間がいれば目立つのは当然なのだが、それ以上の何かを感じる。もっと強いエネルギーのようなもの。特に志郎などは小さいのに雄々しい何かを感じさせる。
彼女が志郎を選んだのは、けっして外見がどうこうではない。外見だけ見れば垢抜けていない純朴な青年にしか見えない。
しかしそんな彼が、この場でもっとも強いエネルギーを秘めていることに惹かれたから自然と目に入ったのだ。外見では測れない、奥底に秘めた力強さ。
それはまるで自分のようであったから。
エリスは無意識のうちに志郎と自分を重ねて見ていたのだ。彼を選んだのは、そうした理由もある。
(ほぉ、ただのお嬢様ってわけじゃないようだな。志郎の力を見抜くとは、なかなかだ)
デムサンダーはエリスの内面を見る目に感心する。相方の志郎は、その外見から相手に軽く見られがちであるが、秘めた力はデムサンダーを凌ぐものがあるほどだ。
そうした要素を見抜いたエリスを少しばかり見直す。そして、デムサンダーはエリスが自分たちの中にある【大きな意思】に感づいたことを悟った。
(そりゃ、普通の人間が俺たちに近寄るわけもないか。近しいものがあるんだ)
エルダー・パワーは正統なる武を継承する者たちであるが、組織としては裏、闇に属する存在である。歴史の陰に潜み、密かにダマスカスを守る存在なのだ。
それに近づけるということは、エリスもまた普通ではないことを意味している。普通ならば、他の兵士のように距離を取ろうとするものだ。存在が違うことを無意識に悟るからだ。
(それに、案外伸びるかもしれねえな、こいつは)
エリスの武人としての能力が低いのは、あくまで現段階での話である。ディズレーも検査の結果を見て、そう判断したにすぎない。
しかし、人間の可能性というのは簡単に測れるものではない。何がきっかけで覚醒するかわからないのだ。さすがにまだ常人レベルなので、内包された戦気までは見えていないだろうが、自分たちのオーラが常人とは異なることはわかっているようだ。
つまり、彼女にも高い武人の素質がある。
デムサンダーが見たぶんには、まだその資質は非常に小さい胚芽の状態である。ゆらゆらと小さなかがり火が、ようやく灯った段階にすぎない。だが、だからこそまだまだ伸びる可能性がある。
「で、あなたたちは何者なの?」
「えーっと…僕たちは外部の人間なんだけど、今回は助っ人に来ているのさ」
エリスの追及が止まらないので、仕方なく志郎は最低限の情報を開示することにする。あくまで最低限であるが。
「助っ人? あなたが?」
ただ者ではないと思ってはいたが、さすがに助っ人という言葉には驚く。周囲は武装した兵士だらけなのだ。助っ人ということは、彼らでさえ対応できない事態に対応できる何かを持っていることになるからだ。
「僕たちは、ちょっと特別な格闘技の道場の出身でね。それが必要になることがあるかもしれないってことなんだ」
「ふーん…だからなのかしら」
エリスは、志郎に宿る力が「そういったもの」であることを本能的に察していた。志郎は小さいのに、なぜか周りよりも強そうに見えるのだ。その理由がわかって、少しだけ納得する。
ダマスカスでも格闘技の道場は普通に存在し、ボクシングや柔道のようなものもある。戦士の資質を持つ者がいれば、一部の道場では覇王技も教えてくれるだろう。
ただし、やはり基本までなのだ。仮にそれ以上の力を持つ者がいれば、秘密裏にエルダー・パワーの調査員が向かうことになっている。
奥義や秘術を扱うとなれば資格が必要となる。悪用されればとんでもないことになるので、まずはその【心】を試さねばならない。失格だと判断されれば、最悪排除されることもあるほどに厳しい掟がある。
そういった意味合いでは、エルダー・パワーはすべての道場の監視官であり、元締めのような立場にあるといえる。しかし、それらは恐怖ではなく、畏怖と尊敬によって成り立つ関係である。
ダマスカスで武芸に関わる者は、総じて紅虎丸を敬愛しているものだ。その直接的な力を受け継いだマスター・パワーには、誰もが尊敬の眼差しを向けるものである。
赤虎が駄目だといえば、どんな事情があってもすっぱり切られるほどに影響力がある。それが正しいと知っているからだ。
「エリスさんは武芸の心得は? 訓練しているんでしょう?」
「エリスでいいわよ、志郎。武芸は一通り習ったけど、続いたのはジャーリードくらいかしら」
エリスは軍人の家系ということで幼い頃から武を学んでいる。いくつか学んだ中で一番しっくりきたのが合気道、さらに合気道の中でもより攻撃的だといわれているジャーリードと呼ばれる武を学んだ。
コンバットサンボに似たもので、打撃・投げ・極め有りの、はっきりいえば何でもありの武術である。ただ、どちらかといえば相手を転ばせたり制圧したりすることに向いているので、実戦で使うためにはナイフのような武器との併用が望ましいとされる。
ドレスで隠れてはいるが、エリスの腰にはやや長めのナイフが二本装備されている。相手を転ばせ、ナイフでとどめを刺すのが基本の戦闘スタイルなのだ。
「へぇ、ジャーリードか! いいね!! あれはいいものだよ!」
今までおとなしくあった志郎が突如食いつく。実は志郎は、格闘技には目がないのだ。
「な、なんですの。顔が近いですわよ!」
急に顔を近づけられ、思わず年頃の少女らしい反応をしてしまうエリス。強がっていても、やはり少女であることには変わらないようだ。
「あっ、ごめん。つい嬉しくてね。僕は【柔術】を使うんだ」
志郎はエルダー・パワーの戦士第七席に位置する武人である。ちなみにデムサンダーは戦士五席。
戦士として腕力に優れているわけではない志郎が選んだのは、より効率的に相手を制する柔術であった。
戦場ではなかなか組み合う余裕がないので、戦士の攻撃は殴る蹴るが主体となりがちだが、当然ながら覇王技の中には投げる・極めるといった技もある。
しかし、こうした技は地味なためか、道場に通う戦士志望の人間にはあまり受けがよくない。多くの門下生は、だいたい派手な格闘術を学ぼうとするので、実際に柔術を体得している武人の数は少ないのが現状だ。
ただ、組み技は熟練すれば相当に強力な技であり、エルダー・パワーにおいては集団戦闘術の領域にまで昇華されている。志郎はそれを体得している達人である。
そして柔術は、打撃系のデムサンダーと組むことで強力な力を発揮する。志郎が相手を崩したところにデムサンダーの強力な打撃を与えれば、いかに強靭な武人であろうともただでは済まない。この二人は相性抜群なのだ。
まさに凸凹コンビであるも、だからこそ最高に噛み合う。デムサンダーも志郎のことを最高の相棒だと思っているので、常に二人組で動くことをマスター・パワーに承認されているほどだ。
ただ、やはり柔術は地味なので、志郎と師範しか扱える人間はおらず、日々寂しい思いをしていたのは事実である。毎回同じ人間と組み手をやっても、やはり飽きるものだ。
だからエリスがジャーリードをやると知って、素直に嬉しいのだ。志郎の中では、エリスがただの護衛対象から「同好の士」となった瞬間であった。
「ねえ、仕合ってみようか! どんな技使うの!? ねえ、ねえ!」
「ちょっと、私はドレスですわよ」
エリスはドレスだ。スカートである。投げても投げられても見えてしまう。いくら軍人の家柄でも、若い彼女には恥ずかしいだろう。
「あっ、ごめん。ついうっかり」
根っからの格闘技好きな志郎は、それ以外のことにはあまり頓着しない性格である。
彼がアズマを気にするのは、武に対しての姿勢が似ているせいもあるのだろう。唯一異なる点は、アズマがどんな相手でも敵であれば殺せるのに対して、志郎はそれができない点だけである。
「まったく、抜けている人ですわね。そんな様子で警護が務まるのですか?」
「僕だって少しは役立つんだけどな」
そう言って笑う。その笑顔は素朴で、人を安心させる力が宿っていた。そのおかげかエリスの中にあった妙に張りつめていた緊張感が薄れていく。
「ねえ、エリスはどんな技が好きなの? ドレスでもできる技ってあるの?」
仲間だと認識した瞬間から、志郎の距離は一気に近くなった。一応、今までは他人行儀だったのである。実際の彼はとても人懐こく、同じ里の人間に対しては触れ合うほどに近い距離を好むのだ。
(この距離感…近すぎますわね)
ほぼ密着するような距離で屈託のない笑顔を向ける志郎。さすがに近すぎる。
人間には、他人に一定の距離に入られると不快に感じる、パーソナルスペースというものがある。今までエリスは自分の中に大きな壁を作って生きてきたので、これが異様に広いのだ。
執事のディズレーはともかく、関係ない他人が半径二メートルに入ろうものならば、敵意をもって排除するほどに強力な領域である。兵士たちも、そうした激しい拒絶を感じたからこそ近寄れなかったのだ。
しかし、目の前の青年は、ごくごく自然にそこに入ってくる。まるで昔からの友達のように、あるいは家族かのように。
(…嫌いじゃない…ですわね)
本来ならば拒否するところであるが、なぜかエリスには不快に思えなかった。戸惑うのは慣れないからであって、嫌いだからではない。
こんな感情を抱くのは久しぶり。そう、父親以外にはけっして許さない距離感だったのだから。
「あなたは自然なのね。だから強いんだわ」
「どういう意味?」
「いいえ、いいの。もうわかったから」
志郎には害意がないのだ。友好的で他意がなく、エリスを利用するつもりなどまったくない。同時に迷惑とも思っていない。むしろ純粋な興味をもって接してくれる。
それは彼が自然体だからだ。
人は自然の風を受けたとき、心地よいと感じる。心が洗われた気分になる。もっと浴びたいと思う。着飾ることをしない自然は、ありのままの自分を教えてくれるからだ。
だから彼は強いのだ。
小さくても大きく見えるのだ。
それに気がついた時、彼女は決断した。
「馬鹿馬鹿しいですわ」
そう言って、ドレスのスカートを破いた。
「ええ!? どうして破ったの! 何がわかったの!?」
何がわかったのか理解できない志郎は動揺。すでに見えそうになっているほど短くなってしまったドレスの丈に目のやり場に困る。
だが、エリスはそんなことは気にもせず、ディズレーに合図を送る。
「ディズレー、着替えます」
「はい、お嬢様」
そう言ってディズレーは持っていたトランクを開き、簡易更衣室を取り出して設置する。志郎もなんか大きいなーと思っていたのだが、こんなものを入れていれば大きいのも当然である。
エリスは中に入り、着替え始める。周囲の軍人は、それをパンダでも見るような奇異の視線で見物していたが当人は気にしないようだ。
「女ってものは、もっと恥じらいがあったほうがいいと思うんだがな」
そうデムサンダーは思うが、エルダー・パワーの面々は女性であっても基本的に武に特化しているので、そうした恥じらいにはまずお目にかかれない。
アミカにしてもチェイミーにしても、どこか一般の女性とは感性が違うのだ。里の中を上半身裸で歩くなど往々にしてあるし、チェイミーは全裸でいることもたまにある。
それゆえかともに暮らす家族ゆえか、デムサンダーは里の女性に恋愛感情を抱いたことがない。当然、志郎もそうだろう。それと比べればまだましだが、エリスも彼女たちと同じタイプであるのが残念でならない。
そして、着替えたエリスが出てきた。
シャツに厚手のジャケット、パンツスーツといった身軽な姿である。杏色の美しい長髪も三つ編みになっていた。これがいつもの彼女の姿なのだろう。
それだけならばよいのだが、なぜかそれらは迷彩色で統一され、腰にはナイフだけではなく、さりげなく手榴弾や短銃まで装備されていた。明らかに軍人仕様である。周囲に混ざっても違和感がない。
「エリス、戦争でもしに行くのかい?」
と志郎が言いそうになったのをぐっと我慢する。
「こっちのほうがいいでしょう?」
「そ、そうだね。でも手榴弾はいらない気がするけどね」
「いざというときのためですわ」
その「いざというとき」がどんなときかわからないが、表情はさきほどよりも生き生きとしており魅力的に映る。これが本来のエリスなのだろう。
「これは閣下! はい。…ええ、はい。問題ありませんが…は? はい。表から見るぶんには…」
志郎たちがアピュラトリスの入り口前に設置してある作戦本部に入ると、一人の男が電話中であった。
男の電話相手はかなり上の人間のようで、声がやや緊張している。男は入ってきた志郎たちを見ると、目で少し待てと合図を送る。
「電話中みたいだね。少し待とうか」
その様子を見た志郎はエリスたちを応接室に案内する。
この作戦本部は軍隊が使っている簡易式のコテージで、すぐに組立解体ができる便利なものである。
ただコテージとはいえ、比較的大きいタイプなので五十人くらいの人間なら簡単に収容できるようだ。さらに特殊な合金が使われており、普通の弾丸くらいでは倒れることはない強度を誇る。
年々軍事費は削られているものの、ところどころには「さすがダマスカス」という装備がふんだんに使われているのが見て取れる。
「ディム、すごいよ、これ! 沈むよ」
「うちのボロ椅子とは雲泥の差だな」
志郎たちが座ったソファーもなかなか高級品であった。
エルダー・パワーがいる小さな村にあるのはくたびれた椅子か、すでに何十年も変わらずに鎮座する座布団くらいなもの。それとはまったく違う座り心地に地味に感動する。
一度新しい布団の購入を師範に訴えたことがあるが、「なんなら毎日野宿でもいいんだぞ」と脅され、泣く泣く清貧に甘んじている彼らにとっては感動しかない。
「貧乏臭いですわね。こんなもので感動しないでくださいな」
そう言うエリスも、自分の家よりも沈むソファーに埋もれているが。
「私は招待客ですよ。待たせるとはマナー違反ではなくて」
「客ってのは謙虚であるべきじゃないのかね」
エリスの言葉にデムサンダーがつっこむ。なんだかんだいってエリスの存在にもすでに馴染んでいるようだ。
エルダー・パワーには孤児が多いので、新しい子供ともすぐに仲良くなれる土壌がある。そういった一体感は、志郎にとっても誇れるものであった。
「待たせたな」
陸軍軍服を身につけた赤銅しゃくどう》色の髪をした壮年の男、コウタ・メイクピーク大佐が電話を終えてやってきた。
「電話中に突然すみません」
志郎が頭を下げようとするとメイクピークは手で制する。
「かまわない。君たちこそ居心地が悪い場所で大変だろう。少し休んでいきなさい」
メイクピークは軍一筋二四年の実直な軍人なので、本来ならばエルダー・パワーに対して懐疑的であっても不思議ではない。
が、メイクピークは志郎たちに対して友好的であった。上層部からの信頼もあったし、何よりも彼自身が優れた武人であることも理由の一つである。
志郎はもちろん、先に会ったアズマを見た時には背筋が震えたくらいだ。また、彼の祖父が武術道場を開いていたこともあり、かつてダマスカスで栄えた偉大なる武の力を知っていたことも影響したのだろう。
そのせいか志郎やデムサンダーの面倒もよく見てくれる。年齢も四十は過ぎているだろうから、志郎たちからすれば頼れる兄貴あるいは叔父貴、といったところだろうか。
メイクピークはエリスに目を配らせながら、手元にある書類を確認する。
「報告にはドレスとあったが?」
「あれはもう捨てました。無粋でしょうから」
エリスは手榴弾を手で転がしながら答えた。どちらが無粋かは微妙なところだが、ここが軍のコテージであることを思えば、この姿もあながち間違ってもいないのかもしれない。と志郎は思うことにした。
「フォードラ准将のお嬢さんがいらっしゃるとは不思議な縁だ」
一瞬エリスは首を傾げた。父親の階級は中佐だったはず。特に殉職したわけでもないので、准将にまでは到達はしなかったはずだ。
しかし、ふと【祖父】が准将であったことを思い出す。本来ならば忘れることはないが、父親が死んだあとのことが大変ですっかりと記憶から抜け落ちていた。
「祖父をご存知なのですか?」
「それはもう。陸軍ならばたいていの人間は知っているよ」
エリスの祖父、ゴードンは陸軍の中でも武闘派に属する武人肌の人間で、武人の血が強い軍人からの支持を得ていた。
メイクピークも武を重んじる軍人であるので、若き頃よりゴードンの思想に傾倒し、迷うことなく彼の派閥に入った経緯があった。
だが、当時のダマスカスは軍部縮小を唱える大統領が政権を担っていたため、ゴードンら拡充派は非常に苦しい立場に追いやられていた。
そして、最後は既得権益を重視するダマスカスでの権力闘争に負け、その流れでフォードラ家も半ば潰れかかることになる。
将校にまで上り詰めれば、通常は軍から支援があるものなのだが、それがなかったことから陸軍内では見せしめではないかという見方が有力である。
「何もできずに申し訳ないと思っている。口で言ったところで信じてもらえないとは思うが…」
同じ武闘派とはいえ、メイクピークも軍人なのだ。上からの命令には従うしかなかった。何より、その程度の力しかなかった自分が今でも口惜しい。
しかし、エリスはそれを責めない。
「過去には何の価値もありません。詫びも礼も結構です。わたくしは今を生きておりますから」
エリスは家長となると決めた時から、過去にこだわるのをやめた。誇りではあっても、少なくとも過去の栄光にすがることはやめたのだ。
それによって救われるものはなく、ただ惨めな哀れみしか受けないのならば、そんなものは願い下げである。
エリスが求めているのは【力】。
今を勝ち抜く力なのだ。
「君は准将の血を受け継いだようだ」
メイクピークは、エリスのその表情にかつての祖父の姿を垣間見る。雄々しく、けっして過去を振り返らない姿勢はそっくりであった。
「ところで大佐、エリスをアピュラトリスの中に送りたいのですが…」
志郎が頃合いを見計らってその旨を告げる。
アピュラトリスの入り口はいつも以上に厳重に警備されており、入る場合は通常の検査とともに、こうして軍部のチェックも受けねばならない。ここに立ち寄ったのは、そのための許可を受けに来たのだ。
「中にか…。私にそれを止める権限はないようだ」
特別な相手にしか招待状は送られない。おそらく面倒な検査もパスされる可能性が高い。これはアピュラトリス側からの要請なので軍部といえども口出しはできない。
しかしながら、メイクピークは少し不思議な言い回しをした。それが志郎には気にかかる。
「何かあったのですか?」
志郎は、ふとさきほどの電話を思い出す。声の雰囲気からして明らかに普通の会話ではない。異様な緊迫感が込められていることを志郎は見抜いていた。
「うむ…」
メイクピークは話すかどうか迷ったが、知ったところでどうにかなる問題でもないので口を開く。
「さきほどバードナー中将から電話があった。内容は、アピュラトリス内部の再調査についてだ」
バクナイアから命令を受けたバードナーは、まずメイクピークに連絡を取った。そこからアピュラトリス側に接触を図るためである。
現在、アピュラトリスは隔離された状態にある。電話であっても外部からのアクセスを遮断するように設定されている。これは連盟会議中の限定措置である。
世界中からさまざまな人間が集まっているため、中には邪な考えを抱く人間がいるかもしれない。また、すべてがダマスカスに好意的ではない。警戒はしておくほうがよいという判断からだ。
普段アピュラトリスにこもっているヘインシーが外に出ているのも、こうした隔離状態が前提となっているためだ。この間は誰であろうとも外部からアクセスすることができない。
唯一このコテージにはアピュラトリスとの専用回線が設置されており、内部とのやり取りが可能となっている状態となっている。だからバードナーはメイクピークに連絡を取ったのだ。
それだけならば問題はないのだが、メイクピークは現在少し困っていた。
その理由がこれである。
「アピュラトリス側が査察を受け入れてくれないのだ」
バードナーの指示でアピュラトリス内部と接触を図ったが、現状では異常が見られないという理由で、アピュラトリス側が軍部の介入を拒絶したのだ。
これはバクナイアから発せられた命令であることが一つの要因でもある。彼らは自由な経済活動を行うために、軍からの介入を極端に嫌う傾向にあるのだ。
陸軍出身の防衛長官からの命令を簡単に受けては、内部干渉につながりかねない。それは安全神話を持つアピュラトリスという象徴を穢すことになる。相手はそう考えているのだろう。
ただし、ヘインシーが命令したとしても結果は同じだっただろう。あくまで当人がここに来なければ応じない。それがアピュラトリスの徹底した機密保持を成立させているのだから。
それを知っていながら、ヘインシーはバクナイアに頼んだのだ。重要なことはアピュラトリス側に危機を知らせることと、実際の戦力を付近あるいは内部に集めることなのだ。拒否はされたが、少なくとも異常な事態であることは伝わったはずだ。
「何か起こったのですか?」
志郎は自分の中の不安がざわついたような気がした。もし起こっているのならば見極めたい気持ちにもなる。
「いや、まだ単なる確認にすぎない。確証はないのだ。ただ、国防長官から直接というのが気になる」
連盟会議中であるため、こうした確認は何度も行うのが自然だ。慎重すぎて困ることはない。
問題は、国防長官のバクナイア経由での指示であるということ。
たしかにバクナイアは国防のすべてを担当しているが、こうして直接具体的な命令を発するのは稀なことである。そうしたことは普通、陸軍省経由で送られてくるのが一般的だ。
しかも首都防衛の最高責任者のバードナー中将まで出てくれば、さすがのメイクピークも異常であると気がつく。明らかに何かが起きているのは間違いないのだ。
しかしながら、まだあくまで確認の段階。強引に軍を突入させれば、アピュラトリス側との軋轢はさらに深まるだろう。
もし間違いであれば、ただでさえこのような世界情勢なのだから、ダマスカスの恥というだけでは済まない事態になる。メイクピークの首くらいは確実に飛ぶだろう。
「くだらないことですわね。いつからダマスカスは虚栄心に支配されるようになったのですか。所詮、犬の縄張り争いではありませんか。強行できないのですか?」
エリスは辛辣な言葉でダマスカスの堕落を指摘。こうした腐敗と堕落は、彼女が今まで嫌というほど見てきたものだから、なおさら嫌悪感を抱くのだろう。
「耳が痛いな。しかし、これがわが国の現状でありシステムだ」
アピュラトリスによってダマスカスは生きている。人権があるのも民主主義のおかげである。軍が勝手な行動を取れないこともまた富の一部であるのだ。都合よく分けるわけにはいかない。
「私に力があれば変えられるのに…」
エリスのその言葉はつぶやきに近いもので、唇がわずかに動いた程度。それが届いたのは隣にいた志郎だけであった。
エリスを心配そうに見る志郎を見て、メイクピークはふと何かを思いつく。
「志郎、デムサンダー、お嬢さんの護衛ついでにアピュラトリスの中を見てみたくはないか。なかなか貴重な体験だぞ」
「おっさん、回りくどいぜ。素直に護衛を口実にして中を調べてこいって言えよ」
デムサンダーからの的確な訂正を聞いたメイクピークは、苦笑いしながら肯定する。
「そうだが…、素直にそう言ったら従ってくれるのか?」
「俺は遠慮したいね」
誰が好んで牢獄に入るのだろう。少なくともデムサンダーにそんな嗜好はなかった。
「それにだ、中にはあのバトルジャンキーだっているんだ。問題ないさ」
デムサンダーはアズマを嫌っているが、その戦闘力は自分よりも上であることを認めていた。
同じ第五席にいても力量が同等というわけではない。マスター・パワーの赤虎が剣士なので、特に剣士は厳しく見られる傾向にある。アズマの実力は、もう一席は上だと思ったほうがいいだろう。
そんなアズマが中にいるのだ。もし何かあれば、彼が真っ先に対応しているだろう。
「それは私も同感だ。ジンならば実力的には問題ないだろう。しかし、アピュラトリスは広い。彼一人で対応できないこともあるだろう」
「おいおい、その段階で終わりじゃねーか。そもそも、そういうのはあんたらの仕事じゃないのか? 役に立たない軍に価値があるのかよ」
「ディム、言いすぎだよ。大佐は僕たちの味方だ」
「ふんっ」
デムサンダーも、メイクピークが味方であることは理解している。だが、そもそも軍人というものが気に入らないのだ。
軍などの政府機関は大きな組織であるが、そのぶんだけ制約があって動きが遅い。今も互いの縄張りを荒らさないようにと、必死に気を遣いあっているのだ。いつも偉そうにしておきながら、いざというときには役立たない。そんな彼らが嫌いなのだ。
「デムサンダー、それでも軍は必要なのだ。国を守るためには大きな力、数の力が必要なのだよ。私とお前たちは立場は違うが、同じ仲間だと思っている。それは信じてほしい」
「べつに…、あんたを否定したわけじゃないさ。軍のやり方が気に入らないだけだ」
デムサンダーも、メイクピークのことは評価していた。同じ武人同士。見れば相手の実力くらいはわかる。メイクピークは、間違いなく達人レベルの剣の使い手である。それを得るために、彼がいったいどれほどの鍛錬を積んだのか想像に難くない。
ただデムサンダーは、そんな彼が命令とか派閥とか、そういったものに縛られているのが我慢ならないにすぎない。
「ふっ、これも役割さ。面倒なことは私が代わりにやる。だから頼まれてくれないか。身軽なお前たちだからこそできることなのだ」
「しかし大佐、そもそも我々が入れるのでしょうか?」
志郎が、ごくごく自然な疑問を呈する。アピュラトリスに招待されたのはエリスたちだけだ。護衛というのも、おそらく入り口までのことだろう。
それなのに中にまで入ろうというのは、少々場違いに思える。アピュラトリス側からの拒否は目に見えているはずだ。
「それもそうだが、少なくとも我々よりは警戒が薄いのは確かだ。さりげなく入れないか?」
「それはさすがに無理じゃねえの? ここはおとなしくジンに任せようぜ」
デムサンダーは、なんとかここで話を終わらせようとするが、それをばっさりと切り裂いたのはエリスであった。
「私がなんとかしますわ!」
「え、エリス?」
志郎は、勢いよく立ち上がったエリスに驚く。一番驚いたのは、エリスが腰にぶらさげた手榴弾が眼前にあることだが。非常に危ない。
「行きましょう。陸軍に貸しを作る良いチャンスですわ」
エリスにとっては悪くない提案である。アピュラトリスに入ったからといって富が得られる確証はないのだ。あくまでチャンスが訪れるにすぎない。
ならば、ここで陸軍と再びコネクションが築けるのは好都合である。祖父とつながりのあるメイクピークならば、なおさら好都合。その上にはバードナーもいる。
バードナーの名前は、戦友として祖父からも少しだけ聞いたことがあった。自分が戦友の孫と知れば、いくら落ちぶれたとはいっても何かしら引き出せるものがあるだろう。
これはエリスにとってのチャンスなのである。それを逃す手はない。
「志郎、ディム、行くわよ。私がいればなんとかなるわ」
「ちょっと待て。どうして俺たちがお前の野望に付き合わないといけないんだ。それに勝手にディムと呼ぶな。この名前は相棒にしか…」
「黒くて太くて大きいわりには、器が小さいですわね。それとも自信がないのかしら。なさけないことね」
挑発するようにエリスが手榴弾を転がす。正直その挑発はやめてほしいと志郎は思った。
「はっ、俺様を挑発しようってか。後悔するぜ」
「なら、後悔させてみなさい」
「相手が駄目と言ったらどうする?」
「すべては私が決めるわ。押し通す」
「世間知らずのお嬢様だと笑われるぜ」
「笑いたいやつは笑わせておきなさい。それでも貫いた人間だけが成功するのよ」
エリスの意思は揺らがない。その目には「もし拒否されたら、こちらも拒否してやる」という強い覚悟が宿っていた。
「…はっ、あとで泣くんじゃねえぞ」
そう言ってデムサンダーはメイクピークに振り向く。
「いいぜ、おっさん。やってやるよ」
エリスの目は本気だった。本気は嫌いじゃない。ここまでの覚悟を見せられれば、デムサンダーも動くしかないだろう。
(なんだかんだいって似た者同士かもしれないな…)
志郎はデムサンダーとエリスは似ていると感じた。
細かい点は違うが、オーラの質もかなり似ているように見える。これは傾向性といったもので、生来の性格そのものが似ているせいだろう。
エリスが真っ先に志郎を選んだのもその証拠である。デムサンダーも志郎と会った瞬間に打ち解けたのだ。二人は同じ感性を持っているといえる。
もしエリスが男だったならば、デムサンダーとは良い友人になれたことだろう。ただ、今はお互いの性別に対して嫌悪感を抱いているので、打ち解けないにすぎない。
「では、君たちを富の塔に招待しよう。まあ、私は中に入ったことがないので身の安全の保証はできないがね」
メイクピークにとって、その言葉は単なる思いつきのジョークにすぎなかった。
しかし、まさかそれが現実のものとなることを、この場の人間はまだ誰も知らない。
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