7/28 「反重力力学少女と女装少年の詩-36」
目に見えるところまでが、世界だと思っていた。
地面の途切れるその崖が。
眼下に広がる海面が。
そり立つ雲の壁が。
鬼ヶ島で生まれた私には外の世界について教えてくれる存在はいなかったし、そもそも考えたことがなかったのだからある意味当然な気はしている。自分がニンゲンというものであることは教えてもらっていたけど、私以外のニンゲンがいることは教えられなかったくらいだったのだから。
だからヤツらに攫われた時、私は世界が壊される音を聞いた気がした。
そして、私はゾウさんと出会ったのだ。
ゾウさんの話に私は驚きと興奮を隠せなかった。外の世界でゾウさんが関わってきた、色んな男の子の話を聞かせてもらった。世界は雲の外にも広がっていて、鬼ヶ島がちっぽけな世界だったことを知った。
けれど同時、私は疑念を抱く。ゾウさんは優しいけどどことなく胡散臭いし、そもそも私が知っている外の世界のニンゲンが私をむりやり攫い出すような連中しかいなかったからだ。両者を天秤にかけた結果、面白さの観点で私はゾウさんを信じることにした。だから私は、あの船から逃げ出すことを決意したんだ。
そうして出会ったのが、リオだった。
リオ――ジョソウをする男。自分の大切なもののために勇気を振り絞れる、男らしい男。ゾウさんの話ではそう聞かされていたが、初めてその顔を見たときはそんな人間であるとは微塵も思えなかった。私を見てはそわそわするし、ゾウさんとは喧嘩のようなやりとりばかりする。こんな人達しかいないのなら、とっとと鬼ヶ島に帰ってしまった方がいい。あの時はそう思ってパンツを脱いだ。
けれどあの夜、背中に感じた暖かさにサルやイヌとは違うものを感じた。見た目の割にかたく角ばっていて、自分と違うのを感じた。それがどうにも心に残った。
そしてその翌日には、リオは私が鬼ヶ島に帰るのを手伝ってくれた。途中で現れたモエギという少女とは、ゾウさんの話してくれた同人誌について盛り上がることもできた。案外人間にもいいやつがいるんだなと思い始めた時に攫われたから、そこに名残惜しさを感じてしまったのかもしれない。
ふたたび連れ去られ、変な薬を飲まされ、体が自分の心から離れたように動くようになって。もしかしたら私はこのまま消えてしまうんじゃないか――そんなことを薄れた意識で思っていた。
だからリオが助けに来てくれた時は、本当に嬉しかったのだ。
* * *
「イロハ、本当にできるの?」
「やってみたら分かる。だから、降ろして」
多少名残惜しさもあるが、私はリオの背から降ろしてもらう。彼は化粧をして長い髪のかつらをかぶっているので、最初見たときは別人かと思ってびっくりした。
私はパンダに変わり操舵席に腰を下ろす。軽くそれを左右に回してみて、どのぐらい船が動くのかを確かめる。
ぴりぴりと肌に波が当たるのを感じる。それは自分が能力を発動するときの感覚に少しだけ似ているが、内からでなく外からやってくるせいか不思議な感覚でもあった。要はこれの動きに合わせるようにして操作すればいいわけだ。
心の中でスイッチを入れる。体がじわじわと熱くなり、淡い光を放ち出す。
『大丈夫だお嬢さん、君なら上手くやれる』
ゾウさんの声が響く。久しぶりの自分の中から聞こえてくる感覚に、自然と暖かさを感じた。
「ありがと、ゾウさん」
後ろを振り向く。リオと、一緒に私を助けに来た人間とイヌサルキジが頷く。
「姿勢制御システム手動へ切換! 補助燃料エンジンを最大出力で噴かせ! アナザー鬼ヶ島より脱出する!」
イヌの掛け声に、艦橋の動物たちが「了解!」と返事する。
瞬間、握っていた操舵輪が重くなるのを感じた。これこそが私に任せられた、ここにいる全員の命の重さだ。
船が前進を開始する。
私は右へ左へと細かく舵を切り、できる限り船体を水平に保つように努める。それはどうにか功を奏し、やっとのことで鬼ヶ島の辺縁部にまで辿り着いた。
しかし、そこまで来たところで船体を大きな衝撃が襲った。艦橋に悲鳴が響き、席から転がり落ちる者もいる。私も必死に操舵輪を掴み、飛ばされないように踏ん張る。
それは重力場の乱れが原因ではなかった。船がおろおろと力をなくし、その高度を下げていく。
「アナザー鬼ヶ島からの砲撃です! 左舷被弾、左舷反重力エンジンおよび補助エンジンが大破! これでは航行不能です! 一分後に墜落します!」
「くっ……総員、緊急脱出だ! 脱出用
イヌが叫ぶ。全員が持ち場を投げ出し、艦橋から駆け出していく。
「ほら、君もだ!」
「イロハ早く!」
リオともう一人の人間に急かされ私も立ち上がる。するとリオは私の手を掴み、引っ張るように駆け出した。
「ちょ、ちょっと!」
「ごめん、罵倒は後でゆっくり聞くから!」
そう言ってリオは私を引っ張って通路を走った。髪をなびかせる後ろ姿に、少しだけ見とれていたのかもしれない。すぐに非常用出口に辿り着くと、そこから私達は筏のような簡素な板きれの上に乗る。そこには既にあの一行が乗り込んでいて、私達の到着を待っていたようだった。
「よし、艦橋組はお前らで最後だな! 海の上まで飛び出せれば重力場もマシになるだろ! しっかり掴まってな!」
命綱を繋げると同時、筏は急発進した。
「くっ……!」
「うわあああ!?」
加速し続け、筏はカタパルトの要領で船から射出された。歪んだ重力場の影響で、他に脱出を試みていた筏では変な方向に飛んでいくものもある。私は能力を発動し、乗り込んでいた筏がその影響を受けないように調整する。斜め上方向に飛び出した筏が放物線の下りに入ったところで、筏が受ける重力場の歪みは無視できるほどに小さくなった。
筏からパラシュートが展開される。ゆったりと落ちていくその上で、私達は炎を上げ鬼ヶ島に墜落する船を眺めていた。地面とぶつかると同時、大規模な爆発が起こる。肌の焼けるような熱風が私達を襲う。
「ああ、鳳凰丸が……」
サルが涙を流す。
「命と世界に比べれば安いものだろ。割り切れマサル」
そう言ってみせるイヌも、その顔には悲しさが浮き出ていた。
そして隣に座るリオは、焦燥の表情だった。
「それで脱出はできたとして、あの鬼ヶ島をどうやって止めるんだ?」
「桃太郞、どうすればいいのか分かるか?」
イヌに問われ、男は難しい表情となった。
その視線が、一瞬私に注がれる。
「あるにはあるのですが……」
「時間が無い、教えてくれ!」
「その……」
――その逡巡で、私は何を言い淀んでいるのかを悟った。
「もう一回私が行けばいいのね?」
「……そういうことです」
それを尋ねられることを知っていたとばかりに、男は観念してみせた。
「鬼ヶ島同士の衝突そのものに関しては心配ありません。この後空より落ちてくる槍が、アナザー鬼ヶ島を破壊しますから」
「槍?」
リオが聞き返す。
その時、ザザザという雑音がリオの服の下から聞こえてきた。
『あ、やっと繋がったわ~! リオ、そっちは無事~!』
「ロゼ!?」
『モエギに通信用の小型デバイスを渡されたでしょ~? それよ~』
「あれか!」
リオが服をまさぐり、ポケットから爪ほどの大きさの機械を取り出す。それによりくぐもっていた声が鮮明になる。
『そこの人が言ってるのはオクトパ人母艦が有する武装〈スチラカの槍〉のこと。ついさっき地球の静止軌道上に到着した母艦から、地上に向かってすっごくでっかい鉄の槍を落とすの。巨大な隕石を人為的にぶちかます、っていえば伝わるかしら~』
「じゃあ、それで十分なんじゃ」
「問題は爆弾の方だよリオ。もし衝突を回避してアナザー鬼ヶ島だけで爆発させたとしても、こっちの鬼ヶ島を吹き飛ばすに十分な火力だ。少なくとも、このまま海に降りるだけの僕達は死を免れない」
「それで、私にその爆弾を止めろってわけね」
私の言葉に男は頷く。
「おそらく爆弾の作動装置の電源も、反重力機関に依存しているもののはずだ。それを止められるのは君しかいない……そして僕の知る未来では、君の脱出は槍の落下までに間に合わない」
「待てよ、それじゃイロハは」
「死ぬ、だろうね」
「っ……!」
リオは拳を握り男を殴ろうとする。しかし怒りを向ける相手が間違っていることに気が付いたのか、震えながら拳を静かに降ろした。
「他に、方法はないのかよ」
「僕には分からない。僕が知り得るのは、それによって僕達の全滅が防がれた未来があるということだけだ」
「くそっ……!」
リオは今にも泣きそうな顔だった。私が死なないような方法を必死に探している。
『彼はね、人のために本気になれるすごい子なんだ。だからこそ僕は、彼自身を支えてくれる人ができてよかったと思えたよ』
捕らえられていた時に聞いたゾウさんの言葉を思い出した。その支えてくれる人、というのがきっと、モエギなのだろう。
なら、大丈夫だ。
リオを支えてくれる人はすでにいる。そんな彼らの未来が自分一人の命で続いていくのなら、安いものではないか。
私は立ち上がり、命綱を外す。
その行動に、リオは私の意思を理解したようだった。
「バカ、何勝手に行くつもりでいるんだ!」
リオが私の腕を掴む。目の前の、ルージュを引いた唇が目に入る。
ぼんやりとした意識の中で、それが自分のものと重なった瞬間を思い出す。勝手に人の初めてを奪っておいて、私が勝手に行くのはダメっていうのか。
私は逆にリオの肩を掴む。
「イロハ、何を」
「決まってるでしょ、さっきのお返し」
もしくは、あの世へ自分が持っていく最後の思い出。
私はその唇に勢いよく口づけをする。三秒ほど遠慮無しに吸い、私は顔を離す。リオの顔は化粧の上からでも分かるくらいに赤く染まっていた。そして恐らく、私の顔も赤くなっていたはずだった。
「それじゃ、さよなら――」
私は筏の上から飛び出す。伸びたリオの手は、動揺に一瞬遅れて私の服を掠めるに終わった。背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。離れようと、何度も何度も。
『いいのかい、お嬢さん』
「ええ。後悔はない……わけじゃないけど。それでもこれが、私にできることだから」
ゾウさんの声が聞こえる。そういえば、このままだとゾウさんも連れて行くことになってしまうことになる。
『僕は気にしなくていい。しょせん精神生命体で実体はないんだ。それにもし僕が消えるとしても、最後が世界を救うため少女と心中ならそれはそれで本望さ』
「……ありがと」
私は能力を限界まで発動させる。多少目眩がするが、どうせ片道分さえあれば十分なのだ。時々パラシュートを開いて落下している別の脱出筏を足場に跳ね、その勢いを使って加速しながら空を飛ぶ。
『おーい、あんた!』
不意に斜め後ろから声が聞こえた。振り向けば、赤くて大きな人間みたいな機械が飛んでいる。声はどうにもそれからするようだった。
『あそこまで行くんだろ? 送ってやる』
「あなたは?」
『ちょっくら世界を救う手助けに来ただけの女子高生だ、名乗るようなもんじゃない。ほら、口元手で覆っとけ、息できなくなるぞ』
その大きな手に体を優しく掴まれると、その機械は蜘蛛のような足から出る炎をさらに強く噴かす。安定しないはずの重力場の中を、とうてい自分では出せないスピードで突き進む。瞬く間に、私は逃げ出してきたばかりの鬼ヶ島内部入り口まで戻ってきていた。
「ここでいいわ!」
『分かった! それじゃ、世界は頼んだぜ!』
手から離され、私はそのまま降下していく。
そして滑るように低空で飛びながら、再び鬼ヶ島内部へ突入した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます