第182話


 アルギンの様子が気になって、アクエリアが室内の様子を見に行こうかと悩んだ頃、重苦しい扉が開いた。

 扉に手を掛けていたのはアルギン。俯いた顔、落とされた肩。どうした、なんて聞けなかった。その腕の中に、大事そうに抱かれているものを見てしまえば。

 既に肉も崩れ骨が見え、荒れて鬱陶しく絡まってくるだけの髪の一筋さえ愛しそうに、胸に抱き寄せているアルギン。腕の中の首は、最早生首とも言えない酷い有様。生前の彼の面影だけを残したその亡骸の一部分は、アルギンがこれまでずっと求めていた『物』だった。


「アタシ、酷い嫁だよねぇ。ずっとこんな所にあったのに、探してあげられなかった。あんな奴に良いように材料にされてたのに、アタシは、あんな奴を側に置いて」


 震える声。アクエリアが視線を逸らす。スカイも俯いて、アルギンの胸の苦しみを黙って受け入れていた。

 アクエリアはそんなアルギンの様子を見ても、安堵する気持ちが強かった。もしあのまま出てこなかったら、扉を開いていただろう。そしてそんな状況であれば、もしかしたら自刃しているアルギンの姿さえあったかも知れない。それだけの想いを抱いているこのハーフエルフを知っているから。

 ディルの頭蓋を抱く手に力を込めるアルギンは、そこで漸く顔を上げる。顔からは、表情が消えていた。なのに。


「……アタシ、ディルが帰ってきてくれて……嬉しいんだ………。悲しいのに、嬉しいんだ」


 涙の跡は消えていないどころか、今でも雫を流し続けている。これはアルギンの悲願だったのだ。涙で愛を量る事は出来ないが、ディルに寄せていた想いは、途轍もなく重い。

 スカイがアルギンに近寄って、無言でその体を抱きしめる。


「僕、その人の事は知りません。でも、大事な人だってことは分かります。とっても辛かったですね。でも帰ってきてくれて嬉しいですね。その人も、きっとずっとマスターさんに逢いたかったですよ。やっと解放されたって、きっと安心してます」

「……そう、かな。そうだと、いいな」

「だってその人、今でもずっとマスターさんを愛しているんですよ? 聞きましたから、僕」

「ああ、……そう、だね」


 スカイの言っている言葉は、この工房で人形が呟いていた言葉なのだろう。その慰めの言葉に、アルギンが片手でスカイの頭を撫でた。

 整わない思考を一旦停止させ、止まらない涙を何とか止めたころ、三人の元に走る足音が近付いた。姿を現したのは、フュンフとアールリトだ。……しかし、アールリトは三人の姿を見た瞬間に足を止めてしまった。


「アルギン! そちらは無事か、ね―――」


 フュンフの走りが、アルギンの姿を認めて途中で止まる。

 冷徹と評された筈の彼の表情は愕然としている。そして、ある一定の場所に視線が注がれているのに、アルギンとアクエリアは気付いていた。

 だって、彼にも分かるはずだ。この見慣れた銀髪を持つ物体の正体が。彼も、この髪の主を、アルギンと違う意味合いで愛した。慕い、忠誠を誓い、彼に訪れた死を未だに引きずっている。

 アルギンが足を踏み出す。これを突き付けるのは酷だろう。しかし、彼にも理解してもらわないといけない。それは、妻であるアルギンの役目だ。


「フュンフ、やっとだよ」


 その腕の中の首、顔があった筈の方向を、フュンフに向けた。

 フュンフはほぼ無意識に、その場に膝を付いた。それは王妃に向けたような形だけのものとは違う、忠誠を誓う騎士の姿勢。その場に杖を放るように捨て、視線は首から放さない。


「ディル、隊長」

「やっと帰ってきてくれたよ。これまで長かったね、アタシ達」

「そん、な。今まで何処に、何処にいらしたのですか。アルギン、隊長は何処に」


 アルギンが、視線だけで背後の扉を示す。瞬間、フュンフの顔に在らんばかりの憎悪が浮かんだ。流石に隊長ともなれば、その部屋の持ち主の事は知っているのだろう。

 殺意を隠さない顔で立ち上がるフュンフを、アルギンは手で制する。そして首を振った。


「……もう、終わったんだ。終わらせたんだよ、フュンフ。だからもう、後は弔うだけ」

「終わった……? アルギン、私の中では何も終わってなどいない。骨の一片たりとも残してやるものか、斬って砕いて微塵にして、それから灰燼に帰してやる」

「フュンフ、もうそんなことしてる時間は無いんだ! 後からなら幾らでもやっていいし止めないから、今は!」


 二人が揉めているその後ろで、スカイが困惑した顔をしている。何もない空間に向かって何かを話しているような、そんな様子で。


「え、でも、それを僕が言っても。ええ、ど、どうすれば」


 アクエリアはそんな困惑する顔を、何があったのかと思って見ているだけ。……何か以前にも似たような事があったような気がするな、と思った頃。


「『我の事で足元が危うくなるのはアルギンだけと思っていたが、よもや汝もとはな、フュンフ』」


 流麗な女性の声で、ディルの発言そのままのような言葉が聞こえた。

 それに弾かれるように顔を向けるのは、アルギンとフュンフ。


「………って。ディルならきっとそう言うわ」


 ゆったりとした歩調で近付いてくるアールリトだった。


「ディルはあなた達二人を守れた事、後悔はしていない筈。……ええと。『それよりもやるべき事を成せ。このような場所で油を売る事を我は許さぬ、腑抜けた事を言えばあの世とやらで待ってはやらぬぞ』……って言うと……思う」


 アールリトはやけに辿々しい言葉だが、不思議とその言葉は二人の胸にすとんと落ちる。まるで、本当に彼からの言葉のようだ。

 二人が顔を見合わせる。そして、微笑んだ。二人の仲にしては珍しいくらいの優しい顔で。


「……なんか、懐かしいな。あの人は一人だけ冷静でさ。なんでそんなに冷静なの、って……いっつも思ってた」

「……そうだな。だからこそ、あの方は隊長に相応しかった。私が敬愛する隊長だった」

「リト様にも言われたんじゃ、行かない訳には行きませんね!! よし、行くか!」


 まるで赤子にする時のように、アルギンが胸の中のディルを両手で抱き上げる。その拍子に、頭蓋から眼球を模した宝石が二つとも零れ落ちた。あ、と声を漏らすアルギンだが、それを手にする気にはなれなかった。だってそれは、本物の彼の瞳ではない。

 捨て置かれた宝石はそのままだ。もう走る事もせず、植物だらけの廊下をアルギンとフュンフ、それからアクエリアが進んだ。

 ………その場に残ったのは、スカイと、アールリトと。


「助かりました王女様。僕じゃ言っても怪しまれるだけかと思ってたから」

「良いのよ、スカイ君。そうね、私じゃないと通じない話だったでしょうし……、それに、バレてしまったらあの二人がこの場で泣き喚きかねないわ」


 二人は顔を合わせて笑い合う。そして、二人の視線はそれからある一定の場所に向けられる。

 そこには誰もいない。……違う。この場所では二人にしか見えない存在がいる。


 『……感謝する、王女殿下』


 声も、二人にしか聞こえなかった。


「そんなこと、感謝までは要らないわ。あの二人にも……見えたら良かったのに」

「本当ですね。……ユイルアルトさんなら見えたのかも知れないけど。でも、そうなんですね。話に聞いてたより、すっごく綺麗な人だと思いました」


 銀の髪、灰の瞳、色素の薄い肌、そして神父服を模した黒が基調の衣服。人形のようだと言われた無感情な顔。

 スカイが嬉しそうに、うっすらとしか浮かんでいない人影に話しかける。その人影は、綺麗だと言われた顔を、表情を変えることなく何かを言い放つ。二人にしか聞こえないその言葉を受けて、アールリトもスカイも首を振った。


「……そうね。アルギンはずっとあのままよ。何も変わらない。変わらないのは、貴方への気持ちもなんでしょうけれど」

「僕も知ってます、聞いてます。マスターさんは今でもずっと、貴方の事が大好きです。でも、それは貴方もなんでしょう?」


 二人の言葉に、『彼』が満更でもなさそうに瞳を閉じる。アルギンの好意が今でも変わっていない事に満足そうだが、その表情の変化は乏しい。

 スカイはリシューの一件で酒場を混乱させてしまった事があったからこそ、口を噤んでいた。

 アールリトは慣れぬ言葉づかいのせいで、復唱するのが一杯一杯だった。

 それでもあの二人は、彼の言葉をアールリトの慰めなのだと解釈して行くべき道を進んでいく。割り切れない感情もあるだろう。しかし、その歩みに迷いは無かった。


「貴方も、一緒に来てくれますか?」


 アールリトの短い問いには。


「……そう、そうね。これはもう、生きている私達がしなきゃならない事。……悲しいわ、昔御前試合で見た貴方の剣技、もう一度だけでも見たかった」


 二人にだけ聞こえる、涼やかなテノールが返る。


「……そう。じゃあ、あの二人に言っておきたい言葉はありますか?」


 再びの問いかけ。

 死者の口許には、笑み。

 そうして開かれた口から、優しいテノールは。


 『ただいま、とだけ』


 頷いたアールリトは、スカイを促して先に行った三人の後を追う。その場に残った銀色の影は、その姿を視線でずっと見送っていた。

 あの人形に縛られていたのは首だけでなく、彼の魂も。漸く解放されたのは、アルギンが人形の核を破壊してからだ。それまでずっと、彼は『側に居る』という約束を果たせずにいた。

 彼の足が、頭蓋から落ちた宝石の元に進む。床に落ちているそれを踏んで割ろうとしても、それが壊れる気配はない。やがてそれは靴底からころりと転がって、どこに行ったのか見失ってしまう。

 彼の願いは叶った。最愛の人の側に帰りたいという願いだ。それが叶った今、僅かな未練は燻ぶろうと悔いは無い。

 彼は―――ディルは、天井を仰いだ。もう、この世に残る理由もない。


 『我は待つ。……汝等は、後からゆるりと来るが良い』


 それだけ呟くと、彼の姿は最初から無かったかのように消えていく。

 声も、姿も、もう二度と誰にも知覚できなくなった。



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