第176話
自由国家アルセン王国、それがその国の名前だった。
自由を謳うこの国は、現在も存在しているどの国よりも神話の存在が身近にある。
何も無かったこの地に三人の神が降り立った。神はこの地に命を芽吹かせ、秩序をもたらし、人間が生きていく土台を作り上げた。世界に存在する全ての生き物はこの地より生まれたとされている。
人間をつくり、人間に失望した神達が最初に作り上げた国。アルセンは、三人の神の中でも最後まで人間の『欲望』に望みを失わなかった神が築いたものとされている。
神が創造し、神さえ見捨てた国、アルセン。
神は自らの分身を王に据え、その血筋が王族として国を支えているとされる。
神の子として、国を纏める王族として、国に住まう者達の頂点にいる『アルセン』という姓を冠する者。
それらも神の血が薄まれば、ただの人の子となんら変わらない。
嘗ては近親婚、などという手段を用いて神の血を濃いまま保とうという思考さえあったという。それでも、それで濃くなるのは神の血ではなく、人の血だった。
「アールヴァリン様は、高貴なアルセンのお生まれでありながら」
その陰口を、彼は何回も聞いていた。
「まだ幼いとは分かっていますが、今の時分からああでは」
その陰口は、王家嫡子として生まれた彼の心を何度も抉る。
「神より賜りし豊かな才能を、どうも王妃の元に置き忘れてしまわれたようですね」
その陰口の相手が六歳だったとしても、大人の発言は遠慮もない。
子供だから、分からぬだろう。
凡才だから、気付かぬだろう。
そんな大人の油断は、繊細で知識量の多い彼の心を酷く傷つけていった。
文字がまだ綺麗に書けないから。
数字の計算が達者でないから。
言葉をうまく伝えることが出来ないから。
書けなくとも文字が一通り読めて、その意味を自分で調べることが出来て、創作の童話に心を揺り動かす、そんな彼の才能には気付くことが無く。
彼は剣より本を好んだ。実技より座学を好んだ。無理矢理身につけさせられた護身法よりも、誰かが記した詩を好んだ。
ただそれだけだった。アールヴァリンにとって大切だったものは、それしか無かった。
たった一人の存在を除いて。
『風』の一騎士としてアールヴァリンの配属が決まったのは十三歳の時だ。騎士、と言っても実力が伴っていないのは自分で分かっていた。これは将来的に王になる為の下積みのようなもの。
勿論、これまでの王家の嫡男に対する丁寧な指導等その他色々のお陰で、何処に出ても恥ずかしくない程度の武力も教養も付いている。本人としても、研鑽を積み重ねてきたつもりだ。それが次期国王の肩書を持つ者の義務だと信じていたからだ。その心が揺らぐことは無かった。
王子と言えど、騎士内での待遇が変わる事はそれほどなかった。失態を見せれば怒号が飛び、功績を上げても必要以上の称賛が与えられる事は無い。その地位に来て、アールヴァリンは久方振りの『自分の時間』を手に入れる事が出来るようになった。
騎士の位を拝命したその日に、五年は訪れる事の無かった王城の中の図書保管庫の扉を開けた。
中は五年のうちにすっかり様変わりしていて、中には幾らかの読書用の机と椅子が設けられていた。これまでこの場所を利用するものは、目当ての蔵書を見つけたらそれを持って自室に引いていく為、特別必要とされていなかった物だ。アールヴァリンとしても私室に持って帰ればいいだけだったので、それらの必要性を感じないまま、その日は幾らかの本を持ち出して帰ることになる。
久し振りの読書の時間だった。邪魔をされたくない、という気持ちの方が大きかった。
次の日、朝までにはすっかり本を読みこんでしまって朝一番に戻しに来た。執務終わりに本を再び借りに来るつもりで。
その日の執務は滞りなく終わる。指導してくれた騎士が「流石王子です、呑み込みが早い」と、本心には聞こえない世辞を言ってきたが不愉快に思った感情は外に出ていない筈だ。
執務が終わる頃には、既に図書保管庫には夕日の灯が窓から差し込んできていた。本が傷むからこれも何とかしないとな、とアールヴァリンが仄かに考える。
そうして入っていった室内に、椅子に座る先客の姿を見つけた。
先客は本を開いて、紙とインク瓶を前に、筆記具を手に持っていた。茶色で癖の強い短い髪、アールヴァリンでさえ一瞬息を呑むような美貌。その女の瞳が、アールヴァリンを捉えた。
「……王子」
聞こえた声は耳に心地いい流水のような音。紅を差して色づいた唇が、アールヴァリンを認めて開かれる。
「ソルビット、か」
顔と名前は知っている。同じ『風』に所属している年上の女だった。公の場所でも姓を名乗らないのは、孤児だからか、それとも別の理由があるからか。臣下の礼を取ろうと立ち上がる彼女を掌で制し、首を振る。
「……俺は、今はただの一騎士だ。そのような礼は無用だ」
「承知しました」
「こんな所で、何をしていた?」
開かれた本は古く、ただの寓話が載っているものだ。機密事項をを丸写しして何処かへ持っていく、などというものでは無さそうだ。ただの興味で聞いてみる。
「お恥ずかしい所をお見せしました。……字の練習です」
「字?」
「あたし……、私は、孤児出身ですので。あまり人に見せられるような字をまだ書けないんです。この場所は誰も来ないし、手本になる字は山のようにあるので、時々こうして練習を」
「練習……」
そう呟いて覗き見た紙には、まるで手本と寸分違わぬような字が並んでいる。こうした本を手書きで複製する職種も世にあるが、それに勝るとも劣らない字の達筆さ。そのまま就職できるのではないか、と思わせるまでの字は、アールヴァリンを新鮮に驚かせる。
「綺麗、だと思うが」
「とんでもない! 私が目指しているのは、手紙だけで人を篭絡させることのできる字です」
「篭絡……?」
そこまで聞いて思い出す。『風』隊の中には、文字通り全身を使って他国の要人を意のままにする『宝石』がいる事。その身の全てを美で飾り、相手の望む女の姿を見せる事で叶う外交の要。それが、目の前の女だった。
「成程、それでか」
アールヴァリンが警戒心を抱く。確かにこの女の美貌は、まだ年齢的には子供と言えるアールヴァリンの心を少しだけ揺り動かした。女の美貌は目の保養になる事を男として本能的に知ってはいたが、ここまで整えられた美は国を傾ける事もあるという事は知識として身についている。
次期国王としてのアールヴァリンに、この女は危険だと脳が警鐘を鳴らす。男がどうすれば傾くか知っている女だ。もしこれがアールヴァリンに用意された『罠』だったとしたら。次期国王の座から落としたい派閥がいるとしたら、この女に関わるのは危険だった。
「それで、その紙一枚で篭絡できる相手がいるとして。お前は何を望むんだ?」
「私、ですか?」
ここで野心を語る女でないだろうというのは分かっている。もし野心を漏らす程の馬鹿であれば、二度と関わる事は無い。
しかしソルビットの口から紡がれた言葉は、アールヴァリンが反応に困るものだった。
「……私自身の望みなんて無いです。ああ、でも、力になりたい人が少しでも私のした事で楽になるなら、それだけで嬉しいですね」
「力になりたい人? それはサジナイルか」
「隊長は……別に。私がどうこうするでもなく、あの人は強いですから。……他隊の方ですよ」
「他隊?」
意外な反応だ。騎士というのは自分の隊の隊長に全幅の信頼を置くものだと思っていたからだ。実際、今の四隊長はしっかりと自分の隊員の信頼を勝ち得ていると思っている。……生まれが特殊なだけの自分と違って。
ソルビットは艶やかな紅を乗せた形のいい唇を緩めて、その名を口にする。
「アルギン様です。あの方は己の功績で副隊長の座に付いていらっしゃいます。その功績をひけらかすことなく、私にも優しく接してくれて、名まで覚えていてくれる。私はあの方に憧れて、……憧れているのに、こんな汚れ仕事ばかり」
その表情が曇るのを、アールヴァリンは目を逸らせずに見ていた。
「あの方には、胸を張っていて欲しい。女が憧れる騎士としての姿のままに。私の努力は国の為にあれど、その結果はあの人の為になって欲しい。それだけです」
「……それで満足なのか。欲がない事だ」
「欲くらいありますよ。だから、今はこうして努力してるんです。……願っただけで叶う望みなんて、無いって知ってるから」
それは姓を名乗れない者だからこその言葉だろう。彼女の闇は、アールヴァリンが最初に感じていたものより深い気がしている。
「それで、ソルビット。お前の欲とは何なんだ」
聞いてみたのは好奇心からだ。
「笑わないでくださいね。……私は、………私は」
少しだけはにかんだ笑顔からは、年上らしさは見えなくて。
「楽しいことが、したいです。今まで、趣味とか、遊びとか……そんなのと無縁で生きてきましたから」
その場所にいたソルビットは、まるで少女のように無垢で。
アールヴァリンはその時、初めて女性の笑顔に見惚れた。
図書保管庫での交流が増えた。
変わらずソルビットは字の練習をしている。アールヴァリンは、自室に本を持ち返らずに保管庫の中で文字とソルビットを目で追った。
時折休憩と称して二人話をした。腹が減れば同隊の誼で食事に行った。喉が渇けば飲み物を飲みに行った。
その時に見られるソルビットは、ただの若い綺麗な年上の女だった。
二人だけが存在する図書保管庫が、アールヴァリンの心を癒す。気付けば毎日のように足繁く保管庫へ通い、ソルビットが来ない日の溜息は普段より多くなって。
二人の関係が変わったのは、アールヴァリンが十五歳になった時だ。
王族というのは血を残すことを重要視する。その際、『畑』になる未来の王妃に失態を見せてはいけないという考えはどの国でも同じように思う。
その『畑』への扱いの練習台として、ソルビットが選ばれた。
既にただの騎士としてではなく、一人の女としてソルビットを見ていたアールヴァリンの胸中は複雑なものだったが、ソルビットはそれを『仕事』として受け入れる。元より、二人のどちらにも拒否権は無い。
アールヴァリンは、盛大に足を踏み外す。
一人の姓もない女騎士に心を奪われた。その日から、望めば寝所にやって来るソルビットを愛した。
同時に地獄を味わうことになる。成人祝いに、各国から次期王妃候補を招くという国王に進言した時の事だ。
「父上……ソルビットを、候補として祝いに招く事は出来ませんか」
既に『花』の副隊長に収まった彼女とは、寝所に呼ぶ以外で話をする時間も殆どない。彼女がいなくなった後の『風』の副隊長にアールヴァリンが就いてからの話だ。
これまでは何処の誰と寝ていても良かった。ただ、そんなソルビットを想うと嫉妬の炎で焦がされそうだった。想いと憎しみが同量になって、アールヴァリンの心を搔き乱す。
どうか自分のものに。いつか図書保管庫で穏やかに交わした話の続きを、隣で笑顔のまま交わしてくれたら。そう願わずにはいられなくて。
「ソルビットを? ……何故だ」
「身の振りと美貌は、他国の姫と並べても遜色はないでしょう。知性も教養も、次期国王の妻としても問題ないと思っています。『花』の副隊長としての勤務態度も、よくご存じのはずです」
どうか、と望む淡い想いは。
「……いえ」
最早哀願に変わっていた。
「違います。そんな打算ではない。彼女を妻として迎え入れたい。俺は、……私は、彼女を愛しているのです」
知り尽くした躰を、名を呼ぶ声を、聡明な知性を、それでも自分だけのものにならない彼女を愛した。
厳格な王は、その懇願を拒絶する。
「無理だ」
それはアールヴァリンにとって、罪を突き付けられたにも等しい。愛してはならぬ者を愛してしまった、その罪はまだ若いアールヴァリンには重く。
「……ソルビットが、姓を名乗らぬ理由を分かっているか」
「それは、……孤児、だからでは」
「表向きはな。あれは、ツェーン家の当主が手を出した女が産んだ私生児だ」
「ツェーン……? ツェーンというと、フュンフの生家ですか」
「あれの存在を、奴は未だに認めていない。分かるか、素性の知れぬ女を正妻に迎えることは出来ない。それだけではなく、あの女を正妻にすればツェーン家からも反感が出よう」
「それは、娶った後に認めさせればいいだけの話ではっ……!」
「ヴァリンよ」
その拒絶は、アールヴァリンに最大の傷を残す。
「それを私にさせるだけの価値は、あの女には無い」
「―――」
「これからお前には、女など掃いて捨てる程寄って来よう。幼すぎる恋愛観で自身を縛ることも無い。いつかお前も分かる、一人の女に縛られることの愚かしさは神が用意したこの世界の罪だ」
凡才に生まれ、それでも未来を期待され、なりたくもない自分になるよう強要され。
唯一の安らぎを手にすることも出来ず。
愛する者ではなく何の感情も抱いていない女を娶る事を是とされ。
「身綺麗な女が良いのならアルギンを手配しよう。あの者も孤児ではあるが、姓があるだけまだ良い。エイスという後ろ盾もある、振る舞いも取り繕えばそこいらの庶民よりは余程見られたものだ」
ふざけるな、と、その場で叫ばなかっただけアールヴァリンには理性があった。
けれど、その理性がその時ほど疎ましく思った事は後にも先にも無かった。
―――だから、仕方のなかったことなのだ。
「ヴァリン」
後に、妻を決めかねたアールヴァリンに蜜より甘い声が掛かったのは。
「王位継承権を放棄するのなら、ソルビットと結ばれる未来を叶えてやってもいい」
その蜜に毒が含まれていると知っていて、アールヴァリンは飲み下す。
選択に時間はいらない。即答だった。
「放棄します」
今までの自分を捨ててでも、遂げたい想いがあった。
寧ろ感謝したくらいだ。
彼女に触れることが出来たのも、その誘いが自分に掛かったのも、今まで厭わしくさえ思っていた出自があったからで。
その時の為に、今まで自分の手に有ったすべてを捨てる。思考に一秒もいらない。
蜜を飲ませてきたのは自分の義理の母親―――王妃ミリアルテアだった。
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