case10 アルセンの方舟
第164話
外の空気は冬のもの。とても寒く、その場に留まっていたら凍ってしまいそう。
動きづらくない程度の厚着をした面々は、外に出て、最後に出たアルギンが酒場に鍵を掛けた。
静かだ。
まるでこれから来るのが嵐であることを知っているかのように、天は雲を重く垂れさせている。そっと見上げた空から、小さな白いものが漂いながら落ちてきていることに気づく。
「雪」
それを言ったのは、ミュゼの口だった。言葉につられて一人、また一人と空を見上げた。
雪が降ってもおかしくない気温だった。けれどまだいつもなら、この時期に雪を見る事は無かった筈だ。白い息を髭の間から吐き出しながら、ダーリャが呟く。
「雪、ですな」
最初は一つだけだった氷の粒が、次から次に地に落ちていく。髪に、肩に、指に、乗った雪は溶けて消える。淡い白の結晶は、アルギンの伸ばした手の先でその姿を変えた。まるで、誰のものにもならないと言っているように。
「初雪、かな」
アルギンが零した声に、誰かの言葉が返る事は無かった。施錠の最終確認をしたアルギンが、その場に円を描くように並んでいる酒場の面々に声を掛ける。
会議にも満たないお粗末な話し合いで、それぞれの行動が決まった。納得している者もそうでない者も、最終的にはアルギンと同じ時刻に酒場の扉を潜っている。
もう、この先何が起きても不思議ではない。誰が死んでもおかしくない。その不安を顔に出さないように、アルギンが全員の顔を見渡して口許を歪めて笑ってみせた。
「そんじゃ、ここで分かれようぜ」
見渡した顔は皆神妙な顔をしていた。そのどれもが不安を浮かべたり押し殺したりした顔だ。
ユイルアルトとフェヌグリークは残ることになった。死に掛けの愚弟を頼む、とアルギンは最後に挨拶をして来た。頑張ってくださいね、と返してきたユイルアルトは、笑っているようで目に涙を浮かべていて。
フェヌグリークは何も言わなかった。プロフェス・ヒュムネでありながら戦闘力を持たない彼女は、足手纏いになるより兄と、酒場に残された小さな命の側にいることを選んだ。それでいい、とアルギンは思っている。
「皆、帰って来たらアタシの奢りでなんでも好きなモン食わせてやるよ」
見渡した顔は六人だ。その誰もが、アルギンが信頼を寄せるもの。
ジャスミンはダーリャと共に自警団の纏め上げる反乱軍の所へ行くように言いつけてある。
他の面子はアルギンと一緒に城まで向かう。そこでドンパチやるくらいの覚悟はしておけ、と全員に言った。
「……では、私はこれで。ジャスミンさん、行きましょう」
「はい……。どうか、皆さん、ご武運を」
ダーリャとジャスミンは頭を下げ、そのまま振り返らずに行ってしまった。
本当は衝突などあって欲しくないが、アールヴァリンがアルカネットにしたことを考えれば、きっと流血は避けられない。そんな時、医術に長けているジャスミンの手はきっと必要になる。
去り行く二人の背中を見送った後、アルギンも歩き出す。その先導に、全員が黙ってついてきた。
アクエリア。
スカイ。
ミュゼ。
アールリト。彼女だけは頭に頭巾を被って顔を隠していた。
随分減ったな、とアルギンが誰にも顔を見せず笑った。この中で正規のギルドメンバーは二人だけだ。それに加わる二人はプロフェス・ヒュムネの混血。これで王国軍に勝てるかなんて、難しい話だろう。
ぐずぐずした悩みが、アルギンの胸の中に戻ってくる。これまで沢山悩んできたはずで、もう答えは出ている。こうして行動にも移ろうとしているのに、アルギンの心は晴れないままだ。
空からはまだ雪が降っている。積もらずに溶けるであろうその雪が、まるで自分たちの道行きを暗示しているような気がして、アルギンの唇から溜息が漏れる。
六番街を抜けた。
この場所はとても静かだった。それは人が少ないせいかも知れない。いつもなら子供の声がするような広場も川べりも、どこにも無邪気な声は聞こえなかった。
七番街を抜けた。
観光で潤う七番街は、専用の門が封鎖されているせいか閑散としていた。店は悉く閉まっていて、不届き者が捨てたゴミが散乱している。アルギンにしてもあまり縁の無かったこの場所は、話に聞いていた美しい街並みがまるで芝居に出される下手な大道具のように見える。
八番街に到着した。
ここからは既に城下の中でも『一般市民』にとって最高級の住宅地だ。物価も上がれば地代も上がる。ここに住めるのは豪商くらいか。静かで、けれど、既にこの地点で不穏な音が耳に届いていた。
「始まってんな」
「……そうみたいですね」
遠くに感じるのは戦場の気配。こんな治安の良い場所でやらかす馬鹿がどこにいる、と思ったが、城が近くなるにつれその気配は濃くなっていった。
アルギンに返事をしたアクエリアも、その気配を感じ取っているらしい。戦場の気配なんてものを感じるのはこれが初めてではないアルギンも、それが城下で起こっているということに違和感を覚えずにいられない。
喧騒が近づく。この声はただの馬鹿騒ぎではないだろう。そして、それは八番街の大通りで起こっていた。
―――血。
そして、悲鳴と断末魔。
アルギンが嘆息を漏らす。恐れていたことが現実になって視認できてしまった。その血は解放を願った民のもので、自由を尊んだ筈の国の城下に流れ、穢す。
血の量は一人二人のそれではない。まるで十数人。本当に、今までなら戦場で見ることしかなかった血液の量だ。そこかしこに死体も転がっている。それは隊服を着ていないので、一般市民である事はほぼ確実で。それらは剣で斬られて転がって、血だらけで、無残な死に様。
「そん、な……」
アールリトが声を漏らす。守るべきだったはずの市井の者の死に心が追い付いて行っていない。それどころか、この王女は死体を見るのも初めてではないだろうか。
目を逸らしかけた王女に、アルギンが叱責した。
「アールリト様、目を逸らさないでください!!」
その声に肩を震わせた王女は、深海色の瞳に涙を溜めている。しかし、言われた通り目は逸らさなかった。
惨状だ。こんな城下を誰が想像しただろう。しかし、この惨状は誰が引き起こした? そんな事、今更王女に言っても一緒だ。
涙を浮かべる彼女の肩を、隣のミュゼが抱き留めた。その表情は、とても痛ましい。
「……剣、っつーことは『風』隊だろうな。カリオンが『鳥』に中立守らせてるなら、の話だが」
アルギンが手近な死体の一つに近寄って検分を始めた。血に濡れた服を掴んで転がして、傷口を確かめる。
剣筋に躊躇いが無い。既に人の心を亡くしてしまったものの太刀筋だ。確実に命を奪う為の一閃。……けれどこれでも、アルギンの知っている人――否、愛した人――のそれに比べれば、甘いとさえ思える。
この場から少し離れた場所では、市民と兵の殺し合いが起こっていた。しかしそれは兵の数の暴力で、押し、押され、そして市民が殺されていく。止める間も無い出来事で、アルギンの背後で王女が嘔吐く。スカイも吐くまではしないにしろ、顔を真っ青にして震えていた。
「酷いな」
ミュゼが率直な感想を口に出す。
これが、『酷い』。最悪でなく酷いと言ったのは、ミュゼはこれよりも酷い世界を見てきたからだろうか。
「そう、ですね」
アクエリアが返事をした。
「止められる?」
「やってみます」
アルギンの言葉に、アクエリアが頷く。何事かを呟き、掌を前に出す。
「―――『雷の精霊、放て』」
その一瞬の後、アクエリアの差し出した掌の先から稲光が走る。何かが激しく破裂する音が聞こえ、視界全体が一瞬白に染まる。あまりの眩しさにその場にいた全員が目を覆い、そして、焦げ臭い匂いが辺りに立ち込める。
何かが、誰かが倒れる音がした。それが遠くから聞こえる。複数のその音が聞こえなくなる頃には、その場で道の先に見えていた殺戮する影は一人残らず倒れ伏していた。
静かになった。息を吸い、吐いて、また吸う頃にはもう終わっている。アルギンはこの男に空恐ろしさを感じたが、当の彼は少し困った顔をしていた。
「……失礼、やりすぎました」
「え」
「少し気絶させるだけのつもりでしたが、力が入りすぎたようですね」
そういえば、自分たち以外誰も立っていない。市民の影もあったはずなのだが、それごと倒してしまったらしい。
「殺したんじゃねぇだろうな!?」
「体が弱ければ、或いは……ですが、この場に居ることが出来るような人の体が弱いとは思いません」
「……まぁ、それも……そうか」
アクエリアの言葉に無理矢理自分を納得させたアルギンが、道の先を進んでいく。道中、倒れ伏している兵の武器を奪うなり遠くに捨てるなりも考えたが、今はそんな事をしている時間はない。そのうち来るであろう五番街の反乱軍の考えに任せることにした。
見える範囲では確かに誰も立っていない。しかし、大通りの異変を察した脇道から次々に兵の姿が現れる。ああ、面倒だな、とアルギンが思った。兵はこちらの姿を見て、そして。
「国家に仇成す賊共が!!」
話をする気はないらしく、その声を誰かが言うと同時に何人も走り寄ってくる。アクエリアが再び何かを唱え始めようとしていたが、アルギンがそれを制する。
「先に行け」
それはアクエリアに掛けた言葉。
「ですが」
「お前さんは、正直めっちゃ頼りにしてる。だから、ここでへたばられても困るんだよ。このくらいだったらアタシでも処理できるから」
「……その自信、騎士辞めてから今までずっと保ったのは奇跡ですね。貴女もう殆ど一般人でしょう」
「自信なくてあんな場所の親玉なんてやれてねぇよ、ばぁか」
「まぁ待てよ」
アルギンの言葉に一歩踏み出したものがいた。流れるような金糸を一つ結びにしている、アルギンと似た顔立ちの女。―――ミュゼだ。
「一人だけ良いカッコするのはなんかムカつくな? 私も混ぜろよ、減るもんじゃなし」
「言ってろ」
言いながら、アルギンが着ていたコートを払う。その裾から覗いていたものを、アクエリアは知っていた。
「…… 、力を貸してね」
小声で囁いたのは、アルギンの最愛の男の名前。アルギンがコートの中のそれに手に掛け、引き抜いたのは、いつかに戦場に散った男の形見。
彼は片手で扱っていたが、アルギンの片手ではその重量を耐えきれない。柄に宝石が埋め込まれた、けれど豪奢なだけではない美しい銀色。あの人はよくこんなものを振り回せたな、と遠い記憶に想いを馳せて。そんなアルギンをミュゼは横目で、何か言いたいことを押し殺している顔をしている。
アルギンが地を蹴る。目指すのは一番近い兵。昔と比べて身軽さもだいぶ衰えてしまったけれど、若いだけの一兵卒には負けない。
剣と剣がぶつかる音。乾いた高い音がした瞬間、アルギンは全体重を掛けて兵士の胸倉を蹴り飛ばす。
「が、っ!?」
それは兵にしてはあまりにお粗末な声だった。よろめいたその体を、振り抜いた銀剣が侵食する。
耳障りな悲鳴。アルギンの目の前で緋色が飛び散った。それは腕を分断することは無かったが、肉を無遠慮に切り裂いている。
アルギンが一人と対峙している間に、ミュゼも同じように武器を振るった。愛用の折り畳み式の槍は壊されてしまったから、予備としてある日調達した長槍だ。いつもは洗濯物を干すときにしか使わないようなものだったが、握りも重さも悪くない。
二点集中で足と利き腕を狙う。関節部分が狙い目だ、と、遠い昔に聞いた気がした。そしてその記憶の中の言葉に相違なく、ミュゼの穂先からは血が噴き出して、兵は戦意を喪失した。
「殺されたくなきゃ降伏しろ!!」
血だまりを作りながら痛みに転がる兵士を蹴り飛ばしながら、アルギンが声高に宣言する。その間に、アクエリアはスカイとアールリトの手を引いて少し離れた場所に避難した。どちらにせよ、この三人にアルギンを置いていくという選択肢はない。絶え間ない不安に、無意識にアールリトがアクエリアの服を掴む。
「……王女」
「あ、っ。す、すみません」
細い声で謝罪を口にしながら、王女が手を離す。か細い指の力は殆ど無かったのでアクエリアとしても特に迷惑ではなかったのだが、王女はそれきり俯いてしまう。
「だ、大丈夫ですかねアルギンさん?」
「大丈夫、でしょう。あの人は言った事は達成する人です」
スカイの不安も、アクエリアが優しくほぐしていく。しかし、その不安はまた新しく募るばかり。
降伏を勧めたのにも関わらず、その場にいた兵たちはアルギンに肉薄する。数だけで見れば不利ではあるが、アルギンに負ける気など一切無い。
「っはは、ご自慢の怒号も今日ばっかりは効かねぇな、アルギン」
「言ったぜ、アタシはよぉ」
本当は、もうこれ以上剣を振りたくなかった。世界で一番愛する人の剣はやはり、自分には馴染まない。少しずつ荒くなる息を誤魔化しながら、再び剣を構えた。
その時―――風が吹く。
アルギンとミュゼが目を疑った。脇道から何か大きな影が出てきたと思いきや、それが風のような速さで兵達の間を縫うように走る。その影が動きを止めた時、こちらに向かって来ていた兵のうち近場にいたものは全員地に崩れ落ちた。
「―――え」
影、だと思った。その影は、アルギンに背を向けていた。腕くらいの長さの短剣、それが両手にある。男特有の大きな背中、見覚えのある赤い色をした髪は、耳が見えるくらいに短い。着ている服は黒一色だ。腰に更に短剣が下げてある。
「ったく、相変わらず考え無しなのなお前はよぉ。多勢に無勢って言葉があんだろ、お前それでも元隊長か」
「―――。」
聞き覚えのある声、苛立ちを覚える憎まれ口。そして、吸ってないのに仄かに香る重厚な煙草の香り。
「久しぶり。元気してたか」
「―――サ」
サジナイル・ウルワード。
アルギンの記憶の中の彼よりも、少し歳を取ってしまっていた。
元『風』隊長が、そこにいた。
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