第157話
酒場に辿り着いた時、出入り口の扉は開いたままだった。そこに到着して漸く、掴んでいたトーマスの腕を離す。トーマスは何も言わずに、アルギンの後ろに付いて酒場の中に入っていった。律義にも、トーマスは出入り口の扉を閉めてくれた。
地面を見た瞬間、アルギンの顔から血の気が引いた。入り口から中に向かって、血の雫がぽつぽつと落ちている。ここまでの道ではそんな目立つものが無かったから気にはしていなかった。しかし、その血の量は同じ人物を育ての親に持つ弟の死の予感を漂わせていて。
血の跡は一階から二階の階段に続いている。途中から引き摺るような跡になっているのは、あの怪我でもアルカネットが自分で歩こうとしたからだろうか。その引き摺り跡は途中から消えている。
「アルギンさん」
背後からトーマスの弱々しい声が聞こえた。
「アルカネットさんは、無事、ですよね?」
それはこっちが聞きたい。アルギンは問いかけに答えずに階段を上った。
どこかの部屋から話し声がする。血の跡を辿ると自然、声がする方にも辿り着く。
部屋の扉も開いていた。その部屋は、ジャスミンとユイルアルトの部屋だった。
部屋は他の者が使っている者よりも広く、中には既にこの部屋の使用者である二人と、服が鈍い赤茶に染まっているアクエリアと、ダーリャまでもがいた。
そして、シーツを取っ払って寝かされているベッドには、アルカネットの姿。
「おかえりなさい」
アルギンの到着に気付いたアクエリアが、二人の姿を認めて声を掛ける。
ベッドに寝かされているアルカネットは、上半身の服を切って脱がされており、傷口には何枚も布巾が被せられていて、ジャスミンがそれを上から押さえている状態だ。―――アルギンが見て解る程度には、大分酷い。
トーマスが眩暈を覚えたらしく、足元がよろめいた。なんとか持ち直すと、苦痛の表情で顔を逸らす。
「今から縫うらしいですよ」
「縫う? ……そういやお前さん、曲がりなりにもエルフだろ。回復魔法とか使えないの」
「あんなの使えるのはハイエルフだけです。特に俺は、傷つける以外の精霊魔法をあまり知らない」
首を振られて、アルギンの眉間に皺が寄る。つまりそれは、ただのエルフを掴まえてきて金を積んでも駄目だという事だ。確かに、昔隊を預かっていた時でも医療部隊に回復魔法を使えるものは殆どいなかった。
アルカネットは、気を失っているのか身動ぎどころか一言すら発しない。それでも生きているらしく、ジャスミンが懸命に傷口を押さえながら顔色を確かめている。その正面では、ユイルアルトが何かしら曲線を描く小さな針に糸を通していた。それを行う手にはピンセットが握られている。
「気を失ってくれていて助かりました」
ユイルアルトが準備し終わると、ジャスミンが布巾を取り払う。布巾もジャスミンの手も、どちらも血で汚れていた。
傷口を縫合し始めると、その光景よりもえげつないものを見た事がある筈のアルギンは視線を逸らす。アクエリアは興味深げに見ていたが、自分の服の有様を思い出したらしくこの部屋を出て行った。
そこでやっとアルギンはダーリャに視線を合わせた。……その姿は、眠る赤ん坊を抱っこしたままアルカネットを心配そうに見ていた。
「……ダーリャ様?」
声を掛けてから、ダーリャも漸くアルギンを見た。
「どうなさいましたかな?」
「また子守ですか?」
「………。」
アルギンの質問に、ダーリャが黙り込んでしまった。何故かと不思議に思っていたら、ダーリャが唇に指を当てて『静かに』のサインを見せてくる。それに倣ってアルギンも黙り、それから暫くするとユイルアルトが糸を切る静かな音をさせた。
その間もアルカネットは起きない。後はジャスミンがその後の処置をして、包帯を巻いて、それからだった。ダーリャが口を開くのは。
「クプラさんが、居なくなりました」
「―――は?」
その言葉にアルギンが、自分の耳を疑った。
「食事の後、クプラさんが少しの間お願いしたいと。その後、アルカネットさんがこの状態で帰宅なされて、流石にこの子を抱いたままでは……と思って声を掛けたのですが、お部屋にはいらっしゃいませんでした。酒場内を少し探しましたが、キッチンなどの共有部分にも、姿は……」
「え……な、なんで!?」
「さて……、それは私では解りませんな。ですが、あまり良い事では無いのは確かです」
共有部分以外となれば他の部屋は鍵が掛かっているし、アルギンの部屋には今はアールリトがいるはずだ。他にクプラがいられる場所なんて、無いに等しい。
どこに行った。外に出たのか。何のために。
赤ん坊が寝ていてくれているのが救いだ。
「探しに行ってきます」
「どこへです」
「どこ、って……」
外に行こうとしたアルギンを、ダーリャが声だけで遮る。どこへ、と聞かれて答えられる明確な目的地を、アルギンには考える事もできなかったけれど。
答えに詰まっていると、ダーリャが赤ん坊をそっとアルギンに抱かせてきた。無言で受け取って抱くと、ダーリャがアルカネットの処置を手伝う。体中に広がっている血の残りを拭き上げる為に、体を動かす手伝いに加わった。
「幾らお若いといえど、出産直後で動ける場所なんて限られています。そう遠くへは行っていないでしょう」
「……ですが、だからこそ心配で」
「良くない言い方と解っていて言います。……最初から、これが目的でなければいいですね」
これ、と言われてアルギンの理解が追い付かなかった。ダーリャの声は落ち着いている。
「時折、いました。自分の腹を痛めて産んだ子供を、産み落とすだけ産み落として雲隠れする母親は」
「―――クプラがそうだって、言いたいんですか」
「断言はしません。ですがアルギン、その可能性も考えていないと、この子の将来を貴女が背負う事になりかねませんよ。まだ名前さえ貰っていない嬰児を」
名の無い赤ん坊は、まだ眠っている。アルギンは今更になって、赤ん坊に名前が無い事に顔色を変えた。名前は大切なものだから、クプラがゆっくり決めればいいとしか思っていなかった。
愛している筈の子供に、名前を付ける事を後回しにして姿を消す理由。それを考えたアルギンの指先が徐々に冷たくなっていく錯覚を覚えた。
「……やっぱり、アタシ、探しに行きます」
クプラは、子供を大切にしようと思っていた筈だ。だから、自分の古着を使ってでも子供用の服を作っていた。自分が疲れていても、世話をしようと頑張っていた。母親としての義務も果たそうとしていた。アルギンはそれが嘘だったと思う事がどうしても出来ない。
「何か理由があるはずなんです。クプラが子供を捨てるなんて、そんな事思ってたなんて考えたくない」
「……この状況で?」
ダーリャは暗にアルカネットの事を言っている。暫くは絶対安静だろう。借りられる手が減った状況に、アルギンが顔を顰める。
「……その、俺、アルカネットさんの事……本部に報告しないと……」
トーマスがおどおどと言葉を発する。今の状態ではアルカネットが自警団の仕事など出来る訳が無い。
気まずい空気から逃げ出すように、トーマスが頭を下げて逃げ出した。階段を下りる音がする。状況と、命の無事を伝える為に。
「トーマス!!」
アルギンが呼んだ。足音が途中で止まる。
「今日アイツが―――騎士隊長が言っていたココの話、自警団の連中には言うなよ!!」
それはこの酒場が裏ギルドだという話。返事は無かったが、代わりに階段を下りる音が聞こえてきた。
ちゃんとトーマスが理解したのか否かが解らなかったが、今は追いかけて首根っこを引っ掴んで言い含ませることもできない。ただ、願うしかない。
「彼を、自室に運びますか?」
ダーリャはダーリャで医者二人にそう提案している。ジャスミンは緩やかに首を横に振った。
「今動かさない方がいいでしょう、今日は私達がつきっきりで様子を見ますから、このままで」
「そうですか、解りました」
それはかなり状態が良くない事を暗に言っている事を、この場にいた全員が気付いていた。アルギンが唇を噛んで、無言で部屋を出て行く。ダーリャもそれに続いて、二人は静かなまま一階に下りて行った。
一階では心配そうにしているスカイとアールリトの姿があった。アールリトは相変わらず毛布を被っている。
「……アルカネットさん、大丈夫ですか……?」
スカイが心配そうに聞いてくるのに、平然と返せる精神をしていなかった。
「……多分、な」
そう答えるので精一杯だった。アルギンの不安を感じ取ってしまったスカイの眉が更に下がる。
「アクエリアなら部屋に戻ったよ、スカイ」
「そう、ですか」
「話し相手役、ありがとうな」
アルギンがそう言うと、スカイは王女に一礼をした後階段を上っていった。その階段や床にも血痕が残っているから、掃除が大変だとぼんやりとした頭でアルギンが考える。
もう疲れてしまった。何も考えず休みたい。アルギンは手近な椅子を引いて、そこに座った。腕の中の赤ん坊の寝顔を眺めながら、これからをどうすればいいのか考えようとしても考えられない。
頭が痛い。体が重い。思考に靄がかかって、もう何も出来そうにない。
「アルギン」
王女の細い声が聞こえる。
「部屋に戻りましょう? アルギン、顔色がよくないもの」
「……そうですね」
声にそう答えても、腰が持ち上がらない。座ったまま動けずにいた所で、赤ん坊を横から攫われるようにダーリャが抱き上げる。
ダーリャの腕に再度移動しても、赤ん坊は起きなかった。名前さえ与えられていない赤ん坊。まだ産まれて間もない小さな命。
「ミュゼさんが戻られるまで、少し休むと良いでしょう。貴女は少し働き過ぎだ」
「……」
「クプラさんも、もしかしたら戻られるかもしれません。城下の外には行けないと聞きました、ですから本当に、そう遠くへは行ってないでしょう」
ダーリャはそのまま自室に戻っていく。アルギンの視線はその背中を追っていたが、彼の姿が見えなくなるとゆっくりと視線を王女に向かわせる。
「……アルギン」
王女が、アルギンの手を引いた。その手に従って立ち上がる。
立ち上がった後、王女に向かって一言。
「少し、一人で寝かせてください」
「……解ったわ」
王女はなにか言いたそうにしていたが、唇を引き結んで了承した。それに軽く頷いて感謝の意を伝えると、アルギンは一人で部屋に向かう。
残された王女は、どうすればいいか暫く迷っていたが、意を決したように階段を上っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます