第152話

 何があっても、出て来ないでね?


 そう言い残して部屋を出て行ったユイルアルトは、腰にベルトを着けて手に酒瓶を二本持っていた。

 ベルトに下げていたのは、いつぞやに話していた『病原菌』だ。

 酒瓶の中身だって、ジャスミンは知っていた。夏前に依頼が来ていた除草剤、それの残りだ。この場所は酒場が一階にあるだけに、空き瓶には困らない。


 私に何かあったら、この子達をお願いします。


 泣きながら、扉を閉めたユイルアルト。

 この子達、というのは彼女の師から託された植物だろう。彼女の師はジャスミンには『視えなかった』が、ユイルアルトには植物も、知識も、いろんな物を託していた。そして、その師を、ユイルアルトはとても慕っていた。

 聞かなければよかった。

 一階に残った皆の事が気になって、二人は階段の側で聞き耳を立てていた。そして、話されていた事を聞いてしまった。

 師の二度目の死を。そして、師と恩人が大切に想っていた人物の死の真相を。

 ユイルアルトはそれを聞いて、泣きながら、部屋に戻っていった。ジャスミンはそれを追うしか出来ずにいて。


 もう一度部屋を出て行こうとする彼女を、ジャスミンは止められなかった。

 そして、その背中を追う事すら出来なかった。




 ジャスミンが自分のベッドに座ったまま、枕を抱いて塞ぎ込んでいると、外からノックの音が聞こえた。既に一階は静かになって大分経つ。ノックの主はジャスミンの返事を待たず扉を開いた。こんな事をするのは、一人しかいない。


「……まだ、起きてたのですか」


 浮かない顔のユイルアルトがそこにいた。扉を後ろ手で閉めて鍵を掛ける。腰に下げていたベルトを外して、壁の突起にそれを掛けた。ベルトから薬瓶を取り外して、それを調合台に持って行く。

 ユイルアルトはジャスミンに視線をやらなかった。ジャスミンも同じだ。二人の間に気まずさが漂っている。


「……眠れる訳、ないじゃない」

「そうですか。……そう、ですよね」


 ユイルアルトの声は疲れ切っている状態を表したような掠れたものだった。ジャスミンの言葉を受けて、まるで馬鹿な質問をしたと、そう自嘲するような言葉が出る。吐息に笑みが混ざったのを聞いて、ジャスミンが顔を上げた。

 持って出た筈の酒瓶が無い。という事は使ったのか。使って、何か効果が出たのか。聞きたい事は山ほどあれど、質問がジャスミンの唇から出ることは無かった。ユイルアルトが無傷で帰って来た、それだけでジャスミンの聞きたい事への答えは出ているようなものだ。


「もう、寝ないと。明日からも大変ですよ」

「……。」


 無言で枕を抱き締める。今何を言われても、素直にはいそうですかと聞いてやれる気分ではない。

 怖かった。ユイルアルトが、いつかジャスミンを置いていきそうで。

 ユイルアルトは知識を持っている。それに伴う医術に関する腕も。本当はアルギンの言うように、いつこの酒場を出て行ってもおかしくないのだ。

 置いて行かれるのは、見捨てられるのは、ユイルアルトでもアルギンでもない。ジャスミンの方。


「……あの子たちのお世話、一人ですることにならなくて良かった」


 ユイルアルトを一人で行かせた自分が悔しくて、強がりのようにそう口にした。そんなジャスミンに、視線の先の金髪の女性は苦笑を浮かべるばかり。

 あの子たち、というのは二人が大切に育てている薬草だ。これまで何種類育てて来ただろう。二人で育て、採取し、花粉付けもして、病気も二人で対策してきた。ユイルアルトは植物を通して自分の無事を確かめるように、冬の気温に耐えている葉をひと撫でした。

 そして、その場に座り込む。力尽きた時のように、腰から床に落ちていく。


「………私は」


 ユイルアルトが俯いた先の床では、涙がぽつりと円を描いた。


「戦えない自分を、こんなに疎ましく思った事はありません。私は師の仇も取れない。憎い相手に一矢報いる事しか出来ないなんて、こんなの、嫌。憎くて、憎くて、けれど、どうしようもない」


 涙の雫は尽きることなく、床を濡らしていく。啜り泣くようなユイルアルトの声に、ジャスミンが徐に立ち上がった。泣く彼女の背中を撫でて、その隣に座る。

 ユイルアルトが泣く事は珍しくない。普段の振る舞いに似合わず、感情の起伏は激しい方だ。けれど、ここまで感情を露わにしている姿はジャスミンでもあまり見ない。植物を滅茶苦茶にされた時だって、彼女はただ黙ってじっと耐えていた。

 涙の効力を、ジャスミンは知っていた。行き場のない感情を発散させるのに、涙は特効薬と言って良い。しかし、この涙はユイルアルトを幸せにするものとは違う気がして瞳を伏せる。


「……イルは、私より力を持ってる。そんな事言われたら、私の立つ瀬がないじゃない」


 ジャスミンの本音は、口にすればただ苦いだけ。自分の無力は自分が一番分かっていた。弱い自分を弱いと認めることは、若いジャスミンにはまだ難しい事だった。ユイルアルトは肩越しに振り返り、顔を見ながら鼻を啜る。その間に、涙の量は少なくなっていた。


「憎いって、どうにかしたいって、そう思う気持ちは少しは解る。けれど、分不相応な行動をしてしまったら、仇を取る事も出来ないじゃない」

「でも」

「イルにはイルの出来る事がある。……そうでしょう? だから、貴女はあの薬剤を持ち出してまで降りて行った。私は、貴女の後を追う事も、引き留める事も出来なかった。……私が、弱いから」

「そんな事」


 今度はユイルアルトが、縋るようにジャスミンの肩へと手を置いた。小さく首を振りながら。


「ジャスが弱いなんて事ない。ジャスは強いです、私は、ジャスにいつも助けられてる」

「私だって、同じ。いつもイルに助けられてて、でも、私は貴女に勝てないの。……変な話ね? 勝ちたいなんて思った事も無いのに。私は、貴女と一緒に同じ景色を見たい。貴女と、笑ってたい」


 二人は見つめ合って、それから、噴き出す様に笑った。ユイルアルトは涙に濡れたぐしゃぐしゃの顔で。

 ユイルアルトが乱雑に、袖で自分の顔を拭う。涙の拭き取られた顔からは、もう雫が落ちることは無かった。


「貴女に何かあったら、私は貴女と同じ事を言う羽目になる。……どうか、それだけは忘れないで。覚えていて、貴女と一緒に生きていきたい女がここに居る事を」

「ジャス……」


 掠れた声で、ありがとう、と聞こえた。それはジャスミンの鼓膜を心地よくくすぐる。

 二人は互いに支え合って立ち上がり、それぞれのベッドに移動する。ユイルアルトは疲労感に耐えきれず、すぐに横になってしまった。


「……除草剤も、薬瓶の中身も、使っちゃったから……また、明日からどうにかしないと」

「そうね。……でも、それは明日の話。今日はもう寝ましょ」


 囁くような二人の話。それから、僅かな灯りに点けられていた蝋燭をジャスミンが吹き消した。

 真っ暗になった部屋。身じろぐ音が二人分聞こえるだけの静かな空間。


「ねぇ、ジャス」


 静寂を破ったのはユイルアルトの声だった。


「一緒に生きていきたいのは、私じゃなくてフィヴィエルさんの方じゃないんです?」


 ベッドから跳ね起きる音がする。部屋の中は真っ暗で見えないが、動揺したジャスミンが起きたのは見なくても解った。


「なっ……、そ、それを言うならイルだって同じでしょう!?」

「あ、同じって言った! 認めた!!」

「イル!!」


 ジャスミンが夜目だけを頼りにユイルアルトのベッドまで乗り込んできた。楽しそうな声をあげながら、ユイルアルトがベッド端まで寄った。近くで見るジャスミンの顔は、怒っているような、照れているような表情で。


「……一緒に生きていきたいって言っても、彼の事だけは別だから」

「いいじゃないですか。勝っても負けても恨みっこ無しですからね」


 ジャスミンが乗り込んだ先のベッドで横になった。ユイルアルトの陣地を半分占領して、毛布の中にも潜り込む。

 狭いベッドの中で、二人は顔を近付けた。


「望む所よ」

「公平に行きましょうね」

「当たり前じゃない」

「ジャスのそういう所、大好きです」


 先程とは違う意味合いで微笑みあう二人。けれど敵意はなく、悪戯っ子がするような表情で。

 やがて二人は眠りに就く。身を寄せ合い、温もりに包まれながら。


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