case8 遺されていったもの、遺して逝った者
第129話
五番街の通りは朝から静かだった。
いつもなら買い物や仕事でそこそこ活気づく街である。
しかし今日は昼前になっても通りに人の影は少ない。それは先日の地震と、それによる物品の買い占めが起きたからだろうという事は容易に想像できる。
自警団の呼び出しを食らったアルカネットは昨晩から帰って来ていない。酒場に残っているギルドメンバーはそれぞれ自分の好きな時間に起き、朝食を食べ、また部屋に戻ったり外出したりしていた。
アルギンが一人静かな空気の中で酒場の暖炉に火を点け、鼻歌を歌いながらコーヒーを淹れていると、控えめな足音をさせてクプラが二階から降りて来た。
「クプラ。どうした?」
クプラは暖かそうな厚手のケープを羽織り、腹を支えて歩きにくそうにしている。妊婦に二階は厳しかったかな、とアルギンが思うが、一階の部屋はアルギンが使っている部屋しかない。クプラは言う。「いえ、その」と。
「少し、散歩に行きたいんです」
「散歩?」
「でも、この周辺の地理が解らなくて。……こんな事お願いするのは変ですけど、付き合って貰えませんか?」
「いいよ。体調良さそうだね、良かった良かった」
アルギンが快諾すると、クプラの表情が明るくなる。三番街に住んでいたのなら、五番街の地理なんて頭になくて当然だ。アルギンはコーヒーが入ったポットをカウンターに置き、それからクプラの側まで行く。
クプラは立っているだけでも苦しそうだった。産み月に入っているなら腹が張る事も多いだろう。自分の時のその苦しみを思い出しては顔を顰める。
「おーい皆ぁ、コーヒー淹れたから飲みたい奴は下りといで、アタシ出てくるからなー!!」
折角淹れたての温かいコーヒーを無駄にするわけにはいかない。階段に向かってそう声を掛ける。ごそごそと誰かが動いている気配を感じながら、もう視線は扉に向けた。
「じゃ、行こうか」
「ありがとうございます、一人で出るのは不安だったから……」
「こんな状態でさえなきゃ、色々寄り道しても良かったんだけどな」
酒場の扉を開く。外の空気は冬らしく冷たく、外気に晒されている肌は寒さに痛みを感じた。アルギンはそれまで着ていた厚手の服で何とか耐えられるが、クプラは身を竦ませて寒気に耐えている。
アルギンが息を漏らす。最低限の荷物だけで逃げて来たクプラには、防寒具が足りない。
「……ちょっと寒いな」
「で、ですね」
「ちょっと服取ってくる。クプラも中で待ってて」
扉は、二人を外に出すことなく閉まる。アルギンは自室に行き、外行き用の腿当たりまである濃茶の上着を手に取った。それを着込むと、今度は脛辺りほどまでありそうな白の上着を手にして、また酒場出口まで戻る。
戻って来たアルギンを見たクプラは驚いていた。その手にある防寒具の意図に気付いたから。
「ほら、クプラ。妊婦は体冷やしちゃいけないからな」
「……ありがとうございます」
「もうすぐ雪が降りそうだね。皆の部屋も、どうにか防寒対策してやんなきゃいけないな」
それはもう冬が到来した今考えたって遅すぎるような事だが。
アルギンが再度扉を開くと、二人とも何とか外に出ることが出来た。例えどんなに厚着をしていても、寒い事には変わりない。
二人が出て行ったところで、誰かがコーヒーを求めて二階から降りて来た。それに挨拶することもせず、扉が閉まる。
散歩とは言っても、店の閉まった五番街には見るべきところなど殆どなかった。美味しいパン屋から漂う焼き立てのパンの香り、港町から獲れた魚を朝一で売り始める魚屋から聞こえる声、保存の利くハムやソーセージを店先にぶら下げている肉屋、普段であればそれらは賑やかに営業している筈だったが、全て休業の立て札を置いて閉まっており、今でも店を開けているのに閑古鳥が鳴いているのが本屋と花屋だ。花屋は街全体がお祝いムードからかけ離れているせいで閑古鳥が鳴いているが、本屋はいつも通りの静けさ。店長であるはずのアルギンの知人の痩せた中年男は、この寒空の下に店外に椅子を出してそこで本を読みふけっている有様。アルギンとクプラが前を通っても気付いていない。
そんな通りから少し外れた場所、冒険者ギルドがある道では今日も冒険者が喧々囂々としている。その喧噪を横目に、二人は街の外れ、川まで来た。
この川は五番街と六番街を分ける川で、橋を渡ればもう六番街だ。クプラは初めて見るらしい六番街の景色にほう、と溜息を吐いている。五番街よりももう少し治安の良い六番街は、橋の先の道は全て石畳。雨の日でも足元が濡れにくいと評判だ。
「噂には聞いていましたが、石畳って良いですね」
クプラはその景色を羨んでいるようだった。五番街だって治安が良い方ではないが、クプラの暮らしていた三番街はもっと治安が悪い。クプラの目に映る六番街は、理想郷のようなものなのだろうか。
「五番街は冒険者ギルドがあるから少しは潤ってるが、石畳引くような金までは無くてな。自警団の方にも街の予算割いてるし、当分は今のままだな」
「そうなんですか? ……石畳あったら、……子供が歩くようになっても、雨で足元濡れなさそうでいいなぁって」
「いや、石畳でも子供なら容赦なく濡れる。大丈夫。寧ろ傘とか捨てて濡れて走り回る」
「……あー……。確かにそうですねぇ」
クプラが自分の腹を撫でる。その手は細く、肉がついていない。そして所々荒れていて、着ている上着の布地に肌のざらつきが引っかかっていく。これまで生きて来た間に苦労をした手だ。
「……アルギンさん、って……。お子さんいるんでしたよね」
クプラの言葉に、アルギンが遠い目をした。今は視界に入っていない、十番街の孤児院を見るように。
周囲の気配を窺った。この場所には今二人以外はいないようで、アルギンはぼんやりしながら口を開く。
「……いるなぁ。言ったが、双子」
「今、どうしているんですか? ……あ、聞かれたくなかったならごめんなさい」
「別に。……ちょっと、危ない仕事してるから……、別々に暮らしてる。たまに会ったりする」
「危ない仕事って……、昨日の、みたいな」
「念の為言うけど」
それを言う時だけ、アルギンは非情の仮面を被る。
「もし余所にその事言ったら、多分クプラ殺されるから」
「―――……。」
「……もう手遅れなんだけどな。知っちゃったら」
非情になりきれない自分を解っていて、それでも脅し文句を言うのは、クプラに自分と同じ思いをして欲しくないから。愛する人を失って、子供まで手放して、それでも生きていく自分に意味を見出せないアルギン。ここに煙草があったなら、アルギンはきっと吸っていた。
「……もう手遅れなら、知りたいです。気になるじゃないですか、そんな言われ方したら」
クプラの言葉は尤もだった。毒を食らわば皿までも。アルギンだって、かつてはそうだった。
「クプラって、アタシの事知ってる?」
「アルギンさんの事? ……いいえ、何か有名な人だったんですか」
「昔はね。この国、戦争してたのは覚えてる?」
「一応……。その頃は私、毎日生きるのが精いっぱいで。冒険者達がよく来る三番街の食堂で働いてたりしました」
「あー、そんな事してたのか。……んじゃ、知らなくても無理は無いよな」
生きるのに必死な人間は、自分の身近なこと以外に頓着しない場合が多い。アルギンは有名だとしても、それを知らない人間が城下にはまだいるのだろう。アルギンはクプラの言葉に納得して、自分の過去を明かすことにした。
「アタシ、元騎士」
「………え」
「隊長やってたの。もう五年以上前の話になるけれど」
それを明かした時、クプラはきょとんとした顔をしていた。話はなんとなく飲み込んだらしい、でもとても驚いたような顔ではない。そうなんだ、と、他人事を理解した顔。
「夫は戦死。気付いたら妊娠してて、騎士を隊長ごと辞めて、今の酒場で生活してる。でも騎士の頃から危ない仕事任されてて、そのせいで子供達と離れ離れ」
「……さみしく、ないんですか?」
「寂しいよ。寂しいし、悲しいよ。でもアタシが今生きていられてんのは、子供達のお陰だし。いつか一緒に暮らせる時まで、アタシは頑張らなきゃって……思ってる」
それは寒空の下でする会話ではなかったかも知れない。長くなるのは目に見えている。アルギンは掻い摘んで自分の事を話して、それから寒さに身震いし、くしゃみを一回。
「……寒いな」
アルギンの言葉に、頷くクプラ。
「ですね……」
それは自分たちの身の上の事でもあっただろう。配偶者のいない状態で子供を産み、育てるのは容易ではない。アルギンが出来たのは、支えてくれる人がいたからだ。今のクプラには、支える人間がいない。そして、それになりたいとはアルギンは思えなかった。昨日知り合って今日散歩しただけの関係、そんな薄っぺらい仲でこれからを約束なんてできはしない。それは少し前に逝った、オリビエの事が胸に残っているからかも知れない。
アルギンは空を見上げた。頭上は限りなく晴天。この国に住んでいる者達の気持ちも知らず。
「ちょっと顔見知りの店に寄ろうか。開いてなくても茶くらいは出して貰えるだろ」
「それ、いいんですか?」
「多分な。駄目だったら駄目って言われて、それで終わり。それだけの話だ」
少し戸惑うクプラの心を余所に、アルギンが再び歩き出した。目的地は付き合いのある知人の店で、ちょっと迷惑そうにはされたが紅茶を出して貰う事には成功した。
クプラの表情は、穏やかだった。今急いでどこかに逃げる必要もなく、何かに縋る必要もなく、そんな安心を感じ取れているようで。
温かい紅茶を啜るクプラを、アルギンはじっと見ていた。今はひと時の休憩。この先の未来、クプラがあの酒場に身を寄せたことを後悔しないように努めるのは、まだもう少し先の話でいい。
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