第111話
戦装束はいつかに着た薄青のドレス。昔付けられたワインの染みは城仕えの女従が綺麗に抜いてくれた。そして、そのままずっとクローゼット奥に仕舞い込んでいた。
足には結婚式の時に履いていた高いヒール。これももう二度と履く事はないと思っていたけれど、あの人が側に居てくれる気がして選んだ。
その二つを部屋のベッドの上に置いて、背中半ばまである長い髪をくるくると弄びながら見比べる。今のアルギンの一張羅がこれらだ。着飾る事にまったく興味が無い性分は変わっていなかった。これを着るとしても、舞踏会にそのままの髪では場で浮いてしまうだろう。それくらいは考えるようになれたのは、ソルビットが過去アルギンの世話を焼いてくれたおかげか。
「……髪、なぁ」
銀糸のような髪は、今でもアルギンの外見を褒めそやす者が注目する一部分だ。手入れは寝る前に専用の油を塗るだけしかしていないが、それでこの質感を保っていられるのは奇跡に近いらしい。化粧はせずとも最低限の手入れだけはしているアルギンは、こんな事があるのなら前からきちんと手入れをしておくべきだったなと後悔した。昔調達した化粧道具は、もう年数が経っていたので処分してしまった。
仕方ない、買いに行くか。そう思って部屋を出る。時間は今、正午前。
「あ、おつかれー」
部屋を出て、酒場ホールを通る時、外から帰って来た者がいた。軽くアルギンに挨拶する。
「おう、お疲れ」
それに返すアルギンの言葉も軽い。相手がミュゼだったからだ。
「珍しいな、こんな時間に。もう仕事終わりか?」
ミュゼはいつものように金糸の髪を一つに結い上げ、白と濃紺が基調のシスター服を着ている。仕事終わりの割には表情は左程疲れていなさそうだ。
その手には買い物帰りのような紙袋を持っていた。荷物として見えるのはその位だ。
「いや、ちょっと孤児院の買い出しにな。あと必要なものが出て来たから寄ったんだ」
「買い出し? 珍しいな、孤児院で必要なものは配達されるんじゃなかったか?」
「そう! ……そうなんだけどよ、今回は事情が違ってよ」
事情とは何ぞや、とアルギンの表情が語っていた。そんなアルギンを横目に、ミュゼが荷物を一番近いテーブルに置く。その中身を袋から出し始めたミュゼに近寄って、その中身に目を丸くする。
「……これ、孤児院で使うのか?」
「おうよ。今度仕事が決まった子がいてよ、一人立ちすんだぜ」
「一人立ち……」
その言葉は先日からの件によるアルギンの心の痛い所に刺さったが、ミュゼはそんな事知らないままに話を進めていく。袋から出て来たものは、掌に収まる程に小さな木箱やガラス箱。そういった関係のものに疎いアルギンだって解る、それは化粧品だ。白粉や紅、爪紅や眉墨まで。それらは孤児院が買える程度の品で高級品ではないにしろ、新品のそれらの美しさ。
アルギンが一式揃ったその艶やかさに溜息を漏らす。幾ら疎くても、綺麗な物には素直に反応する性分だ。
「そんで、流石に化粧品の使い方も知らないまま一人立ちってのは不安って話が出たんだよ。あんまり買い替えってのも頻繁には出来ないけど、そういうの教えたりするのもいいんじゃねえかってなってな」
「……まぁ、そうだな。でないとアタシみたいなのが出来上がるからな」
「自覚あんなら化粧くらい覚えろ。……っても、私もそう得意じゃねぇけどよ」
そう言ったミュゼの頬には白粉が叩かれているらしい。普段気にする事も無かったが、改めてそう見るとミュゼは立派な淑女だった。その素の表情を知っていると顔を顰めたくなるが。
取り繕った顔は立派な子供好きの慈悲深いシスターだ。子供好きなのは素の顔でも変わらないが、アルギンに勝るとも劣らないオッサンぶりはこの酒場の住人なら知っている事で。
「んじゃ、ちょっと部屋帰るぜ」
「そういや、必要なものってなんなんだ?」
「ん? 私の手持ちの化粧道具。流石に色味が一種類だけだと似合う色も解んねぇだ、ろっ」
言いながら部屋に下がろうとするミュゼの手を引いた。進む勢いが殺されて変な声が出る。振り返った視線の先のアルギンは、目がマジだった。
「ミュゼ、ちょっと別口で仕事頼まれてくれないか。今回はアタシ羽振り良くしちゃうぞ」
「……嫌な予感するから断ってもいいか?」
「断るな。今度アタシ舞踏会に呼ばれてんだよ、絶対出席するように言われてるんだけどさ」
「あー、なんかその先読めた。読めた気がするから手ェ離してくれない?」
「アタシの化粧頼みたいんだが。必要なら金も払うから道具買って来てくれ」
「もうそれアルギンの中じゃ確定事項だな? アタシに拒否権無いんだな?」
ミュゼに取りすがるアルギンの姿はさながら幽鬼だ。ミュゼが後ずさりしようとするもアルギンの力が強すぎて動けずにいる。押し問答を何往復か繰り返したのち、折れたのはミュゼの方だった。
「あー、はいはい解りました! 解りましたよ!! でも腕前に期待すんなよ、私だって素人なんだからな!!」
「よっしゃ!!」
化粧人員の確保に成功したアルギンが喜びの声を上げる。ミュゼは問答だけで疲れてしまった。部屋に戻るミュゼをもう追う事もしないアルギンは、彼女が戻ってくる間テーブルの上に並んでいる化粧道具を眺める事にした。
普段化粧をしないアルギンでも綺麗だと素直に思えた。綺麗なものは好きだ。それはドレスでも宝石でも。けれどアルギンにとっては、自分にとって遠いものとしか感じられなくて。
化粧をしたのはいつが最後だろう。子供が生まれてからは一切化粧をしていない。記憶を辿れる所では、一番古い化粧の記憶は結婚式の時だった。それから更に記憶を辿ったらその前に化粧をしたのはアールヴァリンの成人祝い。それほどまでに化粧っ気と縁遠い自分に少し呆れた。
そのまま化粧道具を眺めていると、暫くしてミュゼが階段から降りて来た。手には小さな袋を持っている。その中に自前の道具があるのだろう。
「……んじゃ、私はもう行くけど。何、その化粧しなきゃいけないのっていつ?」
「明後日」
「馬鹿じゃねぇの」
「んで時間までは聞いてない」
「聞いとけよ馬鹿」
二段階で馬鹿扱いされてアルギンは膨れっ面だ。そんな顔すんなよ年齢考えろ馬鹿、と更にミュゼの追撃。あまりお行儀のよくない二人の会話は、何も知らない人が聞けば喧嘩腰にしか聞こえないだろう。けれど二人は不思議と喧嘩をすることがない。纏う空気がどこか似ているのは、本当に二人が混じりのエルフだからというだけだろうか。
「……なぁ、ミュゼ」
「んだよ」
アルギンがミュゼの腕を再度引いた。
「お前も来る? 舞踏会」
「はぁ!? 何でだよ、嫌なこった」
ミュゼがその腕を振り払う。
「じゃあ料金上乗せで依頼する。アタシのへそくりから払う。一緒に付いて来て。勿論お前さんだけじゃない、他にも連れて行こうって思ってる」
アルギンがまた腕を引く。今度の腕は簡単には振り払えない。
「な……ん、だよ、急に。何があるってんだよ、その舞踏会とやらに」
ミュゼはアルギンの手が震えているのに気付いた。
「解んない」
アルギンは、考えていた事があった。出席するのは自分だけなのか。もし、出席する条件に他のギルドメンバーを連れて行く事を提示しても、自分の出席は絶対なのか。
叶うなら、メンバー全員を連れて行こうと思っている。その連れて行くメンバーの中にアクエリアを入れるかどうか、まだ心が決まっていないけれど。
「解んない、けど、アタシ一人だったら、折れそう」
それはミュゼに零す弱音。他人とは思えない出自に、少しだけ安心感を覚えているのかもしれない。ミュゼとは短い付き合いだが、時間が経つたびに他人だとは思えなくなってきていて。だから、こんな弱音を吐くのかもしれない。
ミュゼも驚いていた。男勝りな性格はこれまでで解っていたし、憎い敵の根城に奇襲をかける程度には無鉄砲なこの女が、目の前でこんな言葉を零す。御岳だけは繊細そのままの脆い言葉を吐き出す姿は、ミュゼは疎か他のギルドメンバーだって殆ど見た事がない。
「………何があったんだよ、アルギン」
ミュゼの問い掛けに答えるアルギンの声は、口から先に出てこない。喉奥で言いたい言葉が上手く纏まらずに引っ込んでいく。そんなアルギンはミュゼの目から見ても、とても頼りなく見える。いつものギルドマスターとしての顔は、今は見えない。
いつまでも腕を引かれているのが嫌になって、ミュゼは今度は無理矢理振り払う。その瞬間のアルギンの表情は、今にも壊れそうなほどに青ざめていて。
「話なら、帰ってから聞くから。……それまで、待てるか」
「…………。」
「待てない、ってか」
ミュゼにとってのアルギンは、口に出して言えない何かだった。抱く感情も、愛情とは違う、しかしそれによく似た何か。親愛が一番近いかもしれないが、決してそれそのものとも言えない。
憔悴している様子のアルギンを置いていくことも出来ず、ミュゼが頭を掻いた。それから、唇を尖らせて。
「んじゃ、付いてくるか」
「え」
「私だって仕事あんだよ。……少し環境が変われば落ち着くかも知れないだろ、一緒に来いよ」
その提案は騒がしい孤児院にアルギンを行かせるというものだったが、アルギンはあまり躊躇うことなく頷いた。ミュゼの働く孤児院は、今までアルギンは外から見はすれど入ったことがないからだ。
「行く」
「……じゃあ、外出準備しろ。戸締りは大丈夫か」
「多分大丈夫」
「そ、か。……なんか変な感じだな」
「何が?」
二人並んで酒場を出て行く時、ミュゼの頬は僅かに赤かった。それを含めてミュゼの様子に疑問を感じたアルギンが聞き返す。
「こうして、……アルギンと……一緒に外に出る事、無かったろ」
「ん? ……ああ、そうだっけな」
「新鮮、ってかさ……。それこそ、アタシはここに来てから大体一人だったけど、ユイルアルトとかジャスミンとかとは買い出しに行くことがあってさ。……オルキデとマゼンタは二人で行動してたし、アルギンとは買い出し時間とかいつも違ってさ」
「……そうだな」
だから、と付け足したミュゼは照れくさそうだ。普段見せないその表情に、何かしらの違和を覚える。何故そんな程度でこうも照れることがあるのか。道の先を歩き出したミュゼは小走りだ。アルギンも酒場の外鍵を閉めて、その小走りを追いかける。
「不思議な感じだな。こんな風に歩くなんて、昔の私は考えた事も無かったよ」
時間は正午になったばかりだ。街には昼食のいい香りが漂っている。
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