第108話
「夜逃げ、するんじゃなかったんですか」
フィヴィエルが帰った後、店の簡単な片付けをしていたアルギンにユイルアルトが声を掛ける。
ジャスミンも部屋に戻った今、酒場にはアルギンとユイルアルトしかいない。静かな夜の空気が、透明ささえ感じさせるユイルアルトの声をアルギンの耳へと届けた。
静かだった。とても静かで、その静寂が邪魔された事に、アルギンは眉を寄せた。
「……夜逃げするには、ちゃんとした情報が必要だろ。その情報次第で、アタシは本当にこの国を出て行くさ」
テーブルを拭いて回りながら、アルギンは事も無げに言う。ユイルアルトは手にモップを持っていたが、話しをしている間にそれが動くことは無い。
「カリオンさんを連れて来いだなんて、あの人に言って良かったんですか」
「何でだ?」
「もし今日の事をそのまま伝えられたら、国家に仇成す敵って認識されて、アルギンの身が危ない事になりませんか」
「アタシをしょっ引くってんなら、本当に国家がこの国をどうにかしようって考えてるんだろうさ」
アルギンの話す内容が他人事のように思えて、ユイルアルトが歯噛みした。ユイルアルトは、フィヴィエルに知己以上の感情を抱いているが、ジャスミン程に信用している訳ではなかった。彼は騎士なのだ、騎士とはどういうものなのかは、この国に来て、アルギンの側に居て、何となくだが解っている。
この国の騎士は、いつでも弱い者の味方という訳ではない。国益になるものを守り、それ以外を傍観し、国に不利益を齎すものを切り捨てる。アルギンがギルドマスターとして割り振って来た仕事は、いつもそうだ。
「……大丈夫だよ、イル」
そしてユイルアルトの視界の中で振り返るアルギンは、微笑んでいた。
「アタシは、自分の身の振り方くらい解ってるよ。あちらさんは、アタシを簡単にどうこう出来たりしない」
微笑みと共に言われた言葉に対する信憑性は、ユイルアルトには到底図り切れるものではない。アルギンと国家の関係は、ユイルアルトが知っているより大分深そうで、これ以上何を言っても無駄だと思ったのかユイルアルトは掃除を再開する。掃除ももう、随分慣れた。
アルギンもテーブルの拭き上げを終わらせ、今度はテーブル席の一つで売上金の計算に着手する。ざっくり見たところ、今日もそこそこの黒字ではある。
「それに、もしアタシがどうにかなっても、お前さんには独り立ちできるくらいの腕も人脈もあるんだから大丈夫だろ」
気軽に発されたアルギンの一言。その一言に、ユイルアルトが目を剥いた。わなわなと震える腕が、手の中のモップを投げ捨てる。
「何がっ!!」
木製のモップの柄は乾いた音を立てて床に落ちた。その音と声にアルギンは顔を上げる。視界の中のユイルアルトは、まるで憎悪を抱いているように顔を歪めていた。いつも余裕そうな表情を浮かべているユイルアルトは、何処にもいなかった。
「お、おい? イル?」
「……何が、大丈夫なんですか」
ユイルアルトは、彼女にそう言っていなくなった人物がいた。
「リシュー先生も、アルギンも! ……私はまだ未熟で、それなのに、何が大丈夫って言うんです!」
リシューは、あれから姿を現さない。
「そう言っていれば、いざって時に突き放しても罪悪感が無いでしょうね! 独り立ちなんて、便利な言葉でっ……。アルギンが『どうにか』なったら、それって、もう二度と逢えないって事なんじゃないんですか!?」
「それは……」
「アルギンは、卑怯です。そんな言葉で人を突き放そうとして、人の事考えてる振りして、結局自分の事しか考えてない。アルギンは、アルギンは―――」
感情が爆発する。いつも何を口にすべきか考えて発言する筈のユイルアルトが、思った事をそのまま口に出す。それはお互いに良い事にはならないのに。
それでも、見えない地雷を踏んだのはアルギンが先だ。ならばユイルアルトは、見えている地雷を思いきり踏みつける。
「亡くなった旦那さんのところに、早く行きたがっているようにしか見えません」
その地雷の威力を、目を見開くアルギンの表情で目の当たりにする。
ユイルアルトは落ちているモップもそのままに、二階への階段を駆け上がる。大声を心配して降りて来たらしいアクエリアと階段で肩がぶつかるも、そのまま部屋まで走り去ってしまった。
アクエリアはそのまま階段を降りきる。そして、ユイルアルトが去った方向を見続けているアルギンの側まで歩いてきた。
「……アルギン?」
何があったか詳しく知らない筈のアクエリアも、先程までの大声を聞いているだけにただ事ではない状況を感じ取っていた。アルギンは未だ固まったままだ。
アクエリアが両手を開き、ぱんぱんと大きい平手の音を出す。その音にやっとアクエリアに気付いたらしいアルギンが体を震わせた。
「そんな顔、久し振りに見ましたよ」
「……アクエリア、……どうした、こんな時間に下りてきて」
「大きな声がしたから様子を見に来たんですよ。珍しいですね、喧嘩でもしました?」
「アタシが? そんな、喧嘩なんてする訳……」
そう言われて先程のユイルアルトの顔を思い出した。あの顔をさせておいて、喧嘩じゃないなんて言えない。大きく溜息を零しながら、アルギンは売上金を広げた台の上に沈み込んだ。居場所を追われた小銭と紙幣がテーブルの上を動く。ちゃりんちゃりん、と小銭の一部がテーブルから落ちる音もした。
「……アタシ、そうか、アタシ……怒られたのか」
「何があったんです」
アクエリアが問い掛けてくるのは、アルギンの心の揺れを感じての事。これまで一緒に暮らしてきて、互いに何かの情が芽生えているから。それは愛情でもなければ友情ともちょっと違う。一人の男を軸にした、歪な疑似家族のような感情だ。それはアルギンとアルカネットの関係に少し似ている。
そんな感情が互いにあるのを解っていて、そしてアクエリアなら今の状況に何と言ってくれるかが気になって、アルギンが口を開いた。
「自分の事しか考えてないって」
それは痛い所だった。呆れるほど、呆れられるほどの自分勝手だと自覚している。
「……死んだあの人の所に、早く行きたがっているようにしか……見えないって……」
言葉は無意識に切れ切れになる。言葉にするたびに、死んだ彼の姿がちらつく気さえして。
アクエリアはそれを聞いたと同時、溜息を吐きながら首を竦めた。
「………あの頃の貴女と比べれば、今の貴女はそこまで無いですよ」
「あの頃って何だよ」
「入院中の貴女です。病室でいつも半狂乱、口を吐く言葉は『アタシが残れば良かった』。食事は残すわ食べても吐くわ、体掻きむしり過ぎて拘束具付き」
アクエリアは彼の戦死を聞いた直後のアルギンの様子を知っている。そして面会に時折行った。その度に、アルギンの酷い憔悴ぶりを見た。
それは二か月続いた。体調が悪くて、これは本当にアルギンは死ぬのか―――そう思った矢先の、妊娠発覚。
「貴女が生きていないと、あの双子も生まれなかったでしょうしね」
「……ウィリア……。バルト……」
アルギンが名を呼んだのは、死ぬ思いをして産んだ可愛い二人の子供。アクエリアはその双子にもまるで伯父のような感情を抱いている。小さい頃から、理由あって孤児院に預けるまでの一年間、アクエリアは育児に協力した。
その双子がいるから、アルギンは生きている。アクエリアはそれを知っていた。
「それで、そんな事を彼女に言わせたからには、貴女も相当の事を言ったんじゃないですか?」
「へぇ?」
アクエリアにも、ユイルアルトが言った言葉はアルギンの地雷になると解っている。だから、その原因となったものを探ろうとするが、アルギンは無自覚だった。
「……そんな、アタシ、イルには……アタシがいなくても独り立ち出来るだろ、って言っただけ……」
「それだけですか」
「………。」
問い詰めるようなアクエリアの視線に耐えきれなくなって、アルギンはついに体を起こして口を割った。
二番街で見つけた植物。
それを一緒に見ていたフィヴィエル。
フィヴィエルに言付けた事。
それを気にしてのユイルアルトの言葉。
アクエリアに語ったのは断片的にだが、何となく理解したらしいアクエリア。
二人が知らないのは、ユイルアルトが師として慕っているリシューの姿が暫く前から見えなくて、少し不安定になってる彼女の精神状態。
「……カリオンさんはそんなに信頼できる人ですか?」
アクエリアも、ユイルアルトと同じ疑問を抱いた。何回か顔を合わせた事があるだけの、騎士の頂点に立つ男。人となりは親しみやすくて良いとは思うが、それが市民に戻ったアルギンにまで良い作用を齎すとは考えにくかったのだ。
「アイツはな、あの立場にはいるが国より市民優先なんだよ」
「本当にですか?」
「でなきゃ、こないだのスカイの件でわざわざ四番街にまで出張したりしないだろ。いくらプロフェス・ヒュムネが関わってるっていっても部下に任せて自分は高みの見物だ」
正確には『酒場を壊された腹いせの逆襲』なのだが、アルギンの中ではスカイの件として一括りにされているらしい。しかし確かに、国家が保護しようとしているプロフェス・ヒュムネを奪おうとした賊ではあったのだが、言われてみれば彼まで出てくる必要は無かった。アクエリアも言われなければ『暇なんだなぁ』で片付けていたかも知れない。
「………プロフェス・ヒュムネですか」
「ん?」
「もしかしたら、俺の探している人も、今国に保護されているプロフェス・ヒュムネだったりして……なんて思っただけです」
「はぁ?」
自嘲気味に笑いながら言ったアクエリアの顔はどことなく暗い。
「探している人って、お前さんの恋人だろ? ……その、葉緑斑とか無かったのかよ」
「無かったですね。……いえ、言ってみただけです」
「無いってんなら王族でもない限り無いだろーよ。……王族?」
アルギンには、ふと一人の女性の姿が思い出された。
王族、で、二十年以上前にアクエリアの恋人だった、という事は今四十近い、或いはそれ以上の年齢で。
頭を振った。無い、と思いたかった。
「………いやいやいや、ないない」
「……何か?」
「いや、一瞬だけ条件に合ったプロフェス・ヒュムネが一人いるなって思っただけだ」
「条件?」
「忘れろ」
言いながらもアルギンは、その人物の指に嵌まった金の指輪を思い出していた。
その人物がするには、あまりに質素過ぎるその指輪を。その記憶は印象的過ぎて、過去に見て未だに忘れられない。
「……あのさ、お前さん、その恋人さんに指輪送ったことある?」
「指輪ですか? ええ、求婚するときに渡しましたよ」
「どんな」
「どんなって……、そこまで聞きます? 金色の細いものだった筈ですが」
「あああああああああああああああああああああああ」
アルギンの記憶と合致してしまった。頭を抱えてテーブルに蹲る。
何ですか、と聞いてくるアクエリアに、何でもない、と返すだけ。アクエリアが諦めて自室に戻ろうとするまで、そのままの体勢。
「アクエリア」
最後一つだけ、聞いておきたかった。
「恋人の名前だけ、聞いていい?」
「……もう、本当何なんですか」
それは聞いてはいけなかったかも知れない。
「ミリア。……ミリア、と呼んでいました。彼女はそれ以上、自分の事をあまり教えてくれませんでした」
王妃、ミリアルテア。
アルギンの中で、今度こそ本当に、アクエリアの恋人と王妃の名前が合致してしまった。
アルギンは手だけ振ってアクエリアを見送る。階段を上る音が聞こえて、アルギンは酒場に一人になった。
防戦とするアルギン。次に王妃と会った時、どんな顔をすればいいだろう。
―――アクエリア、と、言ったか
ああ、だから王妃は少し怒っていたのか。
―――そのような者がギルドにいるとは、私は聞いておらなんだ
過去の恋人が、アクエリアがこの国にいると、知らなかったから。
スカイと話して、もしかしたらアクエリアの目標を知っているかも知れない。昔愛した人を探していると。それが、自分の事だと。
けれど王妃は何もして来ない。会う事も、追放する事も、まるでどちらも出来ないかのように。
どうする。
どうすればいい。
何もしないでいいのか。
アルギンはこれまで近くで支えてくれたアクエリアに、伝えるかどうか迷っていた。
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