第96話


 暁はいつだって、アルギンにとって嫌な話を持って来る。今回だってそうだ。

 昨日まで帰って来なかった暁は、昼に帰って来るなり今月と来月分の貸し部屋の代金を一度にアルギンに渡して、いつもの底の知れない笑顔を浮かべていた。

 暁はいつだって、勿体ぶったように悪い話を持って来る。今日はいつもと同じ白色の、けれど質のいいコートとシャツ、同じ色のズボンを穿いて、アルギンに笑顔のまま言葉を投げた。


「オーナー、女王殿下より謁見の命令が出ました」


 それはアルギンにとって、今の所一番聞きたくない話だった。

 昨日ユイルアルトとジャスミンに、薬の依頼をしたばかりだと言うのに。まるでこちらの動きを遮るように、謁見の命令が下されるとは思ってもいなかった。

 拒否なんて、一般市民には出来るはずもない。アルギンは今日着ていく服を考えて―――、暁の顔を見た。


「暁」

「はいはい?」

「お前さん、アタシに隠し事してない?」


 そう聞くと、暁の笑顔は嬉しそうなものになる。


「えー? 色々ありますよぉ。年収とかぁ、家族構成とかぁ、将来的に考えているオーナーとの新居の間取りとかぁ」

「そうじゃなくて」

「嬉しいですよぉ、オーナーがウチの事について聞いてくれるなんて思ってませんでしたしぃ」

「……もういい」


 アルギンはこのやり取りにも飽きてきている。飽きる程度には、暁の求愛もよくある話なのだ。話を早々に打ち切って、自室まで引き上げる。みすぼらしい服は持ってはいないが、過去のアルギンを知る者に出くわすと、普段着過ぎる普段着では少し恥ずかしい。


 最後の謁見から三年は経っていた。

 もう三年。まだ三年。二度と行きたくなかった場所に、また行かなければいけないなんて。




「スカイ」

「はぁい?」


 アルギンが身支度をしているその時間、十番街の孤児院ではフュンフがスカイに声を掛けていた。

 スカイは孤児院に来てからというもの、よく食べよく遊び、勉強にも力を入れて孤児院にいる子供の中でも健康優良児で通っていた。今日も砂場で城という対策を作って遊んでいた。身長もあっという間に頭一つ分は伸び、長いだけで手入れも不十分だった髪は短くさっぱりと切っている。スカイの見た目と遊び方で、少しのちぐはぐさが表れていた。

 ……そんなスカイの元に、客人が来た。

 その客人は、長い黒髪を纏めるように頭にターバンを緩く巻き、腹まである前髪を垂らしたままにしている。体にぴたりと張り付くような黒い服と、汚れの見えない白いスラックス、腰には透ける素材の緑色をした布を巻いている。そして顔の縦半分左側には、緑色の刺青のように、鮮やかな菊の花が咲いていた。


「おぉ」


 思わずスカイが感嘆の声を漏らす。それだけ、客人の顔にはインパクトがあったのだ。

 しかしスカイはプロフェス・ヒュムネとして少しだけ教育を受けたから知っている。………その花の模様は、スカイの背中にも似たようなものがある。葉緑斑だ。


「初めまして、スカイ。……僕は、ロベリアと言います」


 名前しか名乗らなかったロベリアは、スカイから見ても物腰が柔らかく、丁寧で、声も静かだ。年齢はロベリアが上に見え、これまで接してきたどのタイプとも違う人だった。

 瞳は髪と同じ漆黒。いつか図鑑で見た黒曜石のような雰囲気があった。黒いだけでなく、つめたい。

 ロベリアはスカイと同じ一人称だった。しかし、ロベリアとスカイの一人称では、何かしらの違いがある事を、スカイは耳で感じ取ってしまっていた。


「……初めまして。ええと、僕の名前……?」

「知っています。貴方を、迎えに来たんです」

「……迎え……?」


 その言葉に、スカイが拒否反応を示した。

 スカイが待っている『迎え』は、アクエリアただ一人だった。いや、アクエリアの所に行くなら、あの酒場のマスターやミュゼ、何なら他の貸し部屋の者でも構わない。しかし、今スカイの目の前で手を差し伸べているロベリアは、その中のどれにも該当しない。ロベリアの手に乗せられたのは、スカイの疑念だけだ。その重さに耐えかねて、ロベリアが手を引っ込めた。


「今日は、少し連れて行く場所があるだけですよ。このまま孤児院から離れる、ということはないです」

「……どこへ、行くんです?」

「行っておくといい。一般人は滅多に入れない場所だ」


 フュンフがスカイの疑念を払うように言った言葉だが、それも更にスカイの疑念を増やすものになるだけ。フュンフはやれやれといった感じに、改めて説明をする。


「………今日行く場所はこの国の中枢、王城だ。ここからも見えるだろう、あの大きな建物だ」

「おうじょう? ……僕が、ですか? 何でですか?」

「それは、道すがら話します。……プロフェス・ヒュムネである君に、これからのお話をするんです」

「これから?」


 スカイが疑問を持つのは無理はない。スカイにとっての『これから』とは、アクエリアと暮らしていく未来だ。その未来が遠くならないように、今スカイは精一杯頑張って毎日を過ごしている。それ以外の未来など、スカイは想像もしていない。


「僕は、……絶対、行かないとダメですか」


 その言葉が、暗に行きたくないと言っていた。それを諭すように、フュンフが言葉を重ねる。


「嫌かも知れないが、色々な事を知っておかないと駄目だ。この国で暮らすにも、色々な不都合がこの先きっとある。そんな時、王城の事を知っておくと後々有利になるかも知れない」

「……ゆうり?」

「君を保護してくれるのは、国だ。その仕組みを知っていたら、君の未来は広がる。もしかすると、アクエリアの助けになれるかも知れない」

「アクエリアさんの助け……」


 スカイを一番突き動かすのは、アクエリアの事。それを知っていて、卑怯な言い方だと解っていて、フュンフはその名前を出した。スカイは難色を示しながらも、一度だけ小さく頷いた。


「……解りました。今からですか?」


 それは了承の返事。少し安心した表情を見せながら、ロベリアが再び手を差し出す。それは誘導する手。


「今からです。……さ、行きましょう」

「どうする、私も付いていくかね」

「大丈夫ですよ、フュンフさん。……僕だけで大丈夫です」


 それはどういう意味なのか解らないスカイが二人の顔を交互に見た。

 しかしロベリアはスカイの視線に何も答えず、孤児院の出入り口に向かって歩き出す。スカイは、それについていくしか選択肢は残されていなかった。ロベリアの後ろについて歩くと、王城まではほんの少ししか離れていない筈なのに、門の中に馬車が停めてあった。

 孤児院の門は、数える程度しか出たことが無い。アクエリアの所から帰って来たのが、スカイが門を潜った最後の記憶だ。その門を、あの日のように馬車で潜る。

 馬車の中で、進む音を聞きながら、ロベリアが口を開いた。


「スカイ」

「っ、はい」


 それまで窓の外を見ていたスカイは、名前を呼ばれて驚いた返事をする。


「君は、プロフェス・ヒュムネについてどこまで知っていますか」

「……昔に滅んだ国に住んでた種族、というのは知っています。僕がその種族だということも、そして」


 スカイは、ロベリアを指差した。


「……ロベリアさんも、そうなんですよね」

「……。」


 正確には、スカイはロベリアの頬を指差していた。その顔に隠すでもなく見えているのは葉緑斑だ。ロベリアはその箇所に指を這わせて、瞼を伏せた。


「そう、ですね。僕もそうです。プロフェス・ヒュムネです」

「……僕は、背中にあります。他の人の葉緑斑は見た事もありません。ですから、驚きました」

「プロフェス・ヒュムネが他の種族と交わると、混血の子供には葉緑斑が出るんです。王家の人間には、こんなもの出ない」

「混血……」

「僕よりももっと生きづらい場所に葉緑斑が出た者だっています。……王家の方々は、プロフェス・ヒュムネ達に新しい生きる場所を用意してくれているんです」


 ロベリアの顔は、スカイが見ても涼やかな顔をした美形と呼ばれる類の者だろうと思った。目鼻立ちは整っているが、どうしても印象としては花の形を描いた葉緑斑が邪魔をする。

 だからだろうか。ロベリアは、どうしても葉緑斑のある方の顔を向けようとはせず、少し斜めに顔を向けているのは。


「……生きる場所。それが、僕を連れて行く理由ですか?」

「それもありますが……、王妃が、貴方の事を気にかけています。孤児院にいるプロフェス・ヒュムネは、どう毎日を過ごしているのだろうと」

「僕は元気です。この国の偉い人が僕を気に掛ける事なんて無いです」


 ふいと顔を背けたスカイはそれきりロベリアに顔を向ける事はしなくなった。どうしてもスカイには、ロベリアの言葉がアクエリアとの離別を示唆しているように聞こえて不愉快なのだ。

 スカイにとって、アクエリアは世界の全て。本当に雛鳥のようにアクエリアの事を慕うスカイの本心が見えず、ロベリアはただ動揺している。


 短い距離を、馬車は進む。

 到着するのも、ほんのすぐの距離だった。



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