第64話

 行軍は数日程度の道程だった。途中の街に休息に寄ったが、それ以外は野営だ。

 やっとの思いで目指した国境沿いに到着した時、全員が到着したという安堵の思いを胸に抱いたがそれは顔に出さない。

 もうすぐ戦争という時期だ。もう、笑ってはいられない。


「来たか」


 アルギンはすぐ砦の会議室に通された。そこには『風』の隊長、『月』の隊長と副隊長が揃っていた。


「ああ、アルギン・S=エステル、そして『花』五百名『月』五十名。只今到着した」

「同じくソルビット。お疲れ様っす」


 三人は一足先に、円卓に置いた地図を見ているようだった。アルギンとソルビットもそれに近寄る。

 地図はこの周囲のものだった。いくつかの箇所にバツ印が掛かれている。それをその気は無しに『月』の隣で見て。


「エンダ。このバツ印って何なの。この……あちらさん側に多くあるけど、こっち側にも二・三個あるな」

「これか? 俺の隊の奴等が、この場所で怪しい影を見たってさ」

「影?」

「何してるでもない、でも何か影が見えたんだと。帝国の奴等っていう可能性もあるとは思うが、言い切るには証拠が足りない。獣って可能性もある」

「簡単に尻尾を掴ませないのは、当たり前の行為ではあるからな」


 エンダの言葉にフュンフが続いた。


「その場で捕縛は出来なかったのか?」

「すぐ逃げられた、という話だ。追えど姿形も無かったと」

「んじゃ、アタシの隊に見回り強化させようか」

「来て早々で悪いな」


 その話を聞くと、ソルビットが頭を下げて部屋を出て行った。恐らくはソルビットが隊に指示を伝えるはずだ。

 一瞬でやる事が無くなったアルギンは、手持ち無沙汰に手を軽く上げた。


「それと、エンダ。カリオンから言伝があるぞ」


 仕方なしに、と言われていた事を言う。まだ時間はあるので今で無くても良いのだが。


「何だ?」

「『開戦したら戦線を下げる』ってのが一つ目」

「ああ……、それは書簡で届いてるから大丈夫だ。他は?」

「『アルギンの隊が到着したら、フュンフとエンダの帰城を要請する。開戦前だが城に隊長達がいなくなるのは痛い』だと。急いで帰って来いって訳でもないらしいが」

「……私もかね」

「何だって……? 城にはアールヴァリンがいるだろう」

「アールヴァリンは他国との『外交』で留守にしてるよ。王子はこれだから大変だ」

「今の時点でアールヴァリンを国外に出すか!? 何考えてんだ王様はよ!」

「アイツだけでなく、王族は末姫様以外皆出払ってる。結構切羽詰まってるらしいぜ」

「……ちっ」


 その采配に不満がありそうなエンダ。それもそうだ、諜報部隊を扱えるのはエンダとアールヴァリンだけ。それが両名いなくなるのだから。その心配を受けて、アルギンが落ち着いた声で諭す。


「安心しろ、とは言わないけどよ。一時的に、諜報部隊の指揮権をソルビットにくれねぇか」

「……ソルビットに?」

「アイツも一応前は『風』にいたんだし、部下をそう悪く扱う奴じゃないから。お前さんさえ良ければ、だけど」

「……そうだな、勝手が分かるのはソルビットくらいだろうしな……」


 何とか自分を納得させようとしている様子でぶつぶつ口の中で呟くエンダ。彼は暫く考えて、一回大きく頷いた。


「分かった。……アルギンも疲れてるだろうし、少し休んでろ」

「部下が働いてんのにアタシだけ休むって出来ないよ」

「いーからいーから。少しは気ィ利かせてやるから。……ほらフュンフ、行くぞ」

「解っている。……あまり派手な事はせぬようにな」


 そう言いながら二人は部屋を出て行った。

 ………そしてアルギンは気付く。

 今この部屋にいるのは、『月』と自分だけだという事に。


「あ………。」

「……。」


 先ほどからずっと無言だった彼に気付いていない訳では無かった。でも、アルギンにしてみれば完全に仕事モードだった訳で。

 彼はまだ無言のまま、黙ってアルギンを見つめていた。


「………その、お、お疲れ様」

「……ああ」


 いざ二人きりになると言葉が出てこない。

 騎士として遠方に長期間任務で出ることもあるので、これが会わずにいた最長期間という訳でもないが、恋人同士になってから離れていたのがこれが初めてで、何を言っていいか分からない。

 これまで逢わなかった時間、話したい事は幾らかあった筈なのに。それは彼の顔を無事見られたという事実で霧散してしまった。


「汝も、壮健そうで何よりだ」

「……うん」


 こんな状況で二人きりになったという事は、皆が気を回してくれたという事だ。

 誰もいないこの状況に甘んじて、アルギンが口を開く。


「……ねぇ、その、あの」

「……何だ?」


 少しだけ。

 少しだけ、と思いながら、アルギンが両腕を広げた。それから、ゆっくりと彼に近付いて行く。


「………いい?」


 ぽふ。


 そんな軽い音と同時、『月』に抱き着く。力は入れていない腕が、彼の胴の形に合わせて回される。

 彼からは少し埃っぽい匂いがした。それを除けば、知っている彼の香りがして安心する。……思う存分彼の香りと感触を堪能しようと思ったら、彼がそれに気付いたのかアルギンを引き剥がした。


「……埃臭いであろう」

「匂いなんて気にしないよ」

「衛生的に良くはない」

「……じゃあ、お風呂入ったら良いって訳? それまで待てって?」


 短い問答に、呆れたような溜息を漏らして彼が諦めた。抱き締めやすいよう、彼が腕を広げてくれる。

 いそいそとその腕の中に入っていくアルギン。彼も、アルギンをそっと抱きしめた。


「汝の考えは我にはよく解らぬ」

「考えが解らないアタシは嫌い?」

「……いや」


 どちらが催促した訳でもない。見つめ合う二人の唇が重なるのに、さして時間は掛からなかった。

 唇が離れて、アルギンの頭を彼の手が撫でる。妙齢の女にするような行為では無かったが、アルギンは満更でもなさそうだ。


「……汝であるなら、我は嫌ではないようだ」

「そんなら良かった。……嫌じゃないなら、嬉しい」


 微笑みを浮かべたままのアルギンが体を離す。

 二人の関係は『恋人同士』であってもまだ曖昧なままで、彼の否応に合わせてアルギンの行動が変わる。

 彼もなるべくアルギンの希望に合わせて動こうとはしているものの、年齢相応の『恋愛関係』とはだいぶかけ離れていた。


「……アルギン」


 仄かに甘い空気も、体が離れたことで消えていく。

 名を呼ばれて振り返ったアルギンは笑顔ではあるものの、その表情は騎士のそれだ。名を呼ばれて持ち掛けられる話題が私情でも仕事上の事でも、どちらでも対応できる顔。そこまで浮かれていないといった顔だ。


「話は変わる。有事の際の布陣だが」

「ん……。『月』は連れてるのは魔法部隊と騎兵部隊だっけ」


 二人が並んで地図を見る。二人にはもう甘い空気など欠片も残っていない。


「魔法部隊は高台が良いよね」

「『花』も長弓部隊が居よう。開戦時には戦線を下げるという話だが」

「どれくらい下げるかはその時次第だね。直ぐに開戦って訳じゃないなら、カリオンが指示してくれそうだけど……」


 アルギンが地図を指差す。そこはこの国境から少し離れた峡谷。布陣には時間が掛かりそうだが、軍を展開できる時間があるなら迎撃には理想的な場所だ。


「アタシだったら、ここを推す」

「……我に異論は無い。その場所なら、後衛部隊が強みを活かせる」


 『月』の賛同も得た。一先ず急ぎで決めなければならない方針はこれで決まったようなものだ。

 それから細々した事務的な話し合い。

 隊長がお互いしかいない場合の最終決定権はどちらにするか。

 早馬で連絡を飛ばす場合、どの隊の誰にするか。

 最悪の事態になった場合、殿は誰が務めるか。……そんな事を話し合っていると、突然勢いよく扉が開く。


「あんたらこんな状況でする事はそんな事っすか!!」


 扉を蹴破って入って来たのはソルビットだった。


「え、何ソルビット! 敵襲!?」

「違うっす! 何であんたらこんな密室で二人きりっつーのに仕事してるんすか!! もっとヤる事あるでしょう!!」

「……札遊びかえ」

「違うっす!!」

「ソルビット……、もしかしてとは思うが、盗み聞きしてたって訳?」


 そこで漸くはっとした表情になるソルビット。その顔は答えを言い当てられたと同意義だ。

 アルギンが両手の骨をパキパキと鳴らす。『月』は、呆れた表情をしながら視線を逸らした。


「うん、ソルビット。ちょっと話そうか。肉体言語とやらで」

「ちょ、待つっす! あたしだけじゃないっす!! 助けて兄貴!!!」


 『月』の視線の先――ソルビットが蹴破った扉の向こう――では、エンダとフュンフが溜息交じりで女二人のキャットファイト(一方的)を見守っていた。


「汝等」


 『月』の声が涼やかを通り越した冷たい声で男二人に投げかけられる。


「言い訳はあるか」

「ありません」

「無いです」


 そして男二人はそそくさとその場を立ち去る。

 残された『月』は、女二人が満足するまでその場で成り行きを見守っていた。


「本当テメェは邪魔したいのか応援したいのか何がしたいんだオラァ!」

「いたーい! 酷いっすたいちょ! あたしもたいちょーをこんなに愛しているのに!!」

「愛が鬱陶しい!!」

「ひどーい!!」


 ……なんだかんだで楽しそうな二人。『月』は近くにあった椅子を引いてそこに座り、まだ長くなりそうな二人のやり取りをのんびりと眺める事にした。

 今がゆっくり過ごせる最後の時間になるかもしれない。

 『月』の胸にはいつもそんな思いがある事を、仲良く喧嘩している二人は知らない。


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