第58話

「たーいちょ! 元気出してくださいっすよー!!」


 次の日、朝一番で『花』執務室の扉が開かれる。声の主はソルビットだ。アルギンは隊舎に帰っていないので、執務室に一泊したらしいのはソルビットが良く知っている。抑えきれない笑顔を浮かべたまま執務室に入って来た。

 昨日のアレを、他の騎士や兵を押しのけてまで他棟から見ていたのだ。二人の間に『何か』が起こったような最後まで、全部。

 扉が開いたのに気付き、自分の机に座っていたアルギンはそちらを向いた。身支度ももう終わっており、少し眠そうだ。


「ん、朝からお前さんは元気だな」

「……あれぇ?」


 平時の様子で書類仕事に手を付けていたアルギンは、適当に受け流すようにそう言った。

 ソルビットの脳内では、恋に破れて嘆き悲しんでいる隊長しか想像できていなかった。思わずアルギンの側に寄り、その顔を至近距離からまじまじと見つめた。アルギンの瞳はいつも通り、鈍い灰色と白目で構成されており赤色などは血管部分にしか認められない。


「……何だよ気持ち悪ぃな」

「もっと悲観的な顔してるかって思ってたっす」

「お前……昨日の見たな」


 ソルビットのそんな様子に、流石のアルギンでも気付いたようだ。

 持っていたペンを横に置き、アルギンが腕を組む。昨日の事を、どう話せばいいか迷っている様子だ。視線は宙を彷徨い、口はなかなか開かない。やっと出た言葉は


「……『汝とは違う』、って、言われたんだ」


 昨日言われた、辛い一言。


「……は?」

「まぁ、仕方ないよな。勝手に好きになったのはこっちで、勝手に好きって言ったのもこっちで、勝手に気持ちが盛り上がったのもこっちで」

「ちょい待ち、告白したんすか?」

「したつもり。……まぁ、最初から分かってたし、ああやっぱりって、そんなに傷ついてもないからさ」


 いつもより覇気のない顔で、アルギンが笑った。その顔はソルビットの目から見れば、どう見ても傷ついているようにしか思えない。

 どれだけ彼を想っていたか、ソルビットがよく知っていた。優秀な副隊長はアルギンが望む望まざるに関わらず、その心の僅かな揺れさえも感じ取れるまでになっていた。


「何て言ったんすか」

「……ちょっと、お前さんそんなとこまで聞くつもりかよ」

「しっかり言わないとあの鉄面皮に伝わってないかもでしょ!? 何て言ったんすか!」

「………普通に、『好きだよ』って……」

「オウ」


 ソルビットが芝居がかった動作でふらつく。


「……それでその返事なら、もう助け舟を出す言葉が無いっす」

「だろ? ……良いんだ。アタシは、言った事に後悔もないし、好きになって悔いはない。ってな訳で、ソルビット」

「何すか」

「この席、多分一生空かねぇや。ゴメンな」

「くああああああああああああああ!! あたしの隊長席!!!」


 ソルビットも、それ以上の追及を止めた。二人で笑い合ったが、壁に掛かったものを見つけてソルビットの笑いが止まる。

 『月』の礼服の上着だった。彼に良く似合っていた、深い黒色の布地で彼の膝裏までを覆いそうなコート。それが壁に、綺麗に掛けてある。自分が脱いだ隊服さえ適当に置いているようなアルギンの手によって、だ。


「あー……、返しに行かないとだな」

「……あたしは絶対行かないっすからね」

「分かってるよ。アタシもそこまで無作法じゃない。……自分で借りたものは、自分で、だろ」


 声に棘のようなものを含ませたソルビット。アルギンもそれに気付いていて、手を借りようとはしない。

 コートを壁からそっと下ろした。重みのあるそれは、まだ彼の香りがする気がしている。でも、抱きしめるなんてことはしない。アルギンにはもう、その資格が無いのだと自分で思っている。

 彼に好きになって欲しかった。ただの仲間としてだけでは足りなかった。


「んじゃ、ちょっと行ってくるよ。戻ってこなくても、心配すんなよ」


 このコートを返したら、今でも燻るこの気持ちを封印しよう。

 アルギンはそう心に決めて、コートを折り畳んで持ち、部屋を出て行った。




 今まで『月』隊長の執務室には、覚悟を決めて来なければいけなかった。

 けれどアルギンには、もう決める覚悟も無くなってしまった。

 彼の顔を見て上手く話せるだろうか。不自然にならないだろうか。何を話せばいいか忘れないだろうか。少しでも長く、同じ空間に居られるだろうか。

 そんな事を考えることも、もう無くなる。無くさなければいけない。いつまでもしつこく言える訳が無い。例え、気持ちが褪せる事がこの先無くても。


 『月』隊長執務室前に来た。深呼吸を二回。軽く拳を握る。

 その扉を叩こうとして―――声を掛けられた。


「『花』」


 その声は聞き馴染んだ、と言える程に親しい仲でもなく。しかし知らない仲ではない。

 フュンフ・ツェーン。『月』副隊長にしてソルビットの兄。王立孤児院の運営に携わり、その内の数棟長を兼任している。

 彼から呼ばれ、扉に向けられた手を下ろした。


「……フュンフじゃねぇか、朝早くから御苦労様」

「そちらこそ、昨日は似合わぬ仕事に疲れているだろうに忙しそうだな」

「別に疲れちゃいねぇよ。……そっちの隊長様は、この中かい」

「……。」


 フュンフが、アルギンの側まで寄ってきて扉をノックした。


「……わざわざ副長様の御手を借りなくとも、アタシは自分でノックくらい……」

「隊長から、『花』隊長が来たら入れるよう言われている。……それ以外は、私も入るなと言われている」

「え、ど、どう言う事?」

「さてな。何かしら隊長の気に障る事でも言ったか? あのような表情をしている彼は、私とて初めて見る」

「表情……? ちょっと待て、そんなの」


 ノックされた扉の向こうで、涼やかな声が「入れ」と言った。その声に、まだアルギンの心が反応してしまう。

 今まで聞いてきた声の中で、一番好きな声。

 今まで会ってきた人の中で、一番好きな人。

 駄目だ、と思った。まだ、この気持ちは完全に捨てきれない。


「入れ」


 フュンフが、その言葉を上塗りする。アルギンは唇を引き結んで、扉を開いた。

 ―――部屋の中で、机の側に、彼が立っていた。


「……おはよう」

「………。」


 彼は無言だ。その無言が、音のない空間が、とても居心地が悪い。

 アルギンの背中の向こうで、フュンフが外から扉を閉める。誰もいない空間に二人きりになったのは、これが初めての事ではないのに、アルギンの緊張が止まない。

 

「風邪は、引いていないか」

「お陰様で。……それで、これ、返しに来た」


 近寄って差し出す、彼の黒のコート。しかし彼の手は動かない。

 少し待った気がする。その実五秒と待っていない気もする。どちらでも良かった、ただ、酷く焦れた気持ちになったアルギンは、それを彼の胸に押し付けた。

 そうして漸く、彼の手が伸びる。コートを受け取った彼の手が、アルギンのそれと重なった。


「―――。」

「失礼する」


 動揺して、離れる間もなく、更に彼が近寄った。その肩を、背を、包み込むように腕が回ってくる。

 抱きしめられた。そうアルギンが気づいたのは、彼の腕の中に捕らえられてから。

 失礼する、の言葉の意味が解らなかった。失礼ってなんだろう、こんな事ソルビットには頻繁にされていることだし、肌との接触がある訳で無し。寧ろご褒美―――って、ちょっと待て。


「……なん、で……?」


 アルギンの声が震えている。震えて、膝までその振動が移ったようだ。耳元で聞こえる吐息は、彼との距離が、今更になってほぼゼロになったことを暗に伝える。

 なんで、なんてそんな抽象的な問いかけをした事を、アルギンが悔やむ。でも、どう聞いていいか分からない。

 振った今更、何故こんなことをするのか。


「……フュンフが」

「……ひゅ、ふゅ、ふゅんふが?」

「言っていた。我の、汝に対する感情が解らぬと話したら、一回抱いてみろ、と」

「だ―――」


 抱く。

 抱くと言ったか、今。この男が。そんなこちらとしてもそれほど吝かではないが心の準備というものが―――違う違う。

 アルギンの思考が回転しながら墜落する。何も考えられない、いや、考えても意味が解らない。何故、とどうして、の言葉が脳内を埋め尽くす。そして、本人には無意識のつもりでも浮かぶ、僅かな『嬉しい』。


「ど、どうしてそんな」

「汝が『好き』と。……我に、言ったな」


 その涼やかなテノールが鼓膜を擽るたびに、胸の奥が掻き乱される。愛おしい声が、昨日の事を振り返る気恥ずかしさ。

 もう叶わないんじゃないか。アルギンの想いは、最早息を吹き掛けられた後の蝋燭も同然だった。

 それが。


「あの時、汝に言った心の動きは、嘘ではない。……しかし、『好き』は我の感情の中に、今まで無かった」

「……それって、どういうこと?」

「『好き』が、解らぬ。花を慈しめどその様が枯れる時、我は残念に思えど……母を亡くした子のように、嘆き悲しむことは無い」


 彼の呟きは、淡々とした声だった。それはアルギンが知っている、いつも通りの声。


「先の戦争で、何人もの部下を亡くした。……それは花が枯れる時と同じく、残念に思えど涙が出てくることは無かった。それが戦争だからだ」

「……。」


 それは国中で噂されていることだった。

 『月の名を冠する隊長は心まで冷え切っている』と。

 見目麗しく、まるで人形のような外見をして、その心まで作り物だと。

 アルギンはそれを否定できなかった。彼は強く、しかし優しくはない。それでも彼に惹かれたのは、彼がとても『真摯』だったから。こんな事まで、どこまでも真面目に考えて。


「汝の『好き』を、否定は出来ぬ。我の『好き』は、まだ解らぬ。……こうして汝を抱いてみても、心臓の鼓動が数を増すばかりで他に変化がない」

「……えぇ……?」


 抱く、って。フュンフの言った意味と彼の受け取った意味では多分違う、とアルギンが思う。心臓の鼓動を増す、の辺りには彼が平然と言ったので、特に引っかかりもせず聞き流してしまった。

 ゆっくり体を離しながら、彼がアルギンと向かい合った。特に何も変わらない、いつも通りの表情。アルギンは、自分の顔が見えないから、どんな顔をしているか自分では分からない。それが、真っ赤だったとしても。


「アルギン」


 静かな部屋に通るテノールの音。


「『好き』同志は、共に居たいと望むものだと聞いた」

「……うん」

「我はそう望んだことがない。望み、というものがそもそも解らぬ。我は指令と命令を実行してきただけだった」

「……。」

「望みと命令実行はどう違う?」


 アルギンには、その問いへの答えを出せなかった。しかし、それで彼のこれまで生きてきて歩いてきた道がどんなものだったか、少しだけ分かった気がした。


「我には、人の気持ちが解らぬ。『月』と呼ばれるのも、或いは仕方のない事なのかもしれぬ」

「……それは、『アタシと一緒にいられない』っていう……断りの言葉なの?」

「解らぬ。……解らぬのだ」


 それだけ言うなり、もう一度彼の腕に閉じ込められるアルギン。もう、照れるとかいう次元の話ではなくなってきていた。初めて聞く、弱々しい声。

 腕に籠められる力が強くなった気がした。圧迫される痛みに、アルギンの眉間に皺が寄る。


「何だ、この感覚は。解らぬ。何と言えばいい。この感覚に名前はあるのか」

「っ……」

「望む。何をだ。何を望めばいい。汝の言う『好き』とは―――好き、とは、何だ?」


 その自己問答に、段々と力が強くなっていく。アルギンはついに耐えきれなくなり、その背に手を回して爪を立てた。

 痛い―――。声が出ない。掠れた息が漏れ出ると、それに気付いた彼が腕の力を緩める。


「……すまない」


 緩められた腕。離れていく、それがとても怖く思えて、アルギンが腕を掴んで引いた。

 油断していたのか、彼はアルギンの力でも引っ張ることが出来る。その一瞬が、アルギンには永遠のように長い時間と思えた。

 彼の気持ちが何だっていい。ただ、嫌われていないならそれでいい。振り向かせられる希望があるなら、それで。

 ―――腕を引っ張った拍子に近付いた顔。その唇に、自分の唇を重ねる。ほとんど一瞬で終わったそれに畳みかけるように、今度はアルギンが彼に抱き着いた。


「アルギン、」

「嫌なら、……嫌だって思うなら、振り払って」


 アルギンにとって、記憶の中で初めてのキスだった。親としていない限り、一回たりとも記憶にない。

 彼は、振り払わなかった。抱き返すこともしないが、アルギンにはそれで充分だ。しかし、そのキスで思わぬ方向に話が転ぶ。


「アルギン」


 彼が屈んだ。顔がまたぐっと近くなって、互いの吐息が掛かる。

 二回目のキスは、彼から。今度は一瞬で終わるものでは無かった。感触を確かめるような口付けに、アルギンは自分の思考が停止していくのを感じた。


「……ああ。嫌、では、無い」


 それが、彼の感想だった。

 何が起こったか、俄かには信じられなかったアルギン。

 それが彼にとって、今言える最大級の言葉であることも、彼からの口付けも、顔が嫌に火照る感覚が強くなるにつれて漸く理解できていった。



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