第53話

「怯えるな」


 『月』の掌が、振り乱れたアルギンの髪を整える。頭頂から梳いて顎のラインまでを撫で付ける、その指の動きにもアルギンは僅かに震えていた。

 ただ二人きりの部屋は静かだった。例え、この扉一枚を隔てた扉の向こうでは馬鹿共が下手な密室空間を作ったとして盛り上がっていても、今室内にあるのは『花』と『月』の二人分の目だけ。他に誰も見ていない世界で、アルギンは硬直していた。

 好きだ、と。

 今この場で長い間温めていた想いを伝えられたらどんなに良いだろう。

 けれど悲しいかなアルギンにとってはこれが遅すぎた初恋で、そういったものへの興味関心も薄かった。上手な告白なんて、そんな事出来そうになくて。

 怯えてる? そうじゃない。ただ、好きな相手にはいつも落ち着いた自分だけ見せていたかった。こんな落ち着かない姿なんて見せてたら、格好がつかないじゃないか。


「……怯えてなんか、……ない」


 意を決して、髪を梳いてくれたその手を握る。細くて長い、男の手にしては綺麗なその指は骨っぽく、指が滑った所には剣を握る時に出来るタコがあった。

 緊張していた。緊張で、頭がどうにかなりそうだった。元からどうにかなってそうな思考回路の持ち主という事は棚に上げて。

 喉が渇いた。唇同士が張り付いた気がして、彼の名前がまともに呼べない。


「―――……。あの、」


 口にした本人にさえ聞こえない程とても小さな声で、名前を呼んだ。

 すると彼は、名前はともかく呼びかけの声は聞こえたのか反応を返してくれる。それだけで、とても嬉しくて。


「……昨日……どうも、ありがとう」


 酒場の事。

 それだけ言うと、彼は「ああ」と、小さな声ながら反応を返してくれた。

 あの時は結局全部を狸寝入りで誤魔化していたのだが、彼は気付いているだろうか? 


「汝の兄に『連れて帰れ』と言われた故にそうしたまで。汝が気にする事では無い」

「……そうだけど」

「……やはり起きていたのだな」


 ぐ、とアルギンが言葉を詰まらせる。失言だった。

 どう誤魔化したものか。そう思って言葉を探すも、そう簡単に都合のいい言い訳は見つからない。


「お、起きてたってか! 声は聞こえてたっていうか!!」

「構わぬ。汝も疲れていたのであろ。……我に出来るのは其れだけな故に」

「……。」


 アルギンは、握った『月』の手を離すことも忘れるほどに、そのテノールに陶酔していた。自分だけに掛けて貰える声が嬉しくて、愛しくて、心地よくて。

 その手に力を込めた。握っているのが『月』の手だという事も忘れて。


「アタシは……嬉しかった」

「―――。」

「貴方が、アタシを運んで帰ってくれた事。……置いて帰ってくれても良かったのに、一緒に帰ってくれた」


 『月』の手が、そっとアルギンの手から離れていく。今更ずっと握っていたことに気付くアルギンだが、『月』はそっとアルギンの頭を撫でていって。

 しかし、その手は次に腰に下げられている剣に掛けられた。


「暫し、待て」


 何を―――。

 問いかける間もなく、『月』が剣を抜く。銀色に光るそれは、彼が肌身離さず所持しているもの。


「『閃』」


 『月』が一言だけ呟く。それは命令形の魔法行使。同時、『月』の持つ剣の柄、そこに嵌められている宝石が眩く光る。

 扉に向かって横に一閃。その直後、次は縦に一閃。焦げ茶色の扉は、一瞬で四つに斬り分けられて崩れ去った。


「「「は――――!!?」」」


 扉だったものの外から聞こえたのはそんな声。馬鹿者どもが雁首揃えて盗み聞きをしていたらしい。

 『月』は剣を鞘にしまってから、そんな野次馬に冷たく言い放つ。


「アルギンの顔がずっと赤い。熱でもあるのだろ、医務室に連れて行け。それとフュンフ」

「はっ」

「貴様と少し話さねばなるまい。顔を貸せ」

「……手加減願いたいものですな」


 呼び方が『汝』から『貴様』になっているので、『月』の怒りは相当なものだと思われる。

 『月』隊長と副隊長の二人がその場を後にしてから、ソルビットがアルギンの側に来て、その体を不躾に眺めた。そして一回の舌打ち。


「なーんだぁ、まだヤってなかったんすかゴフゥ!!」

「あはははソルビットそろそろお前さん殺してもいいかなぁ!?」


 容赦ないアルギンの鉄拳制裁。

 一撃を見舞われたソルビットは床に倒れたが、アルギンは立ち上がってその頭を踏みつける。遠慮なく、ぐりぐりと踏み躙るように。


「痛い、痛い痛い痛いっすよたいちょー!!」

「当たり前だろ痛くしねぇと仕置にならねぇだろ!」


 本気でキレているアルギンの様子に、他の野次馬はすぐに散り散りになり姿を消していった。

 残されたのは踏みつけられたままのソルビットと、それを踏みつけているアルギンと、


「……そろそろ許してやったらどうかな」


 騒ぎを聞きつけてやってきたらしい、『鳥』隊長のカリオン・コトフォール。

 カリオンの姿を認めたアルギンは、そこで漸くソルビットから足を離した。


「『許してやったら』? お前さん、自分の感情が周りから良いように遊ばれてて、そんな感情湧くと思う?」

「私刑はご法度だよ、アルギンさん。けれど最近の『花』の二人の仲悪さは目に余るものもあるんだが?」

「え、仲悪く見えるっすか?」


 カリオンの言葉を茶化すように言ったのはソルビットだ。アルギンの肩を抱き顔を寄せ、満面の笑みを浮かべている。

 アルギンは困惑の表情を浮かべているが、ソルビットのしたいようにさせておいた。口も今は挟まない。


「……見える、から言っているんだよ。そもそも、君は隊長を隊長として敬うことを―――」

「あたしらの関係に口出す方が悪いっす。言っときますが、あたしを副隊長に任命したのたいちょーっすからね? なんだかんだであたしを副隊長に据え続けてるのも、他の誰でも無いたいちょーっすよ。」


 それを言われてカリオンも言葉がない。確かに、副隊長の人事権を持つのは隊長であるアルギンだ。カリオンから若干棘のある視線を向けられて、アルギンが僅か目を逸らす。


「んじゃ、あたしもたいちょーも用事があるんで! たいちょーに至っては非番なんで!! これで失礼しまーっす」

「ちょっと待ちなさい、まだ話は」

「おつかれさまっしたー!!」


 ソルビットは、話の終わりを待つことなくアルギンの手を引いて駆け出した。二人の背中をカリオンの声が追いかけるが、そんなものに構っている暇はないとばかりに廊下の先を曲がる。

 こんな時ばかり足が速いソルビットに、付いていくだけで精一杯だったアルギン。走った先、ソルビットがもういいだろうと判断した場所で手は離される。

 床に倒れ込むように座ったアルギンは、顔を覆っていた。


「たいちょー。『月』隊長とは、なんか話出来ましたか」


 アルギンの息が荒い。その背を子供にするように撫でながら、ソルビットが問い掛ける。

 聞かれたアルギンは息を整えながら、


「……おれい、……言っただけ」


 蚊の羽音程度の小さな声で、そう言った。


「お礼ぃ? あの、昨日の、『担がれて戻って来た』とかいう、ちょっと何言ってるかわかんねーってなった奴っすか」

「……ん」

「はー!? そんだけ!? 一応のお膳立てあってそれだけ!!? たいちょ、アンタ何歳っすか!?」


 側でからかうように恋路を見ているだけの奴が何を言う。アルギンは憮然としながら顔を上げる。

 ソルビットは信じられない、とか、こんな甘酸っぱいのは思春期で卒業しとけよ、とか、好き勝手叫んで回っている。

 好きに言っとけ、とアルギンが胸の中で毒を吐いた。アルギン自身も、自分の意気地のなさには呆れ返っている所だ。もうソルビットを怒る気分にもなれない。


「……本当、手の掛かるたいちょーっすねぇ」

「うっさい」

「兄貴ん所も兄貴ん所で苦労してるらしいっすけどね」

「……なんでそこでフュンフの話に繋がるんだ、ソルビット……」


 ソルビットがアルギンのその言葉に目を見開く。心底驚いた、という雰囲気で。

 アルギンが何もわからずソルビットを見ていたら、ソルビットは突然頭を掻きむしり始める。


「ああああああああーああーあーあああー!! なんでこんな! なんで!! あたしがたいちょーなら密室にされた瞬間あんな男こっちから襲ってるってのに!!」

「は……!? え? アタシなんか悪い事言った!?」

「なんでこの国は鈍い奴ばっか出世するの!! あたしだって頑張ってるのに! 言葉の裏読み取れないようなあんぽん達ばっか隊長格で!! なんで!!!」


 文字通り発狂したソルビットを、アルギンが目を白黒させながら見ていた。ソルビットの発狂は暫く止まない。

 何が何だか分からないアルギン。何をすることも出来ず、喚き叫ぶソルビットを震えながら見ていた。


 ………やっと正気に戻ったソルビットは、アルギンの実家の酒場へ奢りで連れて行けと再び喚き始めたのだった。






 その頃、『月』の二人は修練場にいた。

 防具を付けて完全防御体制とはいえ、存分にサンドバッグにされていたフュンフは息が切れている。対して、そのフュンフをサンドバックにしていた『月』隊長は極普通の呼吸をしている。

 中に入ると二人の圧にやられてしまうので、それまでそこを利用していた者達は皆出入り口や小窓から遠巻きに見ていた。

 気が済んだのか、『月』隊長は剣を鞘に仕舞い込んだ。それを見て、やっとの思いで立っているフュンフはその場に無様に腰を下ろす。


「……我々の事など気にせず、『花』隊長にその想いを存分にぶつければ良かったでしょうに」

「まだ言うか?」

「この際ですから言わせて頂きたく。我等の隊長がそう揺らがれては困ります、相手は『花』隊長。同じ国に仕える者同士、何の障害がありましょう」

「……隊長だから、困るのだ」


 ―――貴方とて分かっておられるでしょう。『貴方の気持ち』を。


 それはフュンフが『月』隊長に向けて扉の前で言った言葉だ。その言葉に思い当たる節があったのか、彼はそのまま黙り込んでしまったが。

 アルギンは『月』隊長と会ったり話したり、そんな時でも自分の方ばかり気にし過ぎて気付いていないことがあった。


「……同じ国に仕える騎士、その隊長として、気不味くなる事は避けたいであろう」


 冷徹で冷淡で、美麗な『月』隊長。


 鉄面皮と言われる彼の弱点こそが、アルギンだった。


「そう仰っていらっしゃいますが、王子の妃選択の日など直ぐに来てしまいますよ」


 アルギンの妃候補選出の件はもう聞いていた。聞いていて、その最中にあの二人がやって来た。

 来訪に、僅か心浮き立つ何かを感じていた。二人きりにされて、焦りが生まれた。

 ……触れて、触れられて、胸のあたりからぞわりとする仄暗い何かがせりあがるのを感じていた。


「―――今その話はするな」

「妃の座など、孤児出身でありながら身に余る光栄でしょう。万が一、億が一、あの者に野心があったとしたら―――」

「するな、と」


 空を裂く音がした。

 仕舞われたはずの『月』隊長の剣先が、フュンフの頬の直ぐ近くに位置付いていた。寸止め、ではない。その剣先は、フュンフの髪数本を切り払ってしまっている。


「……何度も、我に言わせるな」

「差し出がましい真似を、申し訳ございません」


 その謝罪が形だけな事を、『月』隊長は知っている。冷たい視線を送りながら、再び剣を仕舞いなおした。


 ……『月』隊長にしてみれば、始まりが何なのか思い出せなかった。

 美しいとされる容姿には最初から興味はなかったし、粗暴でがさつな者は煩いからと遠ざける性質だった。

 アルギンは特に擦り寄ろうとしてくる性格でもなかった上、彼自身の前では嫌に大人しいのは彼だって解っていた。

 それでもいつしか『月』隊長にとって、アルギンは突かれれば痛い弱点として心を占めていた。


 けれど彼には、その感情が何なのか詳しく理解できずにいる。


 彼がフュンフに相談した時は、フュンフは手にしていた紅茶のカップを取り落として目を見開いたまま己の隊長を見ていた。

 『月』隊長曰く、「我は何処か壊れてしまったのかも知れない」と。

 まるで自分を割れたカップのように言うその姿は、フュンフには信じられなかった。

 そしてそれに続いて言われた言葉で、フュンフの思考回路は一時的に故障することになる。


 ―――「特定の一人にのみ、劣情を抱いてしまう。触れたいとさえ思ってしまっている」


 包み隠さない隊長の物言いに、年齢にして四十を目前としていたフュンフはその時逆に何を言われているか分からなくなっていた。

 隊長からしてみれば、劣情というものは忌むべきものとして捉えており、今の今まで自分が感じることは一切無かったという。隊としての『月』は執務に孤児院の管理も含まれており、教会とも密接な関係がある分、性愛から切り離す物の考え方をする時もある。隊長はそれが顕著だった。

 良く言って禁欲的、悪く言えば鈍感。そして、それはフュンフの思わぬ所で問題として浮き上がる。

 ……つまり、『劣情として理解しておきながら、それを恋情として認識しておらず、その感情を自罰的に捉えており、当人に伝えることを躊躇っている』。


 立派な両片想いの完成である。


「あの者が、そう望むならそれで良い」


 アルギンの妃候補選出については、彼はその姿勢を崩さない。しかし、フュンフの目から見た彼の表情は浮かない。

 アルギンが彼を慕っていることは王族含めてほぼ十割が知っているだろうが、その逆は少ないだろう。本人だって、誰も指摘しないせいで未だにただの劣情だと思っている。……フュンフもまだ決定打になる言葉―――恐らくそれは恋愛感情なのでは―――を言っていないのである。

 面倒臭い、しかし、見ている分には面白い。


 お披露目パーティーまであと一か月しかない中、二人が進展するのかしないのか、兵の中では賭けまで始まっていることを、アルギンも『月』隊長も知らない。


 ……余談だがソルビットは『進展しない』に今月分の給料全額賭けていた。


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