第51話
仕事仲間?
アルギンが頭を働かせた。こんな時間に来るなんて誰だろう、と。
酒場ももうじき閉店というこんな時間に飲みに来るなんて、酒場の流儀が分かっていない奴がいた者だ。アタシの仕事仲間ならそんな事くらい覚えててもらわないと―――。
浮かぶのはそんな八つ当たりじみた言葉だけだ。
やがてその『仕事仲間』とやらは、カウンターに突っ伏したままのアルギンの隣の席に座る。
「アルギン」
エイスがアルギンの名を呼んだ。それでも全然起きようとしないアルギンに、今度はエイスは体をゆすって起こそうとした。
しかし拗ねたアルギンはまだ起きようとしない。ついにはエイスも諦めた。
「……すまないね。ちょっと今この子、寝ちゃったみたいだ」
「―――構わない」
アルギンは聞こえたその声に、もう起き上がるまいと固く誓う。
涼やかなテノール、耳に馴染んで心地よささえ感じる声。それはアルギンが恋してやまない音では無かったか。途端にアルギンの心拍が上がる。医者に見せてもいい程の動悸になった。
エイスだって、本当にアルギンが寝ているなんて思っていないだろう。
「来てくれるのは久し振りだね。忙しいだろうに有難い話だ」
「視察が有った故に、近くを通ったので寄ったまで。『花』も来ているとは思わなかったが」
「そう。そうなんだ、久し振りに帰ってきてくれたんだよ。……でも、愚痴だけ言ってこの有様だ」
「愚痴」
アルギンが、話す二人をこっそり盗み見た。兄であるエイス―――は、良いとして。肝心なのはそのテノールの主だ。………間違いない、『月』隊長!
起きられる訳が無い。二人きりで話すのにも緊張が走る程度だ。こんな隣の席なんて心臓が煩くて話どころではない。
叶うなら一杯だけにして。そしてすぐ帰って。アタシがこれ以上貴方の前で失態を繰り返す前に。
そんなアルギンの願いは虚しく崩れ去った。彼が話に乗ったのだ。
「愚痴、とは……、そこまでこの者に悩みでもあるのかえ?」
アルギンはその時、初めて『月』隊長の自分に対する三人称が『この者』である事を知る。文句はないが、やはりそれは誰に対しても一緒なんだなー……と思い知った。
自分は彼に対してのみ、『特別扱い』をしていた。指摘されるまで気付かなかった訳ではない。それでも、今更変えることのできない三人称とか、緊張してぎこちなくなってしまう口調とか。
「悩みっていうか……、仕事で失敗した、みたいな?」
「失敗、と。我の記憶違いで無ければ、このように落ち込むような失態は犯していない筈だが」
「貴方にはそう見えるんだね。……そう言ってくれるなら、妹も心が晴れるだろう」
涼やかな音が、二心無い言葉でアルギンを庇うことで、アルギンの心が少しずつ楽になっていく。
『月』の前にグラスが置かれた。その中には氷が入っていて、『月』が持ち上げると氷がグラスにぶつかる音がする。
「妹、といったか」
「ん? そうだよ、アルギンは私の妹だ。血は繋がっていないけどね」
「……この者は自らの話をせぬ。何故ハーフエルフがダークエルフを『兄』と呼ぶか、我は事情を知らぬ」
「あー……。貴方には照れてしまって話が出来ないとか?」
「そういうものか」
兄さあああああああああああああん!!!
アルギンの心中の声がそのまま喉から出ていたら、この酒場中をそんな絶叫が響いていただろう。
「そういうものだよ。……それで、聞きたい? 私達の話」
「……そうだな、この者が起きるまで、時間はまだありそうだ」
「それだったら帰る時、ついでに隊舎まで連れてってくれないかい?」
「構わぬ」
こっちが構うんですけど! アルギンの声は狸寝入りのせいで出すことが出来ない。外泊届は出していたので、無理に帰る必要はないのだが。
「……そうだね、あれは最初の戦争だったろうか?」
そしてエイスの昔語りが始まった。
エイスの顔をアルギンが見ることはできない。しかし、今どんな顔をしているかアルギンには容易に想像が出来る。
アルギンも朧気に覚えている昔の話だ。あの頃は、アルギンには色々ありすぎてもう記憶が曖昧になってきている。
「国境近くの町がひとつ、襲撃に遭って破壊された。そこは直ぐに帝国に制圧されて、逃げ遅れて殺されたものも多くいた」
アルギンはそこの生まれだった。微かに覚えているのは、街を囲うように広がる麦畑。親の顔を思い出そうとしても、僅かな胸の痛みと共に輪郭が霧散する。
「それでもこの王都まで逃げてこられた者もいた。その中にアルギンがいて、そのままこの国の孤児院に入ったんだよ」
「孤児院?」
「その頃はもう、三番街以下は治安が物凄く悪くなっていてね。でも、流れ着いてきた孤児に居場所なんてそっちにしかなかった。三番街までにしか孤児院は無くて、そして、アルギンは十二歳だった。……大人に近い子は、人数にも限界があって、孤児院にいられなくなってたんだ」
「……道理だな。それだけの年齢なら、もう丁稚として働いている者もいる」
「私は……ほら、『こんな』仕事をしているだろう? あちこちで仕事の下調べしてたりして三番街にいたんだが、そんな風に、孤児院を追い出されるアルギンを見てしまったんだよ」
『こんな』という言葉の裏に、『月』隊長もアルギンも、裏ギルドの事だとすぐ思い至る。公に言えないもう一つの顔だ。
酒場の扉のベルが鳴る。一人、また一人と帰っていく音だ。もう酒場も閉店の時間だ。しかし、まだエイスの話は終わらない。
「その時のこの子は不安そうな顔しかしてなかった。あんな戦時に、十二歳程度の子が出来る仕事なんて限られているだろう? ……三番街の治安の悪さで、荒れた世界で、この子をこのまま見失ってしまったら、この子はこの国で生きていけるんだろうか? ……って、思っちゃったんだよね」
「……それで、引き取ったのか。この者だけを」
「私の腕では一人しか救えない、って思ったからね。そりゃあ心苦しかったさ、でも何人も引き取って共倒れになるより何倍も良い……、ちょっと待っててくれ。店を閉める」
やがて、他の客は全員帰っていった。そうなると、エイスも言葉を包むことを止め、そのまま話し始める。店の外の灯りを消して、鍵の代わりの閂をかけて。
そうして作られた三人だけの空間で、もう一度『月』の前に新しいグラスが置かれる音がした。
「と、まあ引き取ったのは良いけど、あっという間にお転婆に育って。最初は『この子もいつか酒場の経営に就いてくれたら、私はギルドの運営だけに専念できるかな』って思ってたんだけど」
「……? 酒場運営。だがこの者は騎士になったな?」
「本当はね、身内にだって『ギルドの話はこの国にとって機密でご法度』だったんだよ。この子が少し大きくなって、知られてしまってね」
恐らく、エイスがしてしまった一番の『失敗』。
それまではうまく隠せていたはずだった。顔にも出していない筈だった。―――自分がどんな後ろ暗いことをしていたかなんて。
そして、それが原因で、アルギンはこの酒場を出ていくことになる。
「困った国は、この子を兵として登用して連れて行った。兵士ならギルドの話も、大っぴらには出来ないが知っている者も居る。そしてこの子を国で管理できる……あわよくば、この子が戦場で死んだなら、機密は守られると考えたんだろうね」
「兵として? 最初から騎士では無かったのか」
「そりゃあ皆驚いた。叩き上げの大出世。……見えない力が働いたとは言わないよ。けれど私は何もしていない」
そして、アルギンは今の地位―――騎士隊長になった。
もしかすると、上層部で『ギルドと今以上密になるよう、アルギンを高い地位に置いておこう』という力が働いたかも知れない。次期ギルドマスターにはアルギンを、という考えがあったかも知れない。アルギンは、そう考えたこともある。
「どれだけ出世しても、どんな地位にいても、私の可愛い妹だ。貴方には面倒な同僚かも知れないけれどね」
「―――ふん。特に気にしてはいない」
「またまた。……ところで、騎士団にも色恋沙汰は無いのかい?」
軽い世間話をするような調子で、エイスがアルギンの弱点をぶち抜いた。何が色恋沙汰だ、妹で遊びたいだけだろう。
よりにもよって妹の想い人にそんな事を聞くな。アルギンがカウンターに臥せったまま、寝ている振りの状態で強く拳を握る。
この場に『月』隊長さえいなかったら、幾ら慕う兄と言えどぶん殴ってる。そう心中で思うアルギンだったが、まず前提が間違っていた。彼がいなかったらエイスはこんな話などしていない。
「……不思議な事を聞くものだ」
「知っての通り、妹には好い人がいない訳だ。兄としては正直心配なところがあってね」
「それで、だからと我に聞くのか?」
『月』の声が、冷えたようにトーンが下がる。その話題は迷惑だと言っているようなものだった。アルギンの胸が嫌な感触で跳ねた。
今まで戦場や険悪な雰囲気以外で聞いたことのない声だった。普段から冷静で、平坦で、そんな声ばかりを聞いていた。それが心地良いとさえ思っていた。
「あまり、……我が好む話題では無い。誰が誰を想っていようと、我には関係ない」
「……。……、………。分かったよ。すまないね、こんな話題を振って」
エイスが少し間を持たせて謝罪を口にする。同時、『月』の方からグラスの氷の音が聞こえた。
「けれど、一つだけいいかな」
「……なんだ」
「もし、この先この子が好い人を見つけて幸せになった時。貴方は妹を祝ってくれるかい?」
「…………」
『月』は、何も言わなかった。
そして、カウンターにグラスが置かれる音がする。
暫くの間、静かだった。アルギンがそっと瞼を開いてしまおうかと思うほどに。
「……それが、この者―――アルギンが、望んだ幸せならば、な」
声が、どこか寂しそうだったのはアルギンだけが感じ取った。
そして、『月』が立ち上がる音がする。椅子が引かれ、気配がぐっと近くなる。
ひょい。
気が付けば、アルギンは目を閉じたまま『月』の肩に担がれていた。
「(……………!!!!!?)」
片方の肩に担がれているので、顔は『月』には見えないのをいいことに目を開いた。『月』の背中側にアルギンの頭が来ていて、『月』がエイスに背中を向けたらアルギンはエイスと目が合う。
「じゃあ、妹を宜しく頼む」
笑顔のエイスはひらひら手を振る。カウンターには酒代と思われる金が置いてあった。どう見てもアルギンと『月』の二人分。
『月』は扉へ向かう。器用に片手で閂を外し、外へ向かう為に扉を開いた。深夜の外の空気は冷たく、飲酒後というのに体が冷えていく感じがしている。
扉が閉まった。真っ暗な外の道を、『月』は隊舎の方に向かって歩く。
「……汝の兄は、軽口が多いのだな」
その声はアルギンに向けられたものだろう。しかし、アルギンは返事を口にすることが出来ない。
心臓がバクバク鳴っている。顔なんて真っ赤だろう。想い人にこんな情けない姿を見られるなんて。
ああ、明日は風邪を引いてしまうかもしれない。そうなったらさらに情けない。アルギンの思考がぐるぐると回り出す。
「……まだ」
その囁きは、この状態を受け入れられていないアルギンに届いていない。
「起きるな」
その言葉の意味さえ、アルギンに届くこともない。
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