第41話

「ここに林檎が六つあったとしよう、後からアクエリアが五つ林檎を持って来た。全部で何個?」

「十一個です!」

「そう、正解。簡単な足し算は出来るんだね」


 マスター・アルギンと話して一時間も経ってない頃。

 ミュゼがアクエリアとスカイの部屋に来て、最初に始まったのが算数の授業だった。スカイの為に時間を使う事に楽しさを覚えているようなミュゼは、嫌がる素振りもなくスカイに授業をしている。ミュゼの金の髪のポニーテールが、女の子の格好をしたスカイの一挙一動に大袈裟に反応している。


「じゃあ桁を繰り上げよう。林檎がここに十一個。アクエリアがその林檎を四つ食べたよ。全部で何個?」

「七個です!」

「正解! 簡単すぎたかな。もっと難しくしても良い?」


 二人は紙とペンで、アクエリアの机を使って楽しそうに授業をしている。その二人を、ベッドに座ってアクエリアが見ていた。

 ミュゼもいつものサバサバを気取った態度ではなく、自然体でニコニコしていた。孤児院で子供と接するときもこんな感じなのか、とどこか違う世界を除いているかのように眺めている。自分が算数の問題に出ていることも分かっていて、何も言わずただ見ていた。


「難しく……? どのくらいですか?」

「引き算とか終わってるなら、掛け算と割り算は? その中でも簡単な部分なら出来ると思うけど」

「掛け算はちょっとしました。割り算はまだです」

「掛け算もしてたの? んー、じゃあ掛け算して行こうか。あっちの孤児院に戻る時、勉強進めておいて皆を驚かせよう」

「驚かせる……。僕、頑張ってみます!」


 ミュゼの言葉はスカイのやる気を上手く引き出せたようだ。スカイの反応にミュゼも嬉しそうにしている。

 アクエリアがベッドから立ち上がった。床とベッドが音を立てて、それにミュゼが振り向いた。


「アクエリア、どうした」

「……ずっと座っているままなのは疲れます」

「やだやだオッサンっぽいこと言って。外見は若いんだからもうちょっとシャキッとしたこと言いなよ」

「どうせオッサンですよ。ちょっと下でコーヒー飲んできます」

「あっそ」


 アクエリアが扉を開いて廊下に出た。扉が閉まる音を聞いて、ミュゼもその場で伸びをする。スカイもそれに倣い、ペンを握ったまま、座った状態で軽く伸びた。


「……あー、アクエリアってなんであんな辛気臭いかねぇ」

「え、臭いですか?」

「匂いの話じゃないよ、スカイ。スカイもアクエリアにはもう少し明るく笑って欲しくない?」

「…………。」


 ミュゼの言葉にスカイが想像する。笑ったアクエリア。明るいアクエリア。臭くないアクエリア……は、匂いの具体的な想像が出来ないので考えない。アクエリアはいつも臭くない、というのがスカイの思考。

 ミュゼは他に誰も聞いている人間はいないと、スカイの呼び名そのままに呼んでいる。スカイの反応もスムーズだ。


「アクエリアさんは臭くないけど、笑っていて欲しいとは思います」

「本当にスカイはいい子だねぇ」

「アクエリアさんは格好いいですもん。僕の世話も焼いてくれて、恩人ですし」

「恩人か……、一度は言われてみたい言葉だなぁ。……でも、スカイ」


 ミュゼが、アクエリアの不在で空いたベッドに腰掛けた。


「アクエリアのどこがそんなに良かったの?」

「え?」

「口を開けばアクエリアアクエリア。私達の知ってるアクエリアはそこまで聖人じゃないんだよ。どっちかっていうと面倒臭がり屋で怠け癖のある駄目な大人。スカイがそんなに気持ちを傾ける相手には見えないんだ」

「………そう言われても」


 改めて聞かれることは初めてだった。ギルドのメンバー、特に女性陣の態度からしてそういう事に薄々気付いていたスカイだったが、だからと抱いた感情が変わる訳ではなかった。

 スカイが知っていて側にいるアクエリアは、いつでも凛々しくて涼やかで、そして格好いい。少なくとも、スカイにはそう見えている。飲酒も喫煙もしない、真面目な大人。それはアクエリアがそう見えるよう努力している結果とも言えるけれど。


「僕は、アクエリアさんが聖人じゃなくても、きっと好きです」

「好………」


 女の子の格好をしているスカイとその言葉に、ミュゼがその意味を曲解しかける。


「あ、い、いえ。別に、そんな、恋人とかそういうどうこうって『好き』じゃなくて」


 ミュゼがスカイの否定を表情を歪めて聞いていた。恋心から来る感情なら、どう反応して良いものか迷っていた顔だ。同性愛はこの自由国家アルセンでは禁止自体はされていないものの、未来に繋がるものを残すことが困難という事で大多数からはあまり快く思われないものだった。ミュゼはそういったものを気にしない性質ではあるのだが。

 スカイが否定して、一回咳払いをする。


「……僕、プロフェス・ヒュムネっていう種族らしいんです」

「ん? ……あー、そうだね、聞いてる」

「僕は親がいなくて、気付いた時から奴隷だったんです。色んな事をしてきて、させられてきて、生きてる意味なんて無いってくらいの生活をしていました」


 スカイがペンを握っている、その手が徐々に色を失っていく。強く握っていると分かっていて、ミュゼが何も言わないままその手を見つめる。


「あなたに助け出されて、孤児院に連れて行ってもらって、でも助かった実感が無くて。そんなうちに僕は暴走と言われる状態になってしまっていました。……それを、アクエリアさんとマスターさんに助けてもらって、僕は生きています」


 白くなるほど握った手は、どれだけの苦痛を受け入れてきたんだろう。


「側にいてくれたのがマスターさんでも、僕はこんな風に、アクエリアさんにするのと同じように好きだと思ったのかな、って確かに思います。ミュゼさんが、助けてくれてからずっと一緒にいてくれたら、こんな風にミュゼさんを慕ったのかなって考えました」


 それはアクエリアには言う事が無かった苦悩だった。


「でも、僕はそんな世界を知りません。僕の側にいてくれるアクエリアさんがいる世界しか知らないんです。アクエリアさんが手を取ってくれて、僕の世話を焼いてくれる。僕はそれが嬉しかった」


 助けてくれた、だから、縋る。それがアクエリアで無くても。

 スカイはそれが浅ましい事だと思っていた。誰かに話したら笑って捨て置かれるような事に苦悩していた。本人はきっと、考えることもいけないことだと思っているのだろう。

 ミュゼが後悔する。なんて馬鹿なことを聞いたんだろう、と。ただの好奇心で聞いたことが、スカイの心を苦痛に染める。


「アクエリアさんが、僕を受け入れてくれた世界しか知らないけど。僕は……アクエリアさんが、好きです」

「……。分かった。スカイの気持ちは、よく分かったから」

「はい。……じゃあ、もう、この話はこれで終わりにしましょう」


 スカイが影を背負ったような笑顔をミュゼに向けた。ミュゼも気を取り直し、ベッドから立ち上がって勉強を教えられる位置に立つ。

 算数の為に用意した勉強用の紙は、まだ半分以上が空いている。これをどう埋めたものか。ミュゼが少し頭を悩ませた。


「……スカイ」

「はい」

「休憩にしない? 下にパンケーキでも食べに行こう」

「えっ、良いんですか?」

「いーっていーって。アクエリアも下にいるんだし、ちょっと行っちゃおう」

 

 ミュゼが満面の笑顔で言った。その笑顔に釣られてスカイも笑う。

 スカイは机にペンを置いて席を立つ。そうして、二人が部屋から出て行った。


 異様に一階が静かな事にも気付かないまま。

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