第40話
沢山の思い出をスカイに話している間に、夜が明けてきた。
一階の酒場の喧騒も既に聞こえなくなっていて、それに気づいたのは誰かが二階に上がって扉を開けたらしい音が聞こえたから。マゼンタかオルキデが仮眠に上がって来たのだろう。
カーテンもない窓の外を見てみれば、空は白んで来ていて、そして座ったままのスカイも眠い目を擦っていた。
「……長くなってしまいました。これで終わりにしましょう」
アクエリアが締めの言葉を言うと、スカイはそれでも不満そうな顔をしていた。
そんなスカイを宥める様に頭を撫でてやる。
「まだ時間はたっぷりあります、続きはまた夜にでも。……今日はゆっくり寝る日にしましょうか」
「……はぁい」
今から寝たら起床は昼過ぎになりそうだ。スカイが自分のベッドに戻っていき、その体が横になると、寝息は直ぐに聞こえてきた。
話した内容、スカイは覚えられているだろうか。アクエリアは少し不安になったが、話した内容を自分でも思い出しながら、自分のベッドに体を横たえた。どちらかが忘れなければ、色褪せることは無い。そう信じて。
夜通し何かを話しながら起きているなんて事、もう二十年は無かったことだ。
アクエリアが目を閉じたその時、窓から朝日の光が射し込んだ。
「遅い起床だな」
そして予想通り、昼過ぎになってから一階に下りたアクエリアと『スカーレット』の二人を迎えたのはアルギンだった。
いつも夜遅くに店を閉めるアルギンは、マゼンタやオルキデと交代で寝に入っているらしいが、ギルドメンバーからしてみればいつ寝ているかあまり分からない。
アクエリアはいつもの指定席に腰掛けると、スカイも倣ってその前の席に座る。そうすると、アルギンがいつものように席に食事を運んできた。
「いただきます」
アクエリアが食事の前の挨拶をする前に、スカイは女の子の格好のまま、食事であるチーズサンドイッチに無作法に齧り付いていた。その様子を見たアルギンが苦笑を浮かべた。
「スカーレット、ここにはお前さんの食事を取り上げる奴はいないからもっとゆっくり食べろ」
「ひゃう、は、はい」
奴隷時代の食事風景もこんなだったんだろうなと思って、アクエリアが複雑な表情をする。オルキデにも見られたこの食事の作法だが、オルキデも同じことを思って、でも彼女は何も言わなかったんだろう。
注意されたスカイは、食事態度を改めてゆっくりと食べ進める。それを見てから、アクエリアも自分のものを食べ始めた。
「アクエリア」
「? はい」
珍しく、何も言っていないのにコーヒーが出てきた。アルギンがアクエリアを見ながら、それをアクエリアの前に置く。そのアルギンの仕草に、アクエリアがピンと来た。
「……今、ですか」
「いや。スカーレットを部屋に送ったら」
「……解りました」
それは『話がある』の言葉の代わりだった。わざわざコーヒーを用意するくらいだ、込み入った用件なのだろうか。
スカイはそんな二人を見つつ、サンドイッチを食べ終わった指を舐めていた。
「……アクエリアさん、アクエリアさん」
「ん、何ですか」
「これって美味しいですか?」
スカイが興味津々で聞いて来たのはコーヒーについてだ。指さしながら、目をキラキラさせている。
「……人によると思いますが、美味しいというより苦いですね」
「苦いんですか? 苦いものを飲むんですか?」
スカイにはまだ分からない感覚かも知れない。
「……今まで苦いもの、いっぱい色々飲まされてきました。僕は嫌でした。でもアクエリアさんは苦いの好きなんですか?」
「アルギン、ちょっと甘い飲み物作れませんか」
「ちょっと待ってな」
スカイの口から今までの辛い経験を聞きたくなくて、アクエリアとアルギンの考えが一致する。しょんぼりとした様子のスカイだが、キッチン側からふわりと香ってきた何かの匂いに気を取られてそちらを向いていた。
暫くして運ばれてきたのは、カップに入った茶色の飲み物だ。
「……これは?」
「飲んでみな」
スカイが差し出されたカップを手に取り口を付ける。やや熱いそれに一度顔を離したが、息を何回か吹きかけてから飲むことに成功した。
「あまい!」
スカイが叫んだ。
「だろう?こないだ客から貰ってな、飲ませるならスカ、……ーレットしかいねぇって思ってたんだよ」
「何ですか、これ?」
「ココアっての。甘いだろ、南の国じゃ良い交易品になってるって話だ」
「ココア」
アクエリアが納得した。ココアなら何度か飲んだことがある。甘いものが然程好きではないので、自主的に飲むことなんて無かったが。
スカイはココアが気に入ったようだ。両手でカップを持って嬉しそうに飲んでいる。
「スカーレット、部屋で飲んでも良いですよ。先に行ってなさい」
「え、でも」
「部屋までの道は覚えたでしょう? 何かあったら大声を出しなさい、いいですね?」
「……はい」
スカイはカップを持ったまま、二階への階段を上がっていった。
その姿を視線で追って、アルギンが話を切り出した。
「アルカネットからの情報だ。例の奴隷商、五番街にいるかも知れないらしい」
「―――この辺りじゃないですか」
「だな。目撃証言ってだけで、実際自警団が確認したわけじゃないらしいが……空き家に人影があったとか、似た人物を見かけたとかいう話を聞いたらしい。今晩から、アルカネットは自警団側に回って巡回するそうだ。ミュゼはアルカネットが帰ってくるまで、酒場にいて貰う。騎士にも今日来てもらうことになってるから安心しろ」
アルギンの話を聞くアクエリアが、淹れて貰ったコーヒーを口に運ぶ。もう普通に飲めるくらいの音頭に下がっていて、それが今の気温の低さを改めて感じさせた。
「……どう安心しろって言うんですか……」
「アタシの知り合いだからこき使ってやる。お前さんはあの子の事だけ考えてくれればそれでいい」
アルギンにそう言われても、アクエリアの表情は晴れない。その顔に親心が見えた気がして、アルギンが笑う。
「あんまり根詰めるなよ」
「そんなことはしませんが、……そうですね、あの子が退屈しないといいのですが」
「ミュゼ派遣するか? ミュゼならちょっとでも勉強教えられるだろ」
「余計な事を教えなければいいんですけれど」
言いながらアクエリアがコーヒーの入ったカップを傾けた。淹れて貰ったコーヒーは香りが良いが、ただ苦い。スカイが飲むにはまだ早いだろう。
アクエリアはゆっくりとその香りを堪能しながらコーヒーを飲んでいる。スカイが側にいないゆっくりとした時間を過ごすことがあまりなかったからだ。このコーヒーを飲み終えれば、またスカイが側にいる時間が続く。その時間は、嫌いじゃないけれど。
「保護者は過保護だねー本当」
「保護者結構過保護上等。……ですが、そうですね。他人との関りを学ぶのも大事ですから、ミュゼさんが来てくれると俺も嬉しいですね」
まるで争いとは無縁のような穏やかな雰囲気で話が出来るのが少し嬉しかった。
アクエリアのカップからコーヒーが消えたのは、アルギンが普段の笑顔で「分かった、伝えとく」と言った時だった。
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