第36話


「……俺は、それの何処が卑怯かが解りませんがね」


 スカイの言葉が終わるのを待たずに、アクエリアが呟いた。

 その呟きが耳に届いたスカイは、目を丸くしてアクエリアを見る。


「辛い思いをしてきて、今まで苦しくて、それが嫌だったから逃げ道を探す……、なんて結構な話じゃないですか」

「……アクエリア……さん……?」

「でも、それで俺を選ぶあたり、見る目は養った方がいいと思いますけどね」


 アクエリアの腕が伸び、掌でスカイの頭をくしゃくしゃと撫でた。その手つきは優しいもので、スカイが思わず目を細めるほどに。スカイは嫌な顔はしていない。


「俺は人の教育なんてしたことがない。その点、俺はこの孤児院には勝てませんから」


 アクエリアの言葉に、スカイが憂い顔を隠さない。再度の断りの文句と思われているようで、アクエリアもあまりいい気はしない。頭を撫でていた手をどかし、その頬に触れる。ひやりとした、痩せた頬。


「最低でも、読み書きと計算が出来るくらいになりなさい。俺はのんびり、スカイが暮らせる環境整えながら待ってますよ」

「―――。」

「だから勉強、頑張ってくださいね」


 そこまで言うと、スカイは自分の目元を拭い始めた。見なくても分かるほどしゃくりあげて泣いている。

 この涙は喜びだろうか、それとも失望だろうか。不安になってアクエリアが立ち尽くしていると


「……僕っ、待っ、て、る……なんっ、てぇ。言われたの、も、っ、初めてっ……でっ」


 スカイの声が震えて、よく聞こえなくて、でも気持ちは伝わってくる。


「べん、きょうっ、……たのっ、楽しいですっ。あそぶのもっ。たのしいですっ。ぼくはっ、ぼくはっ」


 どうしたらいいか分からなくなって、アクエリアが再度スカイの頭を撫でる。年齢の割に小さくて、どこかしら中性的なその顔と体。苛烈な環境で育ってきたのに、真っ直ぐなその性格。


「ぼくはっ、生きていて、……いいんですねっ? いなくなって、しまいたい、なん、て、……思わなくって、良いんですね?」


 今まで『生』を一度も喜んだことがないようなスカイの言葉。

 泣いて、ぐちゃぐちゃになった顔で、笑っていた。スカイのその言葉に、アクエリアの胸に何か熱いものが込み上げてきた。視線を僅かに逸らして、笑って頷く。


「……これから、沢山楽しいことがありますよ。今までが辛い事ばかりだったんですから」


 スカイの目を見たら、アクエリアまで泣いてしまいそうだったから。




 ……その日の夜から、アクエリアのスカイに対する『特別授業』が始まった。……始まった、というよりはスカイによって無理矢理させられているのだが。

 スカイはまだ低年齢クラスにいる。読み書きも計算もまともに出来ないからだ。しかしそれとは裏腹に、今までの反動からか知識欲は旺盛だった。一人で読める本もまだ殆ど無く、かと言ってつきっきりで本の読み聞かせをしてくれるような、そこまで暇なシスターなどいない。当然だがそこにはアクエリアが割り振られた。

 しかしスカイはアクエリアに読み聞かせをねだるようなことはしなかった。その代わり


「アクエリアさんの色々な話が聞きたいです」


 本よりも、アクエリアの知識と経験を話としてねだった。

 文字書きの練習、と渡した一枚の紙にはもう全面に字の練習がされている。終われば聞ける、とばかりにスカイが根性を出した結果がこれだった。

 ベッドの上にうつ伏せになって、顔と胸を上げた状態でばたばたと足を動かしている。この前まで奴隷だったと思えないほどの自由ぶりだ。


「俺の話なんて聞いても面白くないですよ」

「面白いですよ! だってアクエリアさんの話ですから!!」

「……そうやって気軽に人を持ち上げるような事を言うと、いつか面倒事に巻き込まれますよ」

「ダメ、なんですか?」


 アルギンに言われたような事を、アクエリアはスカイに言った。

 悲しそうな顔をして俯かれる。アクエリアの弱点になりつつある顔だった。下手に情が湧いてしまった今、もう逆らうことは出来ない。


「……何が聞きたいんですか」

「えーと」


 スカイの表情は少しだけ、悪戯っ子の悪戯がばれてしまう直前のような顔に似た、本当に楽しそうなものだった。

 少し悩む素振りを見せたスカイは、考えて、色々案を頭の中で出しては消し、それを何回か繰り返しながら口を開く。


「……アクエリアさんは、今の仕事をしているのは何故ですか?」


 聞かれたアクエリアが言葉を詰まらせた。ある意味一番聞かれたくない内容だったからだ。

 この話は深くまですると、アクエリアの内の感情まで話すことになってしまう。


「……簡単に話すだけでいいですか」

「ちゃんと聞きたいです。僕が、この先どう将来を考えるかに役に立ちそうなので」


 スカイの将来の話が出るとは思わなかった。それを盾に人の話を引き出そうなんて高等手段は予想外だ。

 アクエリアは話さないという選択肢を諦めて捨てつつ、当たり障りのないように話すにはどうすればいいかを考えていた。


「……この仕事を斡旋してきたのは、俺が今住んでる酒場のマスターなんですけどね。覚えてますか、最初俺と一緒にいた女性です」

「あの時の、綺麗な女の人ですか?」

「スカイの目にも『綺麗』だと映るんですね。内面は黒光りするくらいのタマの持ち主なんで見た目で判断してはいけませんよ」

「?? はぁい」

「その酒場は、元々は俺の兄が経営していたんです」

「あに……? お兄さんがいたんですか?」


 都合の悪いところは、今はまだはぐらかしながら話していこうと決めた。それでもスカイの顔は、きらきらとした瞳でアクエリアの話を聞いている。


「兄とは随分昔に離れて暮らしたもので、あまり声も顔も思い出せないんですが」

「……いいなぁ。僕は、家族というものを知りません」

「良いものか悪いものかは、環境に拠りますね。俺は家族仲は悪い訳では無かったですが、もう百年近く故郷には帰っていないもので」

「百年!? アクエリアさん、何歳なんですか!?」

「さて。年齢に頓着しないので、俺も詳しい年齢なんて忘れてしまいましたよ」


 ……正確にはまだ百年経っていないのだが、『近く』という意味でなら間違ってはいないのでそのまま話を進める。

 アクエリアが口にする、一つ一つの話にしっかりと反応を返してくれるのが嬉しくて、また一つ話を紡ぐ。これほどまでに誰かと何かを話すことは、ここ最近無かった気がしている。

 スカイの笑顔が嬉しかった。

 スカイの言葉が嬉しかった。

 アクエリアは、最初に会った時に思った『深入りしてはいけない』の言葉が揺らいでいた。


「それで、どうして酒場に?」

「……人を探しているんですよ。もう二十年見つかってません」

「人……?」


 人。

 最愛の人。

 彼女がいないだけで、何度苦しい夜を迎えただろう。胸が張り裂けそうな孤独を感じただろう。

 ただ側にいて欲しかった。そんな人と、これだけ探していても出逢えていない。


「……大切な人なんです」

「それ、……」

「……?」

「僕、じゃ、代わりになりませんか」


 おずおず、といった雰囲気のスカイの提案に、アクエリアが思わず勢いよく咳き込んだ。その様子にスカイも驚いて慌てている。


「……そ、の……人、は。女性ですっ」

「あっ……」


 咳き込みながらのアクエリアの言葉に、スカイの顔がみるみる赤くなる。意味は分かったらしい。

 両手をバタバタさせて自分の失言を撤回しようとしているスカイ。その様子がおかしくてまた咳き込む。


「俺の、恋人でした」

「恋人……」

「まだ、忘れられない。忘れられないうちは、まだ探していたかったんです。ずっと彼女を探して旅をしていましたが、旅の支度金も尽きかけて、宿無しに宿と仕事を与えると噂で聞いた酒場にお邪魔したんです。……あのマスターが酒場を経営していて、俺の兄が先代のマスターだと知って。世話になって、それからもう五年になります」

「五年……。五年も、酒場で仕事を?」

「仕事を斡旋して貰えるうちは暮らして行けましたから。そのうちに、あのマスターから離れ辛い事情も出てきて……たいした理由もないまま、今に至ります」

「……じゃあ、僕はマスターさんにも感謝しないといけないですね」

「感謝?」


 スカイのその時の笑顔は、今までのどんな笑顔よりも綺麗なものだった。


「僕がアクエリアさんと出逢えたのは、マスターさんが仕事を斡旋して、引き留めてくれていたお陰だから」

「……!!」


 その笑顔には性別を感じさせない何かがあった。言われて悪い気はしないが、同時に罪悪感のようなものが胸に込み上げる。

 自分には最愛の人がいながら、スカイにここまで親愛を寄せられるのが後ろめたささえ感じさせた。それが例え、雛鳥に対しての刷り込みのようなものだったとしても。


「……今日の所はこれで話はおしまいです」


 その勝手に感じている後ろめたさが気恥ずかしくて、咳払いをして話の終わりを告げた。想定内だが、スカイは不満な胸の内を眉で書いていた。


「続きはまた明日、勉強頑張ったら続けてあげます」

「……はい」

「では、今日は寝ましょうか」


 最後は渋々といった様子で、スカイもベッドに寝る姿勢を取った。

 けれどそれからスカイが寝入るのはあっという間。アクエリアは、スカイの規則的な寝息を聞きながらその寝姿を見守りつつ部屋の蝋燭の火を消した。

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