第34話
アクエリア
ねえ、アクエリア
わたし、しあわせよ
眠る直前、昔の記憶がフラッシュバックすることがある。
今日思い出したのは、今でも忘れられない愛しい人の声と言葉だった。
狭いベッドから起き上がって、隣のベッドに眠るスカイを確認した。
スカイは置かれている状況を考慮され、小さな部屋を与えられている。最初に出会った時の鉄扉の部屋ではなく。小さな部屋に狭いベッドを二つ無理矢理置いた部屋は、場所が無さすぎて普通に生活するには不便する。日中は外に出ているからまだいいのだが。
……そんな場所でも、スカイは嬉しそうに、そして所在無げに過ごしていた。
「……。」
スカイは狭いベッドの端に寄って、丸まって寝ていた。寝息はとても小さく、寝返りもあまりしない。行儀が良すぎて怖いくらいの寝相だ。広い場所で遊ぶのは好きなのに、遊ぶ以外の時間は狭い場所を自ら選んでいた。食事も部屋の隅、寝ている時も。
体に掛けている毛布も、肩までしっかりと包まれている。この少年が風邪を引かないようにと思ったが、アクエリアに今出来ることは無いらしい。
あとどのくらい、この少年との生活が続くのだろうか。プロフェス・ヒュムネであることは証明された。手続きが終われば国の保護下に入る、それは一体いつなのだろうか。
スカイの寝顔を見ながら、アクエリアが昔の事を思い出す。
それはスカイの黒髪が、愛しい人の髪とどこか似ていたから。
「――……。」
小声で、誰にも聞こえないよう『彼女』の名を呼んだ。掠れた声が、未だに記憶から色褪せない人物の名前を象る。
綺麗な黒髪の人だった。濃紺のような深い色をした黒。長く伸ばして手入れの行き届いた髪も、アクエリアは好きだった。握ると温かい手も、瞳を縁取る長い睫毛も、その奥の澄んだ青い瞳も、アクエリアよりも小さくて華奢な躰も、抱きしめるとふわりと漂った花のような香りも。
その女性の何もかもを愛した。初めから一目惚れだった。外見に違わず内面も素晴らしい女性だった。その女性にだけは形振り構わなかった。
最初は嘘だと疑われて断られて、でもそれからも伝え続けた想いをいつしか受け入れて貰えた、向こうからも愛された。それからもずっと幸せだった。
彼女がいなくなるまでは。
「――……。」
アクエリアが元々住んでいた国は、アルセンほどでは無かったが他種族が住まい、冒険者の数もアルセンほどに多い国だった。冒険者ギルドも酒場も宿屋も活気に溢れ、ただ治安は悪かった。アクエリアは兄が故郷を出てから自分も親元を早々に離れ、国の冒険者ギルドに登録して日銭を稼いで暮らす生活をしていた。酒も煙草も女を買うことも、その頃に多少は覚えてしまっていた。
そんな中、彼女と出逢った。彼女は移住してきたばかりらしく、それまで恋愛事に一切興味が無かったはずのアクエリアは一目で恋に落ちた。初恋だった。
恋という事象は知っていても、今まで縁も所縁も無かったアクエリアはその一人の女性にのめり込むことになる。それは今でも、深く。
「……どこにいるんですか」
見た目はヒューマンで言う二十代後半。その実年齢は百を超えたエルフであるアクエリア。
今でも忘れられない女性を思い出すように、小さな四角い窓から見える夜空を見上げた。
「………ん」
アクエリアの声に最初に反応したのはスカイだった。身動ぎの時に自分で発した声で起きたようで、スカイの瞳がすぐ開く。視界にアクエリアがいたことで安心したのかすぐに起き上がることをせず、その瞳は数回瞬きをするだけになった。
「……起きてしまいましたか?」
「誰かに……呼ばれたような感じがして」
スカイがそう言った事で、今度はアクエリアが目を瞬かせる。アクエリアが呼んだのは『彼女』の名前であり、スカイの名前ではない。スカイはゆっくり起き上がって、アクエリアと同じようにベッドの上に座った。
「……アクエリアさん」
「はい」
「僕が保護されたら……僕はどうなるんですか」
「……。」
それはアクエリアが同じ立場になった時でも絶対に浮かぶ疑問だろう。しかし、アクエリアには深い事情までは分からなかった。同じプロフェス・ヒュムネでも、あの酒場で働く者もいれば、以前のように孤児院で働くことを許されたアルカネットの妹もいる。その様子の全てを端から流し見していたアクエリアは、保護下に入ったその先の事を詳しく知っている訳では無かった。
―――これまでが奴隷として生きていたスカイはどうなる?
「……俺が知っているプロフェス・ヒュムネは、元居た場所で働いたりしています」
「……じゃあ、僕も奴隷に戻されるのかな」
自嘲気味に言ったスカイは俯いていた。
「……奴隷を取引してた場所は俺の仲間が壊しました。だから、貴方はもう自由です」
「じゃあ」
スカイが横向きに寝転ぶ。その瞳は、まっすぐにアクエリアを捉えていた。瞳にアクエリアが映るほど。
「僕は、貴方と一緒にいたいです……アクエリアさん」
「―――。それは」
「いけませんか。僕は多分、貴方の傍だったら何でもできます。何でもします」
少年と思えないほどの蠱惑的な姿勢だった。外から入る月明かりに体のラインが浮かぶ。アクエリアは、無言でスカイの姿を見つめていた。冗談を、と笑って流せる話では無かった。
「僕は、貴方と一緒にいたい」
「……。」
「仕事で一緒にいてくれているのはわかってます。でも、僕は外で生きていく方法を知らないんです。この先国からそれを教えてもらえるとしても、そうして生きていくのは貴方の傍が良い」
良いよ、と。その返答がどうしても出てこなかった。
簡単に返事出来たらどれ程楽な話だろう。スカイの瞳は本気だった。
その本気の想いに返せるだけの『何か』をアクエリアは持ってない。
五年前にこの国に来てから今の今まで一介のギルド員で地位もない。
熱心に仕事をしている訳でもなく、二人で暮らせるだけの金もない。
あのギルドにいて、真っ当な生き方をさせてやれるかの自信もない。
ギルドを出て二人で暮らしていけるような生活地盤も整っていない。
そんな思考がアクエリアの頭を駆け巡り、悩ませ、引き結んだ唇が開いた時。
「駄目です」
驚くほど冷たい声が、アクエリアの口から出た。その瞬間のスカイの表情は。
「……知ってました」
スカイの瞳が、徐々に閉じられる。それは拒絶された絶望も期待が裏返る失望も押し隠す、悲しい表情。
それを寝入る仕草だと判断し、アクエリアも視線を逸らした。スカイが寝ていないのは分かっている。
「アクエリアさん」
お互いにまだ眠れないことは分かっている。スカイの声が、静かな部屋に聞こえた。
「……それでも僕は、貴方がいいです」
その言葉に返事はしなかった。
今スカイが言っていたものと同じような言葉を、自分が『彼女』に言った気がする。ああ、まるであの時の彼女の立ち位置を体験しているようだ。
その時彼女は、どんな返事をしたっけ?
「お、何だ。やっぱり疲れて帰って来たか?」
次の日朝早く、シスターやフュンフにスカイの事を頼んでアクエリアが酒場に帰って来た。勿論、一時的なもので用事が終わればすぐ戻ると言ってある。
酒場ではまだ清掃中のマスターやマゼンタの姿がある。キッチンにはオルキデもいるだろう。
「……アルギン、俺の部屋に勝手に入ったでしょう」
「あぁ? 着替えの話? アタシじゃねぇよ、暁だよゴソゴソやったのは」
「暁ぃ!!」
アクエリアは若干立腹したまま二階に続く階段に向かって怒声を上げている。しかしその姿を見ているアルギンはけらけら笑っていた。
「ダメダメ、暁は今日帰ってきてないよ」
「……またどこか行ってるんですか」
「まぁね。……まー、アイツも色々あるみたいだから」
嘯いたアルギンはカウンターで煙草に火を付ける。そんなアルギンを若干恨めし気に見るアクエリア。紫煙が宙を漂って、アルギンが煙の向こうでアクエリアを笑い見る。
「そんな事より、どした。まさか暁怒鳴りつける為だけに帰って来た訳?」
「そんな訳ありますか馬鹿馬鹿しい。……貴女に聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
アクエリアは昨晩の事を掻い摘んで話した。スカイが言った事、自分の考えとスカイへの返答。アルギンはそのどれもをふんふんと頷きながら聞き、そして眉を顰めていた。美貌の持ち主が眉を顰める妙な迫力に、アクエリアは肩を竦めながら話した。
「……まだ二日三日程度ってのに、よくそんな懐かれたもんだなぁアクエリア」
「人徳ですかね」
「ジントク? ナニソレ? オイシイオサケ?」
「はっ倒しますよ」
「ゴフッ」
二人が軽口を聞いていたら、掃除中のマゼンタがモップがけをしながら吹き出した。吹いた後も変わらず平然と掃除を続けている。二人がマゼンタを驚いた様子で見たが、すぐに視線を元に戻す。
「分かるけどね。アタシだって、兄さんに引き取られてからすぐ兄さんに懐いたもんだ」
「……。」
「だって、他に行く場所無いんだもん。気に入られたくて、見捨てられたくなくて、性に合わないご機嫌取りだってしたさ。……すぐに、似合わないからやめろって言われたけど」
「流石俺の兄。アルギンの性根をよくご存じで」
「そんなところ全っ然似てねぇよなお前さんと兄さんはよぉ。お前さんに飲ませるために兄さんの爪の垢取っときゃ良かったわ」
アルギンの目が眉と怒りで一緒に吊り上がる。凄い顔になったな、とアクエリアは内心で馬鹿にした。心に浮かんだ言葉ををそのまま声に出すと洒落になりそうにないので止めておく。
「……まぁ、なんだ。別に、アタシはお前さんが良いなら身柄引き取ってもいいと思うけどね?」
「は……」
「お前さんは血生臭い訳じゃないし、まぁこの場所は教育に悪いかもしれないけど、奴隷でいた方がよっぽど教育に悪かっただろうし。『側にいたい人の側にいる』って事の方がよっぽど大事だと思う」
その言葉を口にするとき、アルギンの瞳が遠くなった。側にいたくて、最後まで側にいられなかった人がアルギンにはいる。何よりも大切で、誰よりも愛した人を亡くしているから。
「……けれど、俺にはもう一人養えるような経済力は」
「あるじゃん、面倒な仕事断ってるだけで、金は稼ごうと思ったら稼げるじゃないか。……メシ食わすのはアタシが何とでもするから、お前さんがどうしたいかだと思うよ。アタシはね」
「そこまで、貴女に甘えたくは」
「アタシはお前さんの兄さんに引き取られた。……それでここまで生きてきた。甘えるんじゃなくて、アタシが弟であるお前さんに、兄さんから受けた恩を返すだけだよ」
アクエリアは頭を掻いた。アルギンの言葉に、一度決めた心が揺らいでしまう。自分には何の関係もないところで、アルギンがこちらに恩義を感じていることも含めて。
迷っていることをアルギンに見抜かれていた。自分と比べて半分の年も生きていない混じり子に見透かされるのは、何か変な感覚がした。それだけ、このギルドマスターは数々の修羅場を潜ってきたのだ。……勿論、アクエリアだって多少の修羅場はあった。それでも、だ。
「ちょっと休憩したらスカイのとこ戻れよ。……それとも何か食べるか、今は余り物しかねぇが」
「……お願いします。施設の食事は味気なかった」
「はいよ、ちょっと待ってな」
アルギンが奥に引っ込む。アクエリアはカウンターに座ってその場に突っ伏す。
昨晩の睡眠不足が祟ったようだ。アルギンが戻るだけ、と決めて目を閉じた。
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