*7* 花に嵐の喩えもあるさ。
本日はついさっき日付を跨いで“五月十四日”になった。今夜は王都でも珍しく星が掬えそうな夜空が頭上に広がっている。
本来なら十二日にラシードの誕生日を祝う集いがあるはずだったのだけれど、運悪くカーサの演習と重なってしまい、その後の二日間はラシードが仕事で忙しかったので連日お流れ。しかし誕生日というのは厄介な行事で、過ぎれば過ぎるほど鮮度を失う魚の如く喜びが薄れるもの。
だからこそ星詠みの能力を駆使……と、言うほど大したことをする訳ではないけどせっかく心地良い季節だから、四人でテラス席のある食事所を予約したのだ。その時に一番大切なのは絶対当日のお天気であるはず。
「よし……こっちは大体詠み終わった。後はルシアのものと摺り合わせて決めよう。そっちの水晶の中はどうなっている?」
「えーと、ちょっと待ってね……あ、来た来た」
温室の中、久し振りに二人揃っての天体観測に落ち着かない気持ちになりながら、それでも何とか平静心を保とうと、くるりと回す傷だらけの水晶の中に氷雨のような輝きがシャラリと流れる。
性能の低めな私の天体望遠水晶は推しメ……クラウスの物より少し遅れて情報が流れ込む。その軌道を詠みながらも、握り締められた左手の方に意識が持って行かれてしまいそうになって、軽く唇を噛んで気を引き締めた。
「明日の降水時刻は~……お昼の十二時から夕方の四時頃までかな。翌日は少し風があるけど終日良いお天気で……前日までの雨で湿気ってた地面が乾きそう。だからお店は当初の予約通り十七日で大丈夫っぽい」
背中合わせで違う方角の夜空を眺める背中から伝わる体温は、お互いに以前より高く。握り合う掌の熱が心地良さとある種の緊張を内包しているように感じる。
すると握っていた手を開いた推しメ……クラウスが、指を絡めるように繋いで「そうか。それなら俺と同じ予測だ」言ってくれるから、心臓が口から出るかと思った。は、これってアレですよね? あの有名な都市伝説に出てくる“恋人繋ぎ”とか言う固有名詞技。
何なんだこれ尊い乙女ゲーム万歳今心臓が止まったところで我が人生に一片の悔いなしって叫びながら天を指差して倒れそう。
――と、現実には一言も発せないくせに、心の中だけは恐ろしいくらいに騒がしい。しかも少女漫画や乙女ゲームのヒロインならば、絶対に言及しないであろう生理現象が私を追い詰めている。
それ即ち手汗という、ロマンティックを全力で邪魔しにかかってくる体内からの刺客。主に自分のせいだけど……皮膚呼吸今だけ止めたい!
などと考えながらも自分からは手を離せないジレンマに悩んでいると、不意に背後から「すまん、思ったよりも緊張して……その、手汗が。不快なら離すから言ってくれ」と小さく詫びる推……クラウスの言葉に動悸息切れまでしてきたぞ?
『一年だけで良い。学園にいる間だけで構わない。俺の
十日の昼休みに向かい合わせに抱き合ってそう言われた時、私の世界は一度滅んだ。この世界での自分の過ちを嫌悪した。瞬時に“彼を想うならば、断るべきだ”と冷静な部分が叫んで、即座に“絶対に嫌だ”と【
【番星】はその名の通り、恋人同士の星達を指す。あの神話の中で与えられた仕事もほったらかしでキャッキャ、ウフフしてしまう方々――……だけでは勿論ないけれど、神話の中でも夜空の中でも、この【番星】は二つで一つに数えられるようになる。それはとても幸せなことだろう。
少し前までは私の中で憧れと妬みの対象だったけれど、今ではそこに自分がいるのだと思うと不思議な気分だ。それも前世のツギハギだらけの記憶を使って、クラウスの欲しい言葉と行動を取って得られた場所。
けれどそれが恥ずかしくないのかと誰かに問われることがあれば、私は間違いなく“恥ずかしいものか”と答えるはずだ。
狡かろうが、嬉しい。
一年契約だろうが、自分の人生の中で一瞬でも。
彼が手に入るのなら、それで。
それだけで領地に戻ってからの長い一生を生きていけるに違いないのだ。
そんな風に少し湿っぽいことをぼんやりと考えていたら、クラウスが「急に黙ってどうした?」と肩越しに訊ねてくる。
その心地良く耳に馴染む声に「何でもないよ~」とへらりと笑って返事をすれば、一度は「そうか」と返事を返して再び水晶を覗いていたクラウスが、繋いでいた左手を離してしまう。
五月の夜気に晒された掌が寂しいと感じていると、身を捻った推……クラウスが右の額に残っている傷跡に軽く口付けてくれた。
「おお……私の番星様はそういう不意打ちしちゃうのか……」
すでに元の体勢に戻り、背中合わせで星空を見上げているクラウスにそう照れ隠しの軽口を返せば。
「急に黙り込んだ俺の番星が心配になったから、気休め程度のまじないだ」
静かにそう返してくる声に、体温に。どうしようもなく愛おしい気持ちが込み上げて。離した左手を求めて手を伸ばせば、すぐに手汗でひんやりと冷たくなったクラウスの掌が、同じく冷たい私の手を包み込む。
どこか泣きたくなるような、温かくて冷たいこの感情の揺れを指して人は【恋】と呼ぶのだろう。
***
今日も頭がどうにかなりそうな一日の授業を何とか無事に終えた。十日に一コマ抜けた分の提出物をようやく全部提出することが出来たので、これで放課後を自由に使える。
本来はもっと提出物を増やされるところだったのだそうだけど、ヒロインちゃんが私達は調子が悪くて早退したと言ってくれたお陰で、レポート用紙十五枚という比較的軽い物で済んだのだ。しかも欠席した授業のノートまで貸してくれるという出来人ヒロインぶり。
クラウスはここまで完璧なヒロインちゃんを諦めて、本当に良いのだろうか。今ならまだ何とか……などと、ノートを貸して去って行くその背中を見つめていたら、何故か隣からクラウスに「諦めろ」と言われた。
タイミングの良さにギョッとして「今の口に出てた?」と訊ねれば、眉根を寄せたクラウスに「視線にな」とつまらなさそうに返される。読心術とか読唇術なら分かるけど、視線に出るというのは何というのだろう?
適当な単語を思い出そうと記憶を探っていたら、不意にクラウスが「ルシアは、男は年上の方が好みか?」と訳の分からないことを言い出したので、その鼻先に人差し指を突きつけて「私の好み」と宣言する。
こちとらやっと番星になれたというのに、何でいきなり不貞を唆すのだ。もしかして実は隠れたそういう趣味が? いやでも、それなら嫉妬で相手を殺そうとはしないだろうし……と考えていたら、いきなり無言のクラウスが抱き締めて来たので避け損ねた。
ここがまだ下校後間もない学園の廊下でなければ避けないけどさ! 周りに誰もいなくて本当に良かった!!
もう止めてくれよこの唐突な乙女ゲーム回路! 身が保たないんだよって、そういえば乙女ゲームの三年生ってこんな感じでしたっけねぇ!?
人目は一応憚ってくれてるんだろうけどこれは――って、廊下の角を曲がりきっていなかったヒロインちゃんにバッチリ目撃されてしまった……。こちらに向かって親指を立ててくれるヒロインちゃんの、ちょっとした俗っぽさに触れることが出来て……良い訳ないよ。恥で死ねる。
明日からどんな顔をして毎日教室で顔を合わせれば良いんだ……。
ああでもスチルがどうこう騒いでられないはずなのに、きっとこのスチルは生前“誰から見た図だよこれ”と首を捻った、ヒロインと攻略キャラクターの両者を一気に映すやつだわ。あれってやっぱり第三者視点だったのか。
とはいえ今はそんなことを言っている場合ではなくて、ですね。
「あのさ、クラウス? ここでずっとこうしてると、ラシードのプレゼント探しに行く暇なくなっちゃうから」
その言葉でやっと解放された時には心臓が痛いくらい脈打ってたけれど、奇跡的に鼻の粘膜は堪えてくれた。今までで散々鍛えられてたみたいで良かったよ。
それに店の予約までしておいて何なのだが、このところのゴタゴタでまだお互いに十七日にラシードにプレゼントする物を選べていなかったりする。
「そうだ、せっかくだしさ、一度着替えてから探しに行こうよ。その方が、その、あれだよ」
自分の提案に照れが生じるとか、馬鹿か私は。あれって何だよと内心自分に突っ込んでいたら、夕日のせいで少し顔が赤く見えるクラウスが「放課後デートだな」と淡く微笑む。…………尊みしかない。私の推しメンが可愛すぎると世界に発信したくて震えるわ。
それまでにお互いに照れすぎたせいか「「じゃあ後で校門前に」」と、やや言葉少なに寮へと引き返す。自室に戻ってからザッと服を選んだけど、悩むほど種類がないので結局いつもの男の子っぽい仕上がりに。残念。
せめて髪型だけでもと思ったけれど、結局カーサにもらったヘアピンの可愛さに頼ることにした。不器用にラシードが教えてくれたゆるふわアップは荷が重い。
それでも意外と時間を食ってしまったので慌てて校門に向かえば、すでに到着していたクラウスが誰かと話し込んでいる後ろ姿が見えた。誰だろうかと思いつつ走る速度を落とさずに近付くと、私の接近に気付いた両者が振り向いて「「ルシア、ちょうど良いところに」」と声を揃える。
その顔を見た私が喜ぶよりも早く、ガバッと抱き付いて来た相手は「助けてくれ!」と悲壮な声を上げた。どういう状況でこうなっているのかと視線で前にいるクラウスに問えば、彼はあっさりと端的に口にする。
「この間酔った勢いでラシードに求婚したそうだ」
――……どうやら乙女ゲームの三年目は恋の嵐が吹くらしい。
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