★6★ 振り解かれたら、逃がそうと。
二週間前にラシードと会ったあの日から、ルシアが俺を避けだした。
しかしそれも当然のことだろう。あの日の行いはどれもルシアを畏縮させるものでしかなかったはずだ。実際、まるで忌々しい
どうして、俺のような人間の為に毎度どこかに傷を作るんだ?
どうして、俺のような人間の為に領地から送られた金を使った?
どうして、俺が唯一持たせてやれた物まで手放してしまったんだ?
どうして、どうして、どうして、どうして――……。
だが少し冷静になれば、その答えが至極単純なことだと思い至る。俺がラシードほど男として頼りがいがなく、カーサほど裏表のない善人でもないせいだと。
それでも最初は毎日授業が終わるごとにルシアの席まで向かったが、それをことごとく躱され続けるうちに、ふと。これがルシアを自分の手から逃がすチャンスなのではないかと思って、そのままにすることにした。
昼休みに毎日どこにいるかだけを把握出来ていればそれで良い。そう思うことにして、ルシアが休憩時間に姿を消した後、すぐにこちらに探るような視線を向けるお人好しなアリシアに、知っていることがないかと訊ねた。
するとただの喧嘩だと思っているアリシアは、あっさりと場所を教えてくれ『早く仲直りが出来ると良いわね?』と労りの言葉までかけてくる。
前回のループで自分を苦しめた行為を何の疑いもなく応援するその姿に、今回ではまだやり直せるのだと安堵もした。
しかし話を聞く内に、ルシアが協力者にホーンス氏を選んだのは非常に面白くなかったものの、俺が彼をあまり快く思っていないことに気付いての選択なのだとしたら、それはこちらの追撃を撒くのに充分な効力を持っていたことになる。
かと思えばカフェテリアで昼食をとっている時に視線を感じ、周囲をそれとなく注意して窺えば、いつもそこにはルシアがいる。あれで尾行している気なのだとしたら微笑ましいものだ。それこそこちらを心配するその視線が絡みつくたびに、心が震える気がした。
そんなことを二週間も繰り返しているうちに、自然とルシアの気配が自分の生活から薄れていくのが分かる。しかし一応いつかの図書館での時のように、首飾りを持たないまま居眠りでもして日が暮れたらきっと怖がるだろうから。そういったもしもの場合にのみ備えて、空き教室の鍵を複製した。
だから今日は、昼休みがもうすぐ終わる時間になっても教室に戻らないルシアが気になって、こっそり覗きに行くだけのつもりだったのに――……。
空き教室に足を踏み入れた時、床一面に星座表を広げ、その上に靴を脱いでうずくまっている一種異様な背中に興味を惹かれて、そっと後ろから覗き込んだ。
すると後ろ姿のままこちらに気付かないルシアは、食い入るように眺めていた星座表の一点。俺の最も良く知る忌々しい星の上を、まだ赤茶色い傷の残る指先でなぞり、溜息のように囁いた。
『……こんなところにいた』と。
俺の願望がそう聞こえさせるのか、優しく慈しむようなその声音にぼうっとなっていると、ルシアは次の瞬間星座表に屈み込み――……忌まわしい星に口付けを落とした。ルシアは星に疎い。だからそんなことを躊躇いなく出来るのだ。
そう思いはするのに、まだどこかで浅ましく“もしかしたら”と何かを期待する自分がいて。本来であれば何も見なかったことにして、ここから気付かれないうちに立ち去ることが最善の策だと分かっていても。
欲する思いの形とは異なるかもしれない。でもほんの少しでも欲する思いの形と似ているならば。それを得ることが出来れば、この先どんなことが起きようとも、堪えられそうな気がしたのだ。
そして俺はわざとルシアが気付くように、背後で空咳をすることでその注意を引いた。振り返りざまにルシアが口にした名に苛立ったのは否めない。けれどその瞳が見開かれた時に、そんな些細なことはどうでも良くなった。
薄い鳶色の瞳に見えたのは、驚愕と困惑。
しかしその瞳にこちらが身構え恐れていた拒絶の色は浮かばなかった。俺はそのことにただただ安堵して、自分から行動するように仕向けておきながら、かける言葉を見失う。
そうしてどちらも身動きが出来ずに止まっていると、無情にも午後の授業開始を報せる鐘が鳴った。その音に一瞬気を取られて窓の外に視線を逸らした隙をついて、ルシアが脇をすり抜けようと前のめりに立ち上がりかける。
もしもルシアが逃げ出そうとするなら、逃がそうと。直前までそう思っていたはずの身体は、けれど、理性の働く間もなく勝手に動いてルシアの身体を抱きすくめていた。
手離したステッキがゆっくりと床に叩きつけられる音が聞こえたのは、膝に鈍い痛みを感じた後。ルシアを抱きすくめるまでの一連の動作に比べて、世界が僅かに遅れているような気がした。
立ち上がるはずが、上から俺に覆い被さるように抱きすくめられたルシアは、抵抗のつもりか腕の中で微かに身動ぐ。その身体の下で埃まみれの星座表がクシャリと小さな音を立て、細かな埃が宙を舞う。
すると腕の中にいたルシアが「離してよ」と震える声で言い、俺はその言葉を耳にして心が仄暗く陰るのを感じたが――……しかし。
「あーあ……せっかく見つけたクラウスの星、踏んじゃったじゃないか。可哀想に」
そう言って、膝の下敷きになってくしゃくしゃになった星座表を、労るようにルシアが撫でる。そしてそれと同じような仕草で、ぐずる子供をあやすように、ルシアが指先で俺の髪を弄った。
「……見つけたと思ったのに、見つかっちゃったねぇ?」
ふぅっと目を細めて困ったように微笑むその表情を間近に見たのも、髪を弄る指先に触れたのも、まだたったの二週間前のことでしかないのに。それが酷く昔のことのように思えて。もっと強く触れていないと、この時間が失われる気がした。
「クラウス、苦しい。もう逃げたりしないからさ、ちょっと力を緩め――」
出来ない相談に俺が首を横に振れば、観念した様子のルシアが髪を弄っていた指を止め、腕を背中に回して抱き締め返してくる。
互いの首筋に顔を埋めるように抱き締め合えば、星座表の星になったような錯覚を憶えて。孤独星と呼ばれた忌まわしい自分が、星女神の寵愛を受けた他の兄弟星と同じ、ただの星の一つになれた。
不意に俺の首筋に埋められたルシアの体温が、常よりも高い気がして盗み見れば、その耳が真っ赤になっているのが視界に入る。この反応は少なくとも、嫌われてはいないのだと自惚れても良いのだろうか?
それを確かめてみたくなり、ルシアを抱き締めていた腕の一方を解いてその赤く染まった耳に添える。すると、いつもさっきまでのような大人びた反応を返すルシアが、ほんの一瞬だけ息を詰めた。
熱い耳から首筋へと掌を滑らせれば、ルシアの肩が小さくはねる。細くて片手だけでも折れそうな首だと感じる仄暗い部分と、この喉が自分の名前を呼んで震えることを考えて温かい気持ちになる仄明るい部分。
以前のループで感じた物と似通っているのに、それよりも遥かに柔らかい感情と胸にくすぶる熱に戸惑う。またあの靄が名を欲しがり、胸の内で膨れ上がった。沈黙が長く続いたことを訝しんだルシアが「大丈夫? どっか痛むの?」と言いながら、背中に回してくれていた腕の力を緩める。
身体を引いて覗き込んでくるルシアの心底心配したような表情が、腹立たしくて、狂おしくて、愛おしくて、憎らしい。今の俺の化け物のように醜い執着心を知れば、きっとルシアもアリシアのように怯えるだろう。
――――だというのに、愚かにも。
「……なあルシア、一つだけ頼みがあるんだが聞いてくれるか?」
「うん、何? クラウスのして欲しいことで、私が出来ることなら何でも良いよ」
疑うことなど何もないというように微笑むルシアの頬に手を添えて、この胸にくすぶり続ける靄に名を与える罪を、どうか。
「一年だけで良い。学園にいる間だけで構わない。俺の
どうか、今だけ星女神。
この身の程知らずの禍星にも、道を照らす貴女の加護を。
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