*7* 光明が見えた。
「ハハハッ、疲れてるかと思いきや、えらく元気な腹の虫だな。まぁ良い。続きは適当に腹拵えでもしながら話すか」
声を上げて私のお腹の音を笑ったウルリックさんはそう言うや否や、さっさと背中を向けて歩き出してしまった。慌ててその背中を追いかけるうちにお腹の怪物は、さらにその鳴き声を大きくする。
先を歩いていた彼が「ここで良いだろ?」と振り返ったのは、一軒の古い飯どころ兼宿屋のようなお店の前で、私にとってはこの世界で初めて立ち入る屋根のある場所だ。
店内からは夕食時ということもあり、人数は定かではないけれどウルリックさん以外の人の声が聞こえ、食事の匂いも漂ってくる。こちらの表情から不満意見がないのが分かったのか、彼は「んな期待するような店じゃねぇぞ」と苦笑しながら、慣れた様子で開け放された入口をくぐった。
すると一斉に視線が新しい客である私達にそそがれ、けれどすぐに興味をなくしたようにお互いの話相手へと向き直る。ただ何故かそんな様子に少しだけ違和感を感じたのだけれど、その違和感の正体が分からずに店の奥へと進む彼の背中を追いかけた。
ウルリックさんは案内される前に空いている席に腰を下ろしてしまい、キョロキョロと店員さんを探す私に「何を突っ立ってんだよ、さっさと座れ。注文は俺がしてやるよ」と呆れたように声をかけてくれる。
店内はそこそこお客さんが入っているけれど、勝手に座ってしまってもいいのだろうかとは思いはするものの、この世界のことを全く知らない。
それどころか、生前海外旅行にも行ったことがなかった私の道理なんて通用しないだろう。何より郷に入っては郷に従えとの言葉もある。
私は鞄の肩紐をギュッと握りしめながら、ウルリックさんの向かい側の脚のぐらつく椅子に腰を下ろした。そのすぐ後にふくよかな中年の女性がやってきて、愛想良く私達に食事のメニューを口頭で教えてくれる。
料理の名前だけで判別できない私の代わりに、彼が注文をしてくれた。女性がいなくなると、店内を物珍しさから見回していた私に「あんまりキョロキョロしてると、田舎モンだと思われてスられるぞ」と注意されてしまう。
その言葉に慌ててビシッと背筋を伸ばせば、せっかく落ち着きかけていたお腹が“グロロロロ”と唸った。健康になった途端に暴れる食欲と胃袋。しかも両隣の席にまで聞こえてしまったのか、振り向いたお客さんが「大丈夫か坊主。飯が来るまでこれ食べな」とパンをくれた。
坊主と呼ばれたことよりも、お腹の音を聞かれたことの方が辛い。
恥ずかしさで涙目になりながらお礼を言って受け取ると、真向かいでそれを見ていたウルリックさんが肩を震わせて笑っている。けれど今にもお腹と背中がくっつきそうな空腹から、そんな彼を睨み返す元気も残っていない。
口の中に唾が湧くのが止められないのもあり、もらったパンを二つに割って片方をウルリックさんに差し出したものの、彼は「俺はいい」と首を横に振った。お言葉に甘えて両手に持ったパンの片方を頬張ってみる。パンを割った感じは買ってから数日経ったフランスパンで、口に入れてみると……。
思わず町に来るまでに食べていたパンノミと比べてしまうけれど、こちらの方がパンノミよりも噛みごたえがあって、パサついているのと焼かれて香ばしい分、小麦っぽさを感じる。
以上の点を踏まえて「やっぱり竈で焼いたパンは美味しいですね!」と頷くと、それを聞いて噴き出したウルリックさんとは対照的に、パンをくれた親切なおじさんが「坊主、お前いったいどっから来たんだ?」と心配そうに私とウルリックさんを見比べた。
でもおじさんには悪いけれど、どこから来たのかと問われても“転生したてでまだどこに行くのかも、何をして生きていこうかも決まっていません”とも言えない。
困ってウルリックさんへと視線を向ければ、彼はおじさんに向かって「こいつは家族が死んで、誰かと飯を食うのは久しぶりなんだよ。今から親戚の家を訪ねるとこだ」と答え、少し間をおいてから「俺はその護衛だ」と付け加えてくれた。
するとそれを聞いたおじさんと、そのお連れ様らしいお爺さんまでもが、自分の注文したジャガイモ料理とパンの追加をくれる。恐縮しながらもお腹が減っている私は、料理がくるまで待つというウルリックさんを前に、頂き物の料理をどんどんお腹に納めていった。
それから少しすると注文していた料理を持ったさっきの女性が現れて、何故か食事を運んでくる前から口をモゴモゴさせていた私に目を丸くし、次いで「食べ盛りなんだねぇ」と笑いながら配膳してくれた。
かと思うと、すぐにまた戻ってきて「うちの料理を美味しそうに食べてくれたお礼だよ」と、木製のビアマグに並々とカシュアのジュースを持ってきてくれる。
そうするとさらに周囲の人が少しずつ食べ物を分けてくれ、いつの間にか私とウルリックさんの座っているテーブルの上は、注文していない食べ物のお皿でいっぱいになった。
甘さは控え目なものの爽やかな酸味のジュースは、ジャガイモとパンで失われた水分を呼び戻し食を楽しむ助けになる。豆のスープや酢漬けのキャベツ、塩気の強いベーコンや、どっしりとしたチーズ。
どれも前世では口にできないものだったから、何を口にしても幸せを感じる。しかし目の前に座るウルリックさんはあまり食事に手をつけないで、ずっと無濾過ワインを飲んでいた。
よくよく周囲のテーブルを見てみても食事のお皿はあまり載っておらず、ウルリックさんのように無濾過ワインかビールを飲んでいる人が多い。
延々と食べ続ける私のせいで食欲がなくなったのかと心配になり、心持ち食べる速度を落とせば、それに気付いた彼が「俺のことは気にせず食えよ」とのんびりと答える。
結局その言葉に甘え、お腹が鳴き止んで満腹になる頃には、私の両隣にお皿の塔ができていた。
健康になった代わりに燃費の悪い身体にぞっとしていると、私の周囲でご飯を食べていたお客さん達が「坊主のお陰でいつもより飯が旨かったよ」と言ってくれ、ふくよかなお店の女性は女将さんだそうで「うちの人が作り甲斐があるって喜んでたわ」と、声をかけてくれる。
食後はお店の二階が宿になっていたので、そのまま今晩泊まる部屋まで案内してもらった。案内された部屋にはベッドが二つ。そのうちの入口側にあるベッドにウルリックさんが座ったので、私は窓側にあるベッドに靴を脱いで上がった。
案の定ふくらはぎはもうパンパンになっている。汗もかいたのでお風呂に入りたいけれど、この世界ではお風呂は贅沢な宿にしかないようだった。前世が水の国の出身者だと、これはちょっと辛いけど仕方がない。
春だし健康体になったのだから、後で女将さんに井戸のお水を分けてもらって身体を拭こう。そんなことを考えながらふくらはぎを揉んでいると、彼が荷物の整理を始めた。
そこで私もそれに倣おうかと思ったものの、鞄をひっくり返してみたところでそこまで手入れの必要な物もない。唯一すっかり存在を忘れかけていた、辞書サイズの分厚い本に目が留まる。
特に使い道も思いつかないので日記帳にでもしようかと思い、初日以来初めて表紙をめくってみると――そこには書いた記憶のないレシピが、すでにこちらの世界の文字で記載されていて持ち主であるはずの私を驚かせた。
思わず「あれ?」と声を上げてしまったら、荷物の整理をしていたウルリックさんが「どうした?」とこちらに視線を向ける。
「いえ、あの、何でか書いた記憶がないのに、最初にウルリックさんに作った料理のレシピが載ってて。私が寝ぼけて書いたのかと思ったんですけど、そんな不審な行動してたらウルリックさんが教えてくれますよね?」
その言葉に首を傾げた彼がベッドに近付いてきて、私の手許にある本を覗き込んできた。見やすいようにと手渡せば、ウルリックさんは「本当だ。いつ書いてたのかは知らんが、よく書けてるな」と感心してくれる。
表紙を開いたり最後の頁までひっくり返す姿からも、この本の存在自体を知らない様子だ。持ってる私が忘れていたくらいだから当然と言えば当然だけど。
ウルリックさんはちょっと大袈裟なくらい「よく書けてる」と褒めてくれ、私も誰かを泣かせるのではなく褒められるのが久し振りで、結果的に「そんなに褒められると嬉しいです」と、この不思議な本の性能に乗っかることにした。
何よりも最初のレシピが一番思い入れの深いレシピなのだ。転生先で不安が多い中で、こんなに嬉しいことはない。心の中でお爺ちゃん神様にお礼を述べていると、不意にレシピ本として役割を得た本を手に「金になるかもな」と言い出した。
その一言に本を売り飛ばされるのかと血の気が引いた私に気付いたのか、彼は「馬鹿、早とちりすんな」と苦笑する。
「今日は思わぬところでオマエを連れて行く利点が四つも見つかったな」
「四つもですか? 基本的にはぐれないように頑張って歩いて、宿のお客さん達のご好意でお腹いっぱいご飯を食べただけですよ?」
「それで良いんだよ。一つに客と店がオマエに餌付けしてくれたお陰で、食事代はほとんど出さずにすんだこと。二つにオマエがいると不味い飯が旨く見える。三つにオマエが作る飯はそこそこ旨い」
子供に言い含めるような口調で、指折り教えてくれる彼の言葉にふんふんと頷いていると、三つ目まではあっさりと教えてくれていた彼の口が止まる。
そして少し面白そうに暗緑色の目を細め、勿体ぶるように「四つにオマエのレシピはたぶん金になる」と口にした。意味が分からずに「はあ」と生返事をすると、眉間にデコピンをおみまいされてしまう。
大して痛くないデコピンにへらりと笑えば、彼の方も「締まりがねぇな」と笑う。こんな風に誰かが笑ってくれるのを見るのは好きだ。前世でももっと見てみたかったと、ほんの一瞬気分が沈みかけたけれど――。
「どういう経緯で料理ができるくせに味覚音痴なのかは分からんが、この飯が壊滅的に不味い国でなら、オマエのレシピは売れるってことだよ」
そんな風にまたとても良い塩梅で、ウルリックさんの言葉が私を掬い上げてくれたのだ。
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