第9話 名前
ここに不運な男が一人いる。ここっていうか、僕の隣の席に。
あと不運というか、半分は単なる自業自得。まさか授業へぎりぎり遅刻してくるなんて。許される学校ではない。かろうじて兵科目ではない一般科目だったから酷い目には遭わなかったけれど。
遭わなかったが、叱責口調の教官によって空いていた席へ強制着席させられた。それが不運なことにいっつも空いている僕の隣だったというわけだ。
不運な、話だ。
しかもその不運なやつは、席について三秒で居眠りを始めた。まぁ、一般科目に関しては、出席して静かに座ってさえいれば、寝ていようがどうしていようが教官たちは一切なにも言わない。試験もない。だから厳しい訓練の合間の休息時間として活用しているやつは少なくない。にしたって、遅刻してきて三秒で寝るのはさすがに太い。
僕は一般科目こそ真面目に受けたいほうなので、当然居眠りなんかしないでちゃんと受けている。のだが、この時はまだ授業内容が退屈だった。一般兵クラスへ来るやつは文字の読み書きもできないやつが多いからそこからだ。かろうじて最低限の読み書き計算のできる僕は、まだしばらくは退屈なのだった。
そんなわけで、僕は隣へやって来たやつを不運なやつだなぁと思いながらぼーと眺めていた。硬い長机へ頬杖をつき、器用に頭を支えて気持ち良さそうに寝ている。羨ましほどの安眠だ。
僕だって体力にそぐわないしごきに遭い、かつ夜は皇女様に寝床を盗られているから床へ寝るしかなくて疲れもとれず、疲労困憊もいいところだ。それでも授業で寝たら負けだと思って踏ん張っているのに。こいつ。
見ていたら、すやすや寝ていたそいつはおもむろに目を開いた。そしてなぜか僕の方を見てくる。なんだか分からないが、目をそらしたら負けだろう。じっと見返す。やつは目を
その後の授業中もちらちらと確認したが、やつは結局ずっと寝ていた。その授業が終わって次の授業までの合間に友達のところへ帰るだろうと思っていたら、起きたやつは目を擦ってから僕を見て「なあ」と言った。
「なんか用？」
話し掛けられたことに僕はびっくりする。
「は？ 別に」
やつはやや首を
「え、でも、ずっと見てたろ？」
「見てない。てか、そっちが見てきたからだ」
そうだっけ？とやつは間の抜けた声を出す。
僕は確かに少しぐらい話せる人間が欲しかったけれど、でも変なやつに絡まれたいわけではない。警戒しながらやつの出方を窺う。
「まぁいいか」
やつは勝手に納得して首をすくめた。それで終わりかと思いきや、頬杖をつき直して改めて僕の方を見る。
「名前は？」
「は？」
やつの発言に脈絡がなさすぎて、僕の口からは怪訝な声が出る。やつはそれを気にした風もなく、飄々と言った。
「名前だよ。まだ名前を聞いてない」
そりゃそうだろう。ここでは自己紹介なんて
というわけで、僕はまだ同期の名前を一つも知らない。僕の名前を知っている同期も一人もいない。
「せめて授業ぐらい、名前で呼んでくれりゃあいいのにな」
そう言って苦笑しているが、でもこいつはどうせ寝てて聞かないんじゃないだろうか。
「ってわけで。ほら、お前の名前」
僕の名前。思えばこっちへ来てからずっと皇女様にしか呼ばれていない。あの人はなぜか人のことを名前で呼ぶ。
「アオイ。アオイ・カゼ」
「ふうん。アオイ・カゼか」
勝手に人の名前を舌の上で転がしやがる。なんなんだよと思う一方で、こいつの名前も聞いておいた方がいいだろうとも思う。うん、たぶん、聞くべきだ。こいつがさらっと聞いてきたように、僕もさらっと聞けばいい。「お前は？」みたいな感じでいけるはずだ。
僕が最良のタイミングを見計らって声を出そうとした、それよりほんの一呼吸だけ早く。やつが「あっ」とか声を上げたせいで、僕は開きかけた口のまま固まった。
「そうか。カゼ。お前か」
そうして教室中に響き渡る声で言いやがった。
「お前が“英雄の孫”か」
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