第13話 アマビエ女の胸の内
クラスターが大阪のライブハウスで起こった。そのニュースはライブハウス関係者やパフォーマーを震撼させるには十分過ぎた。政府によるイベントの自粛要請である二週間が明けてからが本当の自粛の始まりのようになった。二週間の間に何とかひっそりと運営していたライブハウスも軒並みシーンと静まり返り、誰もいないライブ会場で一人、支配人が項垂れる姿があった――。
どこのライブハウスも運営する方針は無いことを全てのパフォーマーが受け入れていた。もうこうなった以上、静かにコロナウイルスという見えない敵が消えていくのを待つしかなかった。
うん、うん、とスマホを耳に当ててれいにーが頷いている。その顔は物憂げだった。もこもことした部屋着でベッドに腰かけた彼女に朝の日差しが当たる。独りで住むにはあまりにも広いマンションの一室、彼女は通話を終えるとそっと腕を下ろした。
「……。」
小さな息遣いに声をかける者はいない。嘆息してベッドの下に置かれたスリッパを裸足のまま身に着けると部屋をそっと出た。
「そういえばれいにーの親って海外に今いるんでしょ。」
口を膨らませながらひかりんがふと声を出した。ライブハウスが使えない以上ネット配信に切り替えるしかなくなり、三人は結局れいにーのマンションで集まり、撮影を行っていた。練習や打ち合わせも彼女のマンションなので、寝る時以外はほとんど入り浸り状態であった。
ひかりんはすっかり我が物顔でどこかに置いてあったらしいバランスボールに座って遊んでいる。片手には朝食代わりのつもりなのか複数のちんすこう。
れいにーは、少し間を空けて笑った。
「……はいっ。」
その日も配信をこなし、三人はハイタッチした。どうも視聴者の中では三人が同居していることになっていたらしく、配信中、早苗は否定しかけたが、ひかりんが素早く「三人で仲良く住んでいてーっ。」なんて笑って前に出ていた。
「でも、なんで一緒に住んでいることにしたの。」
配信後は喉が渇く。三人で水を飲みながら、早苗はひかりんに尋ねた。ひかりんは得意げに口角を上げた。
「そんなの、ファンに夢見させるために決まっているでしょ。特にさなたんは過去に淫乱疑惑でっちあげられているんだから、女同士仲良く住んでいますってアピールした方が良いじゃない。」
「でも、もし嘘だってバレたら、」
次こそきっとただの炎上で済まない。大ウソつき。しかも今回はひかりんが嘘をついたことになるから嘘つきグループと背中に指差されるかもしれない。
さなたんは俯くが、れいにーは目を輝かせて、両手を胸の前で合わせてパンッと叩いた。
「それなら、今から本当のことにしちゃいましょうっ。」
寝るためだけに帰っていたわけですし非効率でしたし、とれいにーははしゃぎ始めた。けれど、さなたんもひかりんも困ったように視線をそらす。
「うちは両親が出掛けるのは良いけどきちんと帰って来いって、」
許可降りるかどうか、とひかりんがぼやいた。一方の早苗は表面的にはれいにーの家に泊まらない理由が無い。まさか早苗に本物のアマビエが憑りついていて、夢見は悪く、朝呻きながら起きる、なんて言えるはずも無く。
「……でもご両親が帰ってくることとか、」
当たり障りの無い言い訳を考えながられいにー側の事情を探ってみる。
「無いです。」
やけにキッパリとした口調が早苗を焦らせる。もっとも、最近はあのやけに現実味のある悪夢を見る夜は減ってきているのだが。
「でも、迷惑じゃない。」
「独りで寂しかったので有り難いですっ。」
「ねねね寝相悪くて、」
「私、ちょっとやそっとのことで起きませんし気にしないで大丈夫ですよっ。というか一度泊まったじゃないですかーっ。」
「でもほら、服とか荷物置いておく場所取ったら申し訳無いなーって。」
だいぶ広いマンションで一体早苗の少ない荷物がどれだけの幅を取ると言うのか。あまりにも説得力の欠ける理由ではあったものの、ようやくそこでれいにーが口を止める。意外にも刺さったのだろうか。ひかりんには怪しそうに眉を顰めているが。
ちらりと早苗がれいにーの顔を覗き見ると、彼女はしょんぼりと俯き、潤んだ瞳で小さく呟いた。
「もしかして、嫌、ですか……。」
「あ、ううんっ、私がいびきかいてれいにー起こしちゃったらどうしようとか思っただけでっ。迷惑かけたら嫌だなーってっ。でも歓迎してくれるみたいだから荷物今日にでもまとめておくねっ。」
早口で早苗はいつの間にか受け入れていた。れいにーは嬉しそうに笑い、ひかりんは相変わらず怪訝そうに早苗を見つめていた。
結局、今日中に荷物をまとめて、次の日かられいにーの家に泊まることとなった。帰り道、早苗はひかりんと別れると、浮かない顔をしてゆっくりと道を歩く。マスクマンは以前から常に黒いマスクを常備していたが、今や誰もがマスクマン状態。中にはマスクを着けていない人もいるが、多くの人はマスクを身に着け、息苦しそう。そんなことを考えている早苗自身も量販品の使い捨てマスクを身に着けている。
――自身の足が動かなくなる夢。場所はぐるぐると移動していくものの、あまりにも退屈で無味無臭で息苦しくて、それでいて現実感が謎にある世界。アマビエが見せてくる仮想空間。アマビエが憑りつくのをやめない限りこの悪夢から解放されることはない。
マスクの中で息を吐くと、息で微かにマスクが膨らむ。この膨らんだマスクの中でばっちりメイクを施している女性はどれだけいるのだろうか。ファンデーションの粉はマスクの内側にもこびりつく上に、マスクをしていれば素顔を人に見られる恐れも無い。案外、マスク社会になってメイク嫌いな女性はすっぴんでいられると喜んでいたりして。
電車に乗って、鶯谷の駅に辿り着く。鶯谷駅はいつも静かだ。いや、人は東京らしく、大勢行き交い、歩道橋の下では大きな音を立てて何本もの電車が動いている。けれど、どこか粛々としている。静かで暗い夜の街。沈んだ空気の中で、溶け込むようにしてその姿はあった。橋の手すりにもたれかかり、一人の男性が誰にも振り向かれる事無く、放心している。どこか遠い世界を眺めている様子は鶯谷に似つかわしいもので、下手したら気付かないで通り過ぎていたかもしれない。けれど、どこか見覚えのあるシルエットに早苗は既視感を覚えた後、立ち止まった。それがその人であるという確信も無ければ、そうであったとして声をかけていいものか逡巡した末に、早苗は小さく呼びかけた。
「あのー……、もしかして、ライブハウスのオーナーさんですか。」
中年男性が力無く振り向く。それは確かにいつか打ち合わせをしたライブハウスのオーナーだった。
流石に男性を独り暮らしの部屋にあげるわけにいかないので、早苗は駅前の適当なカフェに彼を誘導する。早苗より二回りほど年上の男が素直についてくる。
カフェに行くまでに男性は早苗の現状について詳しく訪ねてきた。早苗は今三人で活動していることやミュージックビデオを作成したことなどを説明する。彼はその話をどこか嬉しそうに聞いていた。
店内はもう時間も遅いこともあって人があまりいなかった。コロナ自粛で余計な外出をしている人が減っているからかもしれない。
二人してテーブル席に座り、メニューを注文する。
「……で、ライブハウス、大丈夫ですか。」
早苗でも薄々察していたこと。関西のライブハウスが感染源となったことで全国のライブハウスが営業の自粛を余儀なくされた。それは、ライブハウスというものが存在しながら収入源が断たれたということにも繋がる。アイドル同様、ライブハウスもお金というエネルギーが無くなればいずれ生存問題となってくる。
「このままコロナが終わらなければ取り壊しだろうね。」
「……そうですよね。」
どう返せば良いのか分からない。男は、ふぅ、と息を吐きながら窓の外を眺めていた。
「コロナ、早く終わればいいんですけどね。」
「終わらないかもしれない。……離婚してまでオーナーになったのになぁ。」
離婚、の言葉が重く響いた。え、と小さく声をあげると彼は苦笑いして首を横に振る。
「昔の話。それより、どうにかライブできるようにならないかなぁ。」
「観客を入れられなければ、意味が無いですもんね……。」
相槌を打ちながらいつか彼から聞いた言葉を早苗は思い出していた。
――『片付いていなくて申し訳無い。何せ家事をする妻もいないのでね。』
あの言葉は自嘲だったのだろうか。妻と別れる結果になった自分に対する。
昔の話だと言い捨てられた以上、話を深堀りすることはできなかった。けれど、同じ言葉が今や記憶の中で哀愁を帯びているように思われた。
妻がいなくなって得たライブハウス。そのライブハウスもまた無くなろうとしている。
二人のテーブルに店員がコーヒーを運んでくる。白いオーソドックスなティーカップ。客がいることで意味を為す何気無い日常。きっとこのティーカップも出番が減っているに違いない。人々は段々とオンラインの世界で息するようになっている。
「あの、」
不意に早苗の脳裏にアイデアが浮かんだ。
次の日の朝、荷物をまとめてれいにーの部屋に運び終えた早苗はタオルで汗を拭う。無くしたと思っていたタオルはなぜかキッチンの棚の中に無造作に放り込まれていた。見つけた時は記憶を遡ったものの、パッと浮かぶ景色も無く、荷物を短時間で片付けてまとめる必要もあったので、どうしてそんな所に放り込まれていたかは分からず仕舞いだった。けれどこうして汗拭きタオルとして再び活躍しているからまぁ良しとする。
「お疲れ様です。」
れいにーがパタパタとスリッパが床を叩く音をたてて早苗に近付いた。その手には麦茶が握られている。季節としてはまだまだ春だが、荷物を運んでいると季節に関係無く蒸し暑い。
渡されたコップを手に取り、有り難く口づけることにする。ひんやりとしたオレンジ色の液体が口から喉へと潤いを与えていく。
「それにしても驚きましたよーっ。」
れいにーは嬉しそうにはしゃぐ。
三人のファン限定でライブを行うこと。ただし、ライブハウスにファンが入るのではなく、ライブハウスの舞台上でパフォーマンスしている三人を配信するという形だ。だからファンは家の中からライブを観ることができる。臨場感が無いであろう分、入場料は格安。これまでのライブ配信で投げ銭を2000円以上出している人達にライブ映像を届けるという形となる。
この提案をした時、オーナーは目を丸くしていた。客が入る前提のライブハウスが客を入れずとも運営できるかもしれない。その可能性に賭けることに彼はすぐさま同意した。当たり前だが、ライブハウスの利用客は現在おらず、好きな時にライブを行って良いこととなった。ひかりんとれいにーにはその場ですぐに連絡した。彼女らは二つ返事で了承した。
「また三人で舞台に立てるなんて嬉しいですっ。」
早苗が中身を飲み干し、空っぽとなったコップを台所に置いてれいにーは振り向く。彼女は桃色のエプロンを身に着けていた。可愛い。
ひかりんは今日は午後から来るとのこと。彼女もオンラインライブ開催計画に大喜びしていた。
いつもの三人のライブ配信でもこのことは発表された。途端、投げ銭で2000円ピッタリを出す人達が出てきて早苗は笑いそうになった。ひかりんは上機嫌で愛想を振りまき、れいにーもその場で早苗に抱き着いて押し倒したりして全身で喜びを表現していた。
「皆、嬉しそうでしたね。」
配信も終わり、れいにーがごろんと絨毯の上に寝転がる。同じようにしてひかりんも横になった。配信用の小さなテーブルの上には今日の役目を終えて静かに眠る黒い画面のノートパソコン。
「娯楽に飢えているのよ。ずっと家だから。」
ひかりんが苦笑いする。ひかりんも大学の卒業式が無くなってしまったらしい。大学の授業も暫く行われない事となった。学生は皆やることを失って自宅で意味も無くスマホを眺めている。いつまでこの状態が続くのか。
その日は三人共、オンラインライブに向けて、テーマや衣装、曲構成などについて話して終わった。ひかりんはやはり両親から長期の泊りは許可が下りず、一人で帰ることになった。
けれど、帰宅する時間になってもひかりんは何か言いたそうな顔をして出て行こうとしない。
「どうしたの。」
早苗が訊いても、別に、と返すだけ。困ったようにれいにーと顔を見合わせる。しばしの沈黙の末に、れいにーがひかりんに正面から思いっ切り抱き着いた。
「ひかりんの寂しがり屋ーっ。」
「そうじゃないっ。」
急にひかりんの語気が荒くなる。彼女は抱き着いてきたれいにーを引き剥がした。早苗とれいにーが呆気に取られていると、ひかりんは俯き声を絞り出す。
「二人共、何を隠しているのよ……っ。」
彼女は大粒の涙を瞳に浮かべていた。
ひかりんの涙にれいにーがおろおろし始める。早苗もどうすれば良いか分からず、俯く。何を隠しているか。そんなもの、アマビエが自身に憑りついていることしか思いつかないし、恐らくそうなのであろう。けれど、それを言ったところで何の意味があるのだろう。そもそも信じてもらえるはずも無い。
れいにーに視線をやる。ひかりんは『二人共』と言った。つまりれいにーも何かを隠している可能性がある。けれどれいにーも早苗同様、口を開きかねているようだった。案外、同じようなことで悩んでいたりするのだろうか。
口を閉ざす二人にひかりんは涙を頬に伝わらせながら、唇を軽く噛んで笑みを作った。
「あぁ、そう。隠し通す気なの。」
精いっぱいの抵抗を含んだ声。思わず早苗は、違う、と小さく声を出したが、その声でさらにひかりんの怒りはヒートアップしたかのようだった。
「何が違うのよ……っ。二人共おかしいわよっ。さなたんは元々影があるような感じがしていたけど、れいにーもこのところおかしいし、そのくせ全然二人共普通なふりしているしっ。」
怒りを口にほとぼらせながら、ひかりんは二人に背を向ける。
「帰る。」
待って、とは言えなかった。ひかりんはドアノブに手をかけてぼそりと吐いた。
「――あんた達なんて、大っ嫌いなんだから。」
ひかりんがドアの向こうへと消えていく。その背中を引き留めることはできなかった。数秒程の間があって、れいにーが小さく声を出した。
「……ひかりん、明日来るんでしょうか。」
明日来るのか。口を割らなかった早苗とれいにーに痺れを切らして怒りをぶつけ帰ってしまったひかりん。秘密を吐け、と彼女は感情のままに騒いだ。
「人には、放っておいてほしいことだってあるのにね。」
堪らず早苗は非難めいたことを吐き、慌ててハッとする。けれど、れいにーはどこか上の空で早苗の言葉をきちんと受け止めているようには思えなかった。そこで早苗はようやくれいにーの不穏な空気に気付いた。どうして今の今まで気づかなかったのだろうか。
「ねぇ、れいにー、一体……。」
一体、と言いかけたところで、彼女のか弱い背中が丸まって、嗚咽を漏らしていた。
れいにーの両親は海外にいるからマンションには暫くれいにーの独りぼっち。だから好きなことをし放題だし、早苗を泊めることだって自由。逆に言うと、両親がなかなか帰って来ないということ。そしていざ帰ろうと思ってもコロナで日本に帰られない状態に陥っていたらしい。
けれど最近になって海外に渡航していた人達が飛行機に乗って帰ってきていることが連日報道されている。が、当然飛行機という密室空間内ではコロナウイルス患者が一人混じるだけであっという間に広がってしまう恐れもあるわけで。
「本当は、日本に帰って来ていたんです。でも、航空機内にコロナウイルス患者がいたとかでホテルに軟禁状態らしくて。」
いつ帰られるか、コロナウイルスにかかっていないのか。説明している間に既に泣き止んでいたれいにーは不安げな表情で窓の外を見つめていた。小柄な彼女にこのマンションの部屋は大き過ぎる。もういい年齢なのかもしれないが、寂しさ、不安なんてものは成長と共に鈍感になるものではない。早苗に暫く泊まりに来るよう強く言ったのも胸の中のぽっかり空いた穴に蓋をするため。
「本当は、聴いてほしかったのかもしれません……。」
ぽつり、とれいにーは言葉を漏らした。辛い、悲しい。その思いを聴いてほしくて、でも折角異変に気付いて汲んでくれたひかりんに話せなかった。それはまるで話したいけど話す相手ではない、と突き放しているようで。
ひかりんの激高した様子と潤んだ瞳が脳裏によぎる。彼女はどんな気持ちでいたのか。時折苦しそうにしているのに、話したそうにしているのに、自分の前では口を噤むれいにーと早苗。二人の姿は彼女の目にどう映っていたのだろうか。
「わ、私っ、ひかりんに謝らなきゃ……っ。」
不意に慌て始めたれいにーの身体を早苗はぎゅっと抱きしめた。ふぇ、と小さく不思議そうな声を出した彼女の頭を優しく撫でる。
れいにーと早苗はひかりんに謝らなきゃいけない。言っても無駄とか、無意味とか、そんな冷たい言葉で片付けちゃいけなかった。だって、私達は今や三人で一つだ。聞かせたくないことなら黙っていても良かった。でも、本音は、積もりに積もった黒い感情の渦をどこかで吐き出したかった。あそこで吐き出すべきであったし、ひかりんにはきちんと謝らなければいけない。――でも、今は、
「ひかりんに謝ることを考える前に、もう少し、休んで良いんだよ。」
早苗は優しく笑う。途端、れいにーは泣きながら早苗にしがみついていた。
早苗もれいにーの前で全部吐いてしまおうかと考えていた。自分が本当にアマビエとかいう妖怪に憑りつかれていたこと。そのせいで一時期は毎晩のように身体が硬直状態に陥る悪夢を見ていたこと。最近は少しその夢も、アマビエの声が聴こえる頻度も減ってきていること。散々ネットで誹謗中傷されたのにも関わらずファーストライブの舞台に立っていた理由――。
けれど、彼女は口をもう少し閉ざすことにした。れいにーに言いたくなかったからじゃない。
オンラインライブ開催まで数日。どの曲を使うか、ざっくりした流れは既に決まっている。
泣き止み、落ち着いたれいにーがシャワーを浴びている間、早苗はぼーっと窓の外を眺めていた。ひかりんはもうとっくに駅に着いた頃だろう。最近急に冬のように冷え込むようになって、二日前には雪まで降っていた。今日は外気との気温差で曇りガラス。指でなぞれば細かな水滴の間に線ができる。明日からは4月だけれど、とても春を迎えられるような気候じゃない。雨も時々降っていたが、ひかりんは不安定な曇り空の下で泣き腫らした目のままきっと独りで歩いている。
彼女は本来だったら今頃袴姿で卒業証書の入った黒い筒を抱えて幸せそうに笑って涙を浮かべていたに違いない。ウイルスという目に見えない存在のせいで日常が反転してギスギスと歪な音を立てている。けれどそれは誰もがそういう状態なのだ。だから、我儘は言えない。言えないから、抱え込まざるを得ない。本当はひかりんだって事実こそ伝えているもののそのどうにもならない嘆きを押し殺していたはずで。
「……あ。」
小さく声をあげる。ドアの先で彼女の幻影が怒り、涙を浮かべている。本当に甘えたかったのは、気付いてもらいたかったのは誰よりも――。
大学からのプリントが散らばった部屋。プリントの上には直接置かれている教科書。卒業までに学んだことのどれだけを身に着けたかなんて問われても分からない。それでも、卒業式で学生を終える儀式くらいして心の整理をつけることくらい望んではいけないのだろうか。綺麗な紅の袴を履いて、黒い筒を脇に抱えて。
ぼーっとしながらひかりんは自室の床に体育座りしていた。俯き気味だった顔をほんの少し上げると皮肉気な笑みを浮かべる。
多分ストレスが溜まっていたのだ。膨らんだ風船は針でつつかれると簡単に破裂する。それは人間関係をいとも容易くぶち壊すような大袈裟な音を立てて。中に詰まっているのはただの無意味な空気で包んでいる存在も薄いゴムなだけだというのに。
自嘲したところでやっぱり無意味で、生産性も無い。彼女らに嫌い、などと啖呵を切ってれいにーの部屋を飛び出した過去も変えられないし、そんなぐずぐずの状態で明日また平静を装って3人で配信できるのだろうか。
――考えてもくだらない。私はアイドルとして売れる、と踏んだからあの二人と一緒にいるのだ。だから就職も1年先延ばしにすることにした。3人なら売れると信じて。それ以外に一緒にいる必要なんて無いし、単独の方が売れると気付いたらすぐに離れるだろう。……そう、一緒にいなきゃ売れないから一緒にいるだけだ、と思っているのに、気付いたら感情をぶつけていた。
華やかなライトが自分達の舞台を照らしている。隣で幸せそうにさなたんが笑っている。自分の少し前では得意げにれいにーがジャンプしている。そんな光景が目に焼き付いて離れなくて。
じわり、とひかりんの目に涙が浮かぶ。膝と膝の間に顔をうずめ、目を閉じたのに網膜に浮かぶその光景は消えるどころか滲むことも無かった。
次の日、ひかりんは昨晩のことなんて無かったかのように笑顔でれいにーのマンションに訪れていた。早苗とれいにーは面食らったように迎え入れた。怖いくらいいつも通りの様子のひかりんが手を洗いに行った隙に、早苗はれいにーに囁く。
「何があったんだろ。」
「さぁ……。」
今朝までのひかりんのSNSも特に異変を発しているように思えなかった。まるで昨日の記憶がそっくりそのまま抜け落ちているかのような振る舞いはどこか冷酷にさえ思えた。
撮影も普段通りに行われ、じゃれ合う姿も当然のように視聴者に見せていった。生ライブ配信の告知もきちんと行ったし、リクエストに答えて簡単に三人で声を合わせて歌った。
撮影も終わり、一息ついたところで早苗は思い切って訊き出すことにした。なるべく平穏であるよう装い、笑顔でひかりんに声をかける。
「ねぇ、昨日のことなんだけどね、」
カーペットの上で腰をおろしていた彼女が顔だけこちらに向けた。その顔はどこか空虚だった。
「きちんと話し合っておこうと思うの。」
「要らない。」
短い言葉が銃弾のように彼女の口から放たれていた。ひかりんは感情を荒げている様子も無く、ただ淡々とした口調で言葉を続けていた。
「私はアイドルでプロとして輝く。だから、あんた達がどうとか関係無い。」
突き放された。それ以外の何物でもない。ひかりんはにこりと笑うとひらひらと手を振った。
「これからもよろしく。」
声のトーンは明るいのにどこか冷え冷えとした空気さえ漂わせて彼女は今日も早苗達に背を向ける。
三人の関係性がどうであれ、ライブハウスでの生配信までの日々は容赦無く同じスピードで迫ってきた。たとえ胸の内がどうであろうと、仲良しで、息の合ったコンビネーションを演出する必要がある。アイドルは舞台で笑えば良いだけじゃない。SNSを活用している以上、役者にもならなければいけない。生ライブ配信に向けて三人はまるで何もかもが以前通りのように演じきる。
――そうこうしているうちにライブ当日。三人は衣装に身を包んで観客席に立ち尽くしていた。観客席と言っても、パイプ椅子は並べられていないし、他に客はいない。スタッフは照明や音響を調整して慌ただしい。本来なら舞台袖にいなければいけないけれど、客がいない以上、その必要も無い。時間になれば撮影と配信を同時に開始するので、それまでは待機するだけだ。
「で、ここでクイックターンで、」
がらんとした観客席でひかりんがステップを復習している。もう十分過ぎる程練習はしているはずなのだが、それでも再度確認。普段の緩い雰囲気のある配信と違って、きちんと着飾り、パフォーマンスをする配信だ。ミスは許されない。
不意に以前のライブの始まる前、舞台袖で顔を見合わせて笑い合う光景が目に映った。ひかりんとれいにーに視線をやる。けれど二人共ライブの動きの最終確認をしているようで微妙に距離が空いていた。それはほんの少しの距離。手を伸ばして届かない程度の。
準備が終わる。後は配信時間を待つだけ。舞台は三人のためだけに装飾された状態。
久々のライブだからか、どこか緊迫した雰囲気に包まれる。ほんの一ヶ月ライブをやらなかっただけだけど、その一ヶ月が重くのしかかる。
「あのね、言いたい事があるの。」
舞台の上で早苗達は一つの花のようなポーズを撮っている。残り30秒、というスタッフの声がする。
二人は身体を揺らす事も口を動かすこともしない。残り20秒。
「このライブ、成功させようね。」
「何を今更言っているの。」
ひかりんが苦笑いを漏らした。けれど、どこか真剣みを帯びた早苗の声にキュッと顔を引き締める。残り10秒。
「私はひかりんのことも、アマビエ女も大好きです。」
れいにーの声。3、2、1……。
舞台中央に強烈なライトが差し込む。大きな音がライブハウスを揺らし、三人は花びらのように舞い始める。
お疲れ様でした、と皆で声を合わせた。生配信ライブではダンスから三人のちょっとした小芝居までを二時間にギュッと詰め込んだ。ライブでは投げ銭も結構あったらしく、黒字とはいかないだろうが、ライブハウスの人達に日給を払える程度には稼ぐことができた。
またライブを行う約束を取り付けて、三人はライブハウスを後にした。そのまま電車で帰ろうとしたひかりんに早苗は手を伸ばし、彼女の服を掴んだ。
「待ってっ。」
ライブで全力を尽くしたからか、ひかりんは拒絶して去るような仕草を見せなかった。いや、早苗とれいにーの二人は腹を括っていたし、ひかりんも意地を張るのに疲れてしまったのかもしれない。彼女のどんよりとした瞳に向かって早苗は呼びかけた。
「ちょっと、着いてきてほしい所があるの。」
とりあえず、汗もかいているし、と、れいにーの家でシャワーを浴びるよう促した。時刻はまだ19時。ひかりんの家の門限の21時まで今から準備すればぎりぎり間に合うはずだ。
一瞬迷った末に頷いた彼女に早苗はほっとした。
れいにーと早苗がシャワーを手早く浴びた後、ひかりんがシャワーを浴びている。ひかりんのシャワーを浴びる速さがそこまで遅くない。その間に早苗とれいにーはひかりんの脱いだ服を回収し、着物生地のものを床に置いておく。早苗がスマホを確認すると、スマホには「準備完了」とマスクマンからのコメントが来ている。確認し、お礼のコメントを送ったところで脱衣所の方から困ったようなひかりんの声がした。
「え、あれ、私の服どこっ。」
早苗とれいにーは顔を見合わせて意地の悪い笑みを互いに浮かべた。上気した身体をバスタオルに包んだひかりんが脱衣所から恐る恐る顔を覗かせる。二人はすぐにその姿を捕まえてガシッと拘束した。ほとんど裸なので全力で逃げることもできず、混乱のまま、ちょっと、何、と声をあげるひかりんの両眼を塞ぎながら れいにーが笑う。
「服はー、ミッションクリアまで返しませんっ。」
抵抗していても無駄だと気付いたらしいひかりんが大人しく、黒い目隠しをつけられて、なすがままになっていた。両手を広げて、と言われたら広げるし、これを持つように、と言われたら大人しく持っている。
どうやら着物らしきものを着せられているらしい、と気付いた彼女は慌てたように口走った。
「まだライブあったの。」
「そんな感じかな。」
早苗はふふふ、と笑うとれいにーと協力して着つけていく。二人共、着付けなんて今までやったことがなかったが、ひかりんが帰った後で二人して夜な夜な練習して何とか人様に見せられるくらいにはできるようになった。とは言え、まだまだ慣れないわけで。
「あれ、これどうするんだっけ……。」
ピタッと二人の手が止まる。と、ひかりんが溜め息混じりに口を開いた。
「目隠し解いてもらえれば自分でやるわよ。」
早苗とれいにーは顔を見合わせ、目隠しを解いた。目隠しを解かれたひかりんは自身の姿を見下ろし呟いた。
「袴……。」
自身の上半身には白地に金色ベースの刺繍が施された着物が着せられており、黄色の帯が途中まで結ばれている。床には紅色の袴が置かれていた。
三人は目的地までタクシーで揺れていた。袴姿のひかりんが後ろの座席で不服そうに呟く。
「何これ、卒業式のつもり。」
これじゃただのコスプレして出歩くようなものじゃない、と不満を続ける。コロナ対策で窓も全開で、折角セットした彼女の髪も夜風で崩れてしまいそう。
タクシーの助手席に座った早苗は振り返り、まぁまぁ、と宥める。早苗も髪を綺麗に結っていたが、時間短縮のため、カジュアルなドレスを着ている。何重にもレースが重なり透け感のあるライトグリーン。ひかりんの腕をがっしりと掴んでいるれいにーは上品な紫色のドレスでビーズのようなものが散らばり、街灯の光が当たるたびきらきらと輝いていた。
タクシーが辿り着いた場所は新木場公園。運転手に頭を下げてタクシーを降りる。もう空は黒色で星がところどころ白く見えるのみ。コロナで外出自粛しているからか多目的広場を歩いている人もまばら。隣り合うバーベキューエリアには複数の団体客がいたけれども。
こっちです、とれいにーがひかりんの手を引っ張った。もう片方のひかりんの手を早苗も握り歩く。ひかりんは既に抵抗もする気が起きないらしく、不貞腐れたような顔で草履の足を動かしていた。が、ある所まで辿り着くと、その足をピタリと止めた。
彼女が頭を上げた先には満開の桜がライトアップされていた。夜風で花弁がひらひらと舞い、三人を包み込む。
「うわぁ……っ。」
ひかりんは思わず感嘆の声を漏らしていた。早苗とれいにーがひかりんの手を離すと、ひかりんは一際咲き乱れている木々の間に駆け寄ると、くるりと一回転して笑った。袖が鮮やかにひらりと踊る。
マスクマン達4人に頼んで新木場公園の一部を早苗達が来た瞬間にライトアップするように手配していた。いきなり桜がライトアップされたことに気づいたらしいバーベキュー客達がこちらを見たり、近付いてきている。
「少し歩こう。」
早苗が声をかけると、ひかりんの瞳が揺れる。彼女の瞳はライトの光を反射して眩しいくらいに輝いていた。視線も桜の木に釘付け状態。
「行きますよっ。」
けれど、れいにーの差し出した手をひかりんは掴み、三人は川沿いへと歩き出した。
人がいないところまで辿り着く。隣には真っ黒な川。三人が初めて出会った日の夜と同じように空には星が瞬いている。
早苗は二人の前に出ると二人に向き合った。
「これは卒業式であり入学式。」
何それ、と小さくひかりんの口が動く。
「今まで大学のアイドルとしての活動をしてきたひかりんの卒業を祝うんですっ。」
「そして、アマビエ女としての三人の入学式というか出陣式というか。」
意味が分からなさそうに彼女は首を傾げた。早苗はふっと柔らかく笑う。
「三人一緒になってからそのまま走り続けちゃって、自己紹介もちゃんとしていなかったなーって。」
「……自己紹介。」
早苗の言葉をひかりんは繰り返した。れいにーはタタタッと川辺に走ると振り返り、大きな声で二人に呼びかけた。
「コイズミレイカっ。麗しい、に、華やかの華で、麗華ですっ。芸能名はれいにー、好きな物はアイドルとカメラで、最近隠していたことがあります。」
一瞬、れいにー、麗華は俯き、ぽつぽつと自分の両親の現状を話し始めた。
麗華が話し終えた時、ひかりんは若干気まずそうに視線をそらしながら口を開いた。
「……悪かったわね。」
その言葉には棘が無く、どこか戸惑いと申し訳なさが滲んでいるようだった。
「違うんですっ。」
麗華は横に首を振り、微笑んだ。
「気付いてくれて嬉しかったんです。でも、二人を困らせたらどうしようって、言いたいのに言えなくて。だから、相談できて、それだけで嬉しいんです。」
嫌味の無い、透き通った笑み。夜の川辺が背後で波打ち、きらりと光る。その一瞬の美しさを早苗は画像で留めておきたかった。スマホで撮影したら人気出るんじゃないか。そんな考えがすぐに横切るようになった自分の頭に苦笑しながら同じようにして口を開いた。
「月波早苗。早い、に、苗、ね。芸能名はさなたん。岩手出身で元々祖母と二人暮らし。東京で活動できるのは祖母が許してくれた、6月10日まで。30歳の誕生日。」
えっ、と驚く二人の声が重なった。そう、活動期限さえ二人には伝えていなかった。
「でももっと他に黙っていたことがある。」
不意に心臓が早鐘を打ち始める。二人の視線が早苗にぶつかる。早苗は震える喉から音を絞り出した。
「――私は、アマビエに憑りつかれている。」
はぁっとひかりんが素っ頓狂な声をあげた。麗華も理解が追いつかないかのような表情で立ち尽くしている。遠くでバーベキュー客の声が聴こえる中、早苗は焦って説明をし始めた。
「いや、ね、なんか、全然人生うまくいかなくて崖の上でほらよくあるでしょ、バカヤローって、あれやったら海に落ちちゃって、というか、波にさらわれちゃって、で、アマビエに助けられたのは良いけどなんか着いてきちゃって、たまに声は聞こえるし、アマビエの予知夢みたいなのを見るようになって、あ、でも、最近その頻度は減って、って、え、ちょっとっ。」
ひかりんも麗華も早苗を無視するようにして途中でスタスタと桜並木の方へ歩き出していた。慌てて追い駆ける早苗に対し、ひかりんは振り返りながら淡々と言う。
「要はアイドルで売れればいいんでしょ。」
「あ、うん、まぁ。」
確かにそういうことである。思わず言葉を詰まらせた早苗から顔を背け、ひかりんがぼそりと呟いた。
「何よ、病気か何かかと思ってずっと心配していたのよ……。」
へ、と間抜けな声を早苗があげる。ちらりと見えたひかりんの頬は紅潮していた。麗華も苦笑いを浮かべている。
「信じてくれるの。」
「頭の病気かもしれないけど、そうは思えないし、突然ウイルスが日常を変えちゃった今だもの。奇跡の一つや二つ起きても変じゃないでしょ。」
桜並木が近づいてくる。ひかりんがぴたりと足を止めた。ライトアップされた桜並木を背中にして袴の裾を揺らしながら彼女は綺麗に笑う。
「最後は私ね……。しんどうひかり。清らかな藤の光、ね。名前に似合う明るい女の子になりたくてアイドル活動を始めた。」
彼女は確かに輝いていた。でもきっとこの程度で妥協するようなアイドルではないことも同時に分かっていた。強い願いを瞳に宿して彼女は艶やかな唇を開く。
「――おあいこってことで私も秘密、一つだけ教えてあげる。」
光は潤んだ瞳で、けれど晴れ晴れとした表情で笑った。
「私、さなたんもれいにーも、大好きなんだからねっ。」
アマビエ女はSNSで自撮りを晒す 夏目有紗 @natsume_novel
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