第58話『後輩と自分』
――元気になれるきっかけを与えてくれたのは……大輝先輩なんですよ。
柔らかい笑顔になり、優しい声で杏奈はそう言ってくれる。その理由に心当たりがあった。
「……そういうことか」
初めて杏奈に接客したのは、バイトに慣れ始めてきたゴールデンウィーク明けの頃だった。そのときの杏奈は寂しげな笑みを浮かべて、
『……アイスコーヒーSサイズを1つ。シロップもミルクもいらないです。ブラックでいいです』
と頼んでいた。今でも鮮明に覚えている。
「初めて接客したときに元気がなかったのは、浮須さんが志気さんに浮気したのが分かって、2人との縁を切ったからだったんだな」
俺がそう言うと、杏奈は俺の目を見てしっかりと首肯した。
「そうです」
「やっぱり。今になって、あのとき元気がなかった理由が分かったよ」
「当時のことを覚えていてくれて嬉しいです。マスバーガーは小さいときから行っていて、陽菜ちゃんや葵ちゃんとも行ったことがありました。その日、1人で南口を何となく散歩していたら、マスバーガーの入り口から一生懸命に接客している大輝先輩の姿が見えて。喉が渇いたので、飲み物を買うためにお店に入ったんです」
「なるほどね。それで、ダイちゃんが杏奈ちゃんに初めて接客することになったと」
「そうです。頼んだのはアイスコーヒーだったと思います。きっと、相当元気がなかったんでしょうね。コーヒーを渡してくれるとき、優しい笑顔を見せながらあたしに『きっと、このコーヒーを飲めば、少しは元気が出たり、リフレッシュできたりしますよ』って言ってくれたんです。その言葉が体の中にすっと入ってきて。気持ちが軽くなったんです。あのときは本当にありがとうございました」
杏奈は優しい笑顔でお礼を言ってくれた。
元気がなかったから、アイスコーヒーを渡すときに何か言葉を掛けたのは覚えていたけど、そんな言葉だったのか。それが傷心の杏奈を元気にするきっかけになった。元気のない当時の杏奈に接客したのもあって、とても嬉しい気持ちになる。
「杏奈の力になれたようで良かったよ」
「……そのことがあってから、友達と一緒におしゃべりしたり、美術部で絵を描いたり。また楽しい中学生活を送れるようになりました。それまでとは違って、マスバーガーへ定期的に通うようにもなりました。1人で行くときもあれば、友達と一緒に行くときもありました。大輝先輩は恩人ですから、なるべく先輩がバイトをしているときに行くようにしました」
「……今の杏奈ちゃんの話を聞くと、ダイちゃんが凄い人に思えてきたよ!」
俺に尊敬の眼差しを向けるサクラ。
俺がバイトをしているときを狙って来てくれていたとは。可愛い女の子だ。思い返せば、最初に接客したとき以外、杏奈はいつも楽しそうにしていた。友達と一緒に来たときはカウンターでも、客席でも楽しく話していて。
「そういう事情があって、この前……バイトの様子を見に行ったとき、杏奈のことをよろしくと言ったんだ」
気づけば、杏奈の部屋の扉が開いており、入口のところには小鳥遊先輩が立っていた。先輩は爽やかな笑みを見せている。
「お、お兄ちゃん!」
「サークルの用事がだいぶ早く終わったんだ。帰ってきたら、見覚えのない靴が2足あったからさ。しかも、1足は男性ものでサイズが大きい。だから、扉の前でこっそりと話を聞いていたんだ。それについては謝るよ。すまない」
謝罪の言葉を言って、小鳥遊先輩は軽く頭を下げる。それもあってか、杏奈は特に怒った様子は見せない。
「挨拶が遅れたね。いらっしゃい、速水君と……桜井さんだったかな。前に杏奈からスマホで写真を見せてもらってさ」
「はい。桜井文香です。初めまして。四鷹高校の2年で彼とは幼馴染でクラスメイトです」
「初めまして、杏奈の兄の勇希です。よろしく。……陽菜ちゃんや葵ちゃんの話をしていたってことは、出かけている間に2人と会ったのか?」
「先輩方と一緒に四鷹駅に帰ってきたとき、改札口のところで陽菜ちゃんと会って。何か話したかったみたいだけど、あたしがイライラしちゃって」
「……そうか。あんなことがあったけど、1年近く前までは親友だった子だ。杏奈に伝えたいことがあったんだろう。もちろん、それに応じろって言っているわけじゃないからな。兄ちゃんはそんな強要はしないぞ」
うんうん、と小鳥遊先輩は何度も頷いている。下手すると、妹に嫌われるかもしれないと思っているのかな。杏奈はそんな兄に苦笑い。
「話は戻るけど、去年のゴールデンウィーク明け、あることを境に笑顔を見せてくれるようになった。その理由を訊いたら、マスバーガーで速水君に接客されたとき、速水君に優しい言葉を掛けられたからだと分かって。それ以降は、マスバーガーに行ったときの話は特に楽しそうに話してくれるようになった。うちの家族の中では、速水君は恩人だ」
「そ、そうなんですか」
まさか、小鳥遊先輩の口からも「恩人」という言葉を言われるとは。しかも、家族中から恩人扱いとは。それだけ、俺に接客されたことをきっかけに、杏奈が元気になっていったことが嬉しかったのだろう。
「杏奈がマスバーガーでバイトを始めるときも、速水君がいるお店だからと両親は二つ返事で許可したからな。……1年前のことを速水君が知ったら、お礼を言いたいと思っていたよ。家族代表として言わせてくれ。本当にありがとう、速水君」
小鳥遊先輩は俺にそんなお礼を言ってくれた。その温かくて優しい笑みから、今のお礼の言葉は兄としての感謝の想いが詰まっていると分かる。
「いえいえ。こちらこそ嬉しく思います。高校とバイトの後輩を元気にできましたから」
「そうか。改めて杏奈のことをよろしくお願いします。桜井さんも杏奈と仲良くしてもらえると嬉しい」
「もちろんです! 杏奈ちゃん可愛いですし。素敵な後輩ができて嬉しいです」
「……ありがとう。邪魔したね」
そう言うと、小鳥遊先輩は俺達に一度頭を下げて、部屋を出て行った。
「お兄さん。杏奈ちゃんのことを大切に想っているんだね」
「……ええ。まあ、シスコンな兄ですから、たまに心配しすぎたりすることもあるんですけどね。いい兄ですよ」
呆れ気味に笑いながら杏奈はそう言う。
その直後、扉の向こうから「よしっ!」と小鳥遊先輩の声が聞こえてくる。また部屋の前に立って聞いていたのか。そのことに、杏奈はやれやれと呆れていた。
残りのブラックコーヒーを飲んでいると、外から防災無線の『夕焼け小焼け』のメロディーが聞こえてくる。
「もう5時になったんだね」
「そうだな。……そろそろ俺達は帰るか」
「そうだね。杏奈ちゃん、今日は中学時代のことを聞かせてくれてありがとね。コーヒーとクッキーごちそうさま」
「いえいえ。むしろ、嫌な昔話を聞かせてしまってごめんなさいって感じです」
「気にしないでいいさ」
「ダイちゃんの言う通りだよ」
俺達の言葉に納得したのか、杏奈は口角を上げて、ゆっくり頷いた。
さすがに映画を観たり、お昼ご飯を食べたりしたときほどではないけど、志気さんと話した直後よりは、杏奈はいい表情を見せてくれている。
「じゃあ、俺達は帰るよ」
「またね、杏奈ちゃん」
「はい。大輝先輩、明日のバイトよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
ただ、さっきは志気さんに「また出直してこい」と受け取られるようなことを言ってしまった。もしかしたら、明日……杏奈に会いに来るかもしれない。それに怖がっている可能性はある。
「今日は琴宿に出かけたし、帰りには志気さんとも会った。だから、今夜はゆっくりと休んで。明日もバイトができそうだと思ったら来てくれ。休むときは店長か俺に連絡してね」
「分かりました。では、また明日です」
俺はサクラと一緒に帰路に就く。
夕方になったから、昼間に比べると涼しくなっている。ただ、歩くとすぐに体が温かくなってきて。そのことが心地良く感じる。
「杏奈ちゃん……まさか、中学時代にあんなに辛い経験をしていたなんて」
「俺も想像していなかったよ」
「だよね。あと、ダイちゃんのおかげで元気になったって話を聞いて、誇らしく思ったよ。それと同時に羨ましくも思っちゃった。ダイちゃんと距離があった時期の話だからかな。もちろん、ダイちゃんには小さい頃から、色々なことで助けてもらって、元気をもらっているのは分かっているよ」
サクラははにかみながら俺のことをチラチラと見てくる。
あの一件がなければ、きっと……宿題や試験勉強を手伝うなど、サクラを助けることがたくさんあっただろう。ただ、そう思っても過去に戻ることはできない。これまで歩んできたことは絶対に変えられないのだ。
「俺もこれまでサクラにはたくさん助けられて、元気をもらってきたよ。それに、今は同じ家で一緒に生活している。だから、今まで以上に増えるかもしれないな」
一緒に住んでいるからといって、何でもかんでもサクラに頼ったり、甘えたりしてはいけないけど。あと、今の環境だからこそ、サクラに元気を与えられることはあると思う。今後、それを追究していきたい。
それまで散漫になっていたサクラの視線が俺の目に定まる。
「そうかもねっ!」
ハキハキとした声で言うと、サクラは俺の左手をしっかりと掴んできた。そのことで伝わる温もりはとても優しい。体の奥深くまで伝わっていく。きっと、この手は一緒に家に入るときまで繋いだままだろう。そう思うと嬉しくて、愛おしくて、元気がもらえる。
歩幅を合わせ、いつもよりもゆったりとしたペースで、俺達は同じ家に向かって歩くのであった。
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