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2009年4月7日(Tue)
東京都豊島区、南池袋。コンサートホールを彷彿とさせる正五角形の巨大な建造物はガラス張りの外壁に春の青空を映していた。
ここは音楽家の卵が集う日本音楽大学。練習室を出てガレリアを歩く葉山沙羅に友人の三谷織江が駆け寄った。
「沙羅ー。帰りどこか寄っていかない?」
「ごめん。お父さんに早く帰って来いって言われてるんだ」
「えっ? お父さんいつの間にこっち帰って来てたの?」
織江は拗ねた顔をしながらも目はにこにこ笑っていた。彼女は表情が豊かで一緒にいて楽しい。沙羅の一番の友達だ。
「んー……
「なんで疑問系?」
「だって朝起きたら家に居たんだもん。帰ってくるなら連絡くらいして欲しいよ。今日は大事な話があるから早く帰って来てね、だって。うちの父には珍しく真面目な顔して言うんだよ」
それを言われた朝からずっと考えているが、父の“大事な話”の内容は見当もつかない。織江も腕を組んで唸った。
「大事な話ってなんだろ。まさか再婚? ……は沙羅のお父さんに限ってありえないか」
「ありえないねぇ」
「1年間海外に行くから家を留守にしまーすって言われても今更驚かないよね」
「そうそう。元々、うちはそんな生活だから」
父の大事な話についてあーでもないこーでもないと織江と議論しつつ、最寄りの池袋駅に到着した。沙羅は山手線、織江は有楽町線でそれぞれの帰路につく。
ひとりで電車に乗っている間も、今朝の父の真剣な顔つきが頭から離れない。普段の父はどちらかと言うと“ちゃらんぽらん”で“いい加減”で“自由人”だ。
もちろんこれは褒めている。ちゃらんぽらんでいい加減で自由人な父だからこそ、父と娘の二人での生活も楽しく過ごせているのだ。
池袋から渋谷までは山手線で15分程度。考え事をしているとあっという間に渋谷駅に着いてしまった。
駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしている人々の装いは軽やかで華やか。新学期も始まり、学校帰りの高校生の姿も多く見えた。
今日はヴィヴァルディの四季、特に春のメロディが似合う陽気だ。渋谷の雑踏の中にも春はある。ふと香った春の匂いに嬉しくなって、沙羅はヴィヴァルディの春のメロディを心の中で口ずさんだ。
人混みを掻き分けて公園通りを渋谷区役所方面に進んでいくと、やがて商業施設やオフィスビルの狭間から背の高いタワーマンションが現れた。
渋谷駅からは徒歩10分圏内にあるこのタワーマンションの最上階に沙羅の自宅がある。マンションのオーナーは、“ちゃらんぽらん”な沙羅の父親だ。
2年前、『沙羅が気兼ねなくピアノが弾けるようにマンションを造ったよ』と父に言われた時は言葉を失った。マンションを買ったのではなく、文字通り造ったのだ。
(私のためだけにマンション作るとか、お父さんはいつもやることが突然で壮大なんだよ……)
見上げるだけで首が痛くなる高層マンションのエントランスに入った沙羅を出迎えるのは愛想のいいコンシェルジュ。
『お帰りなさいませ。お嬢様』
「ただいま」
お嬢様呼びはここに住んで2年目になる今も慣れない。コンシェルジュにとってはマンションオーナーの娘は雇い主の娘も同然なのだからお嬢様と敬称して
お嬢様なんて柄ではない。こんなタワーマンションに住んでいても、何万円もする高級料理を食べるよりスーパーの特売で買った豚バラ肉たっぷりのカレーの方が好きだ。
堅苦しいフレンチよりもラーメンが好きだ。食べ物のことを考えていたら腹の虫が今にも唸りそうだった。
(今日火曜日なんだよね。野菜詰め放題の日なのに……。お父さんの話が終わったらスーパーに買い物行こう)
タワーマンション暮らしは慣れないが、学校でも家でも毎日ピアノが弾けて父が側にいればそれで幸せだった。これ以上は何も望まない。
最上階の十九階でエレベーターを降りる。最上階のフロアだけは部屋がひとつしかない。このフロアの住人は沙羅とオーナーの父のみだ。
エレベーターを降りて絨毯の敷かれた内廊下を進むとその唯一の部屋の扉が見えない。通路の先は溢れんばかりに積まれた大量の段ボールで塞がれていた。
普通に考えればこの段ボールの多さは住人の引っ越しだ。しかし他のフロアならいざ知らず、このフロアに部屋はひとつしかない。
(廃品回収……違うか。これはお父さんの荷物?)
通路で立ち尽くす沙羅の耳に話し声が届いた。
『おい
『うっせぇなぁ。だったら自分で運べ』
父とは違う男性の声がわかるだけで二人分。降りる階を間違えたのかと思った沙羅はエレベーターホールまで引き返して階数表示を確認した。
十九とある。やはりここは最上階で間違いない。
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