73話 天に背きし竜。刀は我欲に沈む。(過去編、終了)


 その姿は巨大な竜だった。

 ユリが再び瞼を開いたとき、彼女の前には一匹の黒き鱗を燃え上げし竜が彼女を見下ろしていた。その竜の両目がユリの存在が定まるのをじっと待っているかのよう。


 竜。


 それは、『堕ちし纏われの崇忌すいき』であり、六道真慧に背き堕ちし弥覇竜ジダを表す。

 ユリは自分の目の前に一振りの太刀が地面に突き刺さっている事に気付き、はっと息をのんだ。なぜなら、見間違うはずがなかったから。

 父様ととさまの太刀。


「と‥‥‥父様? まさか、父様なのですか?」


 ユリは弥覇竜に思わず問いかけてしまう。しかし、応えは返ってはこない。父が愛用していた太刀は、彼女が見つめる先で砂のようにさらさらと崩れていくのを、ユリは両手を差し出して止めようとする。だが、全ては指の間から零れていき父を表していたものが消え去っていく。



 六道真慧に背きし崇忌は破壊の化身となったのだ。



 竜は全てを滅壊させる力そのものであり、ユリのような塵芥にも等しき存在など、その眼前に立つよりも早くに世界から消失してしまうのが当然。しかし、その弥覇竜ジダがユリの目の前で命の鼓動を止めようとしていた。

 一体どうして?

 一体私はどうして弥覇竜の眼前にいるのだろう? ファディに一太刀を入れることもできずに死んだはず。なのに、こうして傷のない体と従前の衣服を身に纏っている。まさか―――


「まさか! 弥覇竜は父様なのではないですか? その姿、私に六道真慧の技を使ったのですか? 天に奉納することなく、私を生き返らせるために―――」


 言葉が途切れてしまう。その言葉が事実なのだと悟ったから。

 弥覇竜は深い眠りに落ちていき、巨大な岩石と化していった。六道真慧に背きし堕ちた纏われの崇忌すいきは、天異界に浮かぶ島の岩塊となったのだ。

 ユリは膝を突き、静かに額を地面に付けた。


「‥‥‥父様、感謝申し上げます。このユリ、父様から授かりし命、有難く使わせて頂きたく思います」


 顔を上げ大樹を仰ぎ見る。父の魂が輪廻に還ることなく、この世に留まってしまっている。輪廻の淀みとなることは父様も望まれないこと。


「カジハ家の務めを果たすため、できることなら黒魔術師ファディをこの手で屠りたく思います。ですが、カジハ家は輪廻の淀みを祓う役目を持つ者。ならば、私は父様……いえ弥覇竜ジダを鎮魂すべき巫女として、その任を果たしたく思います」


 ユリの決意が黄淡の光の線を呼び込み、ユリの心臓と弥覇竜の間に結ばれる。その光が岩塊となった弥覇竜に収束していき一つの樹を生やしいくのだった。それはみるまに巨樹にとなって弥覇竜をその身に閉じていく。


「弥覇竜を鎮魂する守りの樹。私は守り目として弥覇竜の魂が無事に輪廻に還るまで、その御魂を鎮めましょう……全てを、無念のうちに死していった全ての御魂を輪廻に注ぐ巫女となりましょう。父様、それが―――」


 最後の言葉は胸の前に握りしめた手に閉ざされ、発せられることはなかった。

 天異界に浮かぶ荒れた浮島には一本の巨樹と一人の少女のみがいた。これが全ての始まりの話。


 それから千年が過ぎようとした頃に、傷ついた少女と壊れかけの人形が浮島に辿り着いた。


 二人との出会いが、ユリにかつての柔らかさを思い出させた。


 少女の笑い声が浮島に賑やかさをもたらし、時折、彼女の称する実験が浮島に大きな爆発を生じさせることもあったが、常に前向きな少女の姿勢は光のように輝いていた。

 それに、鍬しか持ったことのない壊れかけの人形が刀を手にすると言い出した。人形が刀を振るうなど有り得ることではなかったが、彼の真剣な眼差しは真に通ずるものがあった。あまりにも不器用で剣の才能などは皆無。あきらめた方が良いと何度も彼に言い聞かせた。だが、彼は刀を手放すことは一度もなかった。その壊れかけの人形は、数百年をかけて刀を握ることを覚え、数千年の時をかけて技を放つことを修得していく。彼の心にあった揺るぎなき信念。それだけが彼の持つ才能のすべて。だからこそ、修久利しとめを手にすることが出来た。


 そんな彼らとの生活が、ユリの心に晴れやかな彩りを与えてくれたのだ。だから、彼女は心に強く決意する。必ず守るのだと。

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