第五条 第一項

 五日目、朝、ミュウが一人オセロをしている。ハチが入ってくる。食事をしに、隣の部屋へ。食事を済ませようと、席に着くと外から足音が聞こえてくる。戻ろうとしていたハチが驚いて、廊下側の扉に目を向ける。俺もつられて目を向けると、扉が開いた。髪を編み込んで浅黒い肌をした、やや大柄の男が立っている。サングラスに、着崩れたスーツを着ていた。男が地を蹴った。と、分かったのはここまでで、次の瞬間に分かったことは、腹部に鈍い痛みがある事、自分が床に倒れている事、声が出ない事、息ができない事だ。

「かっ…はっ…」

息ができるようになって、ようやく自分が腹に蹴りをもらったのだと理解できた。

「またやってしまった。クソガキ、悪く思うな、こいつは俺流の挨拶だと思ってくれ。」

まだ声が出ない。

「あの…これは?」

「ハチ、BN43959121」

「審議中です。」

「俺の独断だ。守秘義務は有効だし、どうせお前は干渉できないんだろ。」

「…はい。」

「黙って見てろ。報告も無しだ。」

咽てから、やっと声が出せる。

「いきなり、何しやがる、じゃあ、俺も一発蹴っていいのか?」

また腹を蹴られる。再び呼吸困難へ。頭をつかまれる。

「俺はイラっとするとつい足が出てしまうんだ。こいつは減らず口叩いた分で、さっきはお前の面を見た分だ。悪かったよ。」

何をできなくすれば、こいつを無力化できるのか、頭を働かせる。

「お嬢様が処分して欲しいってことは、お前、お嬢様に何か酷い事をしたんじゃないだろうな。正直に答えろ。」

「お嬢様、なんて、執事とかいう、なりかよ、お前は。」

「確かに、一理ある。」

男は俺を離すと、椅子に腰掛けた。

「クソガキ、名前は?」

「そんなものねーよ。」

「お嬢様がつけた名前だ。なんて呼ばれているんだ。」

「だから、そんなものはないんだよ。」

「ああ、なるほど、だから処分、か。」

俺はやっと立ち上がる。ぶん殴ってやりたいが、ダメージが抜けていない。気分が悪い。

「今、お前に何の価値もない事は分かった。俺に殺す義務はないが、カルマ付きなんだろ、どういうことができるのか、教えろ。」

「お断りだ。」

男の前蹴りを腕で防ぐ。執拗に腹を狙ってくるな、こいつ。

「お前の能力次第じゃ、命は助けてやってもいいって言ってるんだ。」

俺は思わず、吹き出してしまった。

「なに笑ってんだ。」

「いや、あんたくらい分かりやすいと、こっちはいくらでもやりようがあるんだよ。」

俺は振り返ると、隣の部屋に転がり込んだ。何か『できなくなる』までもない。この部屋はミュウの名付けたものしか入れない。規則違反で入ってきても、『お嬢様』がこういうタイプの人間を許すとは思えない。つまり、追ってこれない。戦略的撤退である。

「仕方ねぇな、見張り番もできないのか、ハチは。」

男はあっさりと追ってきた。まあ、いい。ここで蹴れなくしてやってもいいが、俺もこいつに一撃かましてやらないと気が済まない。身構える。

「セイギ、何やってるの?」

「お嬢様、お久しぶりです。」

ミュウが、普通に、話しかけている。

「いらないものを引き取りに参りました。」

「そんなこと、言ったけ?」

「…確認しておきたいのですが、この男に名前をつけてはいらっしゃらないのでしょうか。」

「つけてないけど。」

「では、お嬢様には不要なものです。お部屋に置いておく必要もございません。私に処分をお任せください。」

ミュウがこっちを見る。お前に慈悲を乞わなくても、これくらい自分でなんとかしてみせる。

「勝手な事言ってんなよ。そもそも、お前らが人を余計なものみたいに扱ってんのが気に食わねーんだよ。その辺に転がってる道具と一括りにしてんじゃねーぞ。処分する?やれるもんなら、やってみろよ。」

男が突進してくる。攻撃パターンは覚えた。まず、腹への蹴りをいなしたら、すかさず反撃してやる。男が跳躍する。…頭だった。風景が歪む。地に足がつかないような感覚がする。

「手加減してやってるんだ、まだ意識あるだろう?」

今更、何かできなくしても遅い。『銃を撃つ時は、銃口を自分に向けなければならない。』『銃を撃つ時は、目を閉じなければならない。』頭がガンガンする。『一、二、三、四、』『煙草、嫌い?』『なるほど、こう使うのか。』『僕を、殺さないで。』

「走馬燈、かよ。」

「あ?気絶させた方がよかったか。」

「セイギ、暴力は止めてって言ってるはずなんだけど。」

「…申し訳ございませんが、これが私の役割です。これは引き取らせていただきます。お部屋を汚すわけにはいきませんので。」

男は乱暴に俺の胸倉を掴む。引きずられるように、連れていかれる。

「あの…待って、ください。」

いつの間にか、ハチが扉の前に立っていた。

「違反、報告、します。」

「いいんだよ。こんなガキ一人消えても、問題ない、で。それが仕事だろ。」

「私が、報告、します。」

「…ハチ、お前は俺の性格を知ってるよな。あんまり妙な事を言うなよ。」

「…命令、です。何もしないで、すぐ、立ち去って、ください。」

男の表情が変わる。俺を突き飛ばすと、ハチに近づいていく。冗談だろう、と思いたい。こいつ、ハチを蹴る気だ。

「セイギ、お願いだから、やめて。」

「お嬢様、これは我々の問題ですので。」

ミュウが叫ぶが、男は歩みを止めない。男が呟く。

「まったく、いつの間に仕込んだんだ。」

プツンと、俺の中で何かが切れた。頭の中で『本』をイメージする。声を、振り絞る。

「『人を蹴る時は、靴を脱がなければならない。』」

男が歩みを止める。有効だったのが、分かる。こいつをくらった瞬間の違和感は、俺にもある。

「クソガキ、何をした?」

「そんなに人が蹴りたいんなら、まず靴を脱げよ。そうしたら、今度は上着も脱がせてやるよ。ズボンも脱がせて、パンツ一枚で踊らせてやる。でもな、それくらいじゃあ、俺の気はおさまらないんだよ。」

俺は靴を脱ぐと、渾身の力で男の腹を蹴った。大木を蹴ったようだった。男が再び俺の胸倉を掴む。床に叩きつけられる。

「なるほど、そういう事か。」

朦朧とする。痛いような、痛くないような、色々考えているようで、何も考えられないような。だがまだ、自己分析する余裕がある。もう一声、くらわしてやる。

「『ナナシ。』」

ミュウの声が響いた。

「名前をつけたら、いいんでしょう。それは処分しなくてもいい。」

「ナナシ、ですか。こいつは危険です。やはり、おそばに置いておくべきではないかと。」

「今のあなたほどではないわ。」

ミュウはベッドの下から、ダーツセットを引っ張り出す。

「これ、壊れてしまったから、持って行って。」

「…よろしいのですか?」

「セイギ、私は今怒っているの。今なら、あなたが私にとって、どれくらい大切だったか試せるかもしれない。処分して欲しい物はこれで、あなたは受け取って帰った。それだけ。違う?」

「かしこまりました。」

男はダーツセットを受け取ると、部屋から出ていこうとする。

「待てよ。」

と言ったつもりだったが、今更、自分の体が動かない事に気が付いた。そして、そのまま目を閉じてしまった。

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