第58話 玉座の終わり

 交渉決裂だと颯貴が言ったと同時に地鳴りがした。地割れしたその隙間から、黒煙に似た粘り気のあるものが立ち上る。

 悪鬼を引き込もうというのが手に取るようにわかり、僕はすぐに地に手をついた。

「閉じろ」

 僕の言葉に地割れはずずずと音をたてて閉じていく。この世界はまだ従う。

 だけど、これも時間の問題。

 玉座を破壊しようとしている僕にいつ手の平を返すかわからない。

 頭上で風切り音がして、扇を持ち上げようとした僕の背中を雅が蹴飛ばした。

 綺麗に前転した僕の身体を悠貴がこれまた足で制してくれた。

 不満を表明しようとしたが、僕は唖然として口をあけてしまった。

 悠貴が足で僕の身体をとどめてくれていなければ、黒い塊に満ちた池に落ちるところだったのだ。

「あ……ありがとう」

 それで良いと悠貴が口の端に笑みを浮かべた。幼馴染達の僕への扱いは後に話し合おうと思うが、とりあえずの難は逃れているので唇を引き結んだ。

「ぼんやりしない!」

 珠樹が僕の胸倉をつかむようにして、たたせてくれた。その数秒後に、僕がへたり込んでいたあたりが崩れて、池へと崩落した。

「よけろ!」

 雅の声が響きわたり、はっとして振り返った。

 僕の背後では静音がバク転を繰り返しながら、颯貴の攻撃をかわしていた。

 運動神経がずば抜けているのはわかっていたけれど、ここまで身軽に体操選手みたいなことができるとは思わなかった。

 姿のない黒い塊が行く手を阻むたびに、幼馴染達がそれを薙ぎ払ってくれている。

 中央へ近づけば近づくほどに、颯貴の攻撃の激しさは増していく。

 悠貴が氷の刃を放つと、それ以上の数の氷の矢が降り注ぐ。

 珠樹が雷で地を薙ぎ払うと、同様に倍数の帯電した矢が降り注いでくる。

 まるで鏡のようだ。

「鏡……。 そうか」

 僕は全員に攻撃を止めるように呼び掛けた。

 全員がふざけるなというようにこちらを振りかぶったが、僕は首を横に振った。

 この世界は欲すれば奪われる。だから、真逆をすれば良いんだ。

 怖いけれど、やるしかない。手放せば、与えられるはずなのだから。

「わかりやすく足し引きゼロにすれば良いんだ」

 壊す者がいるから、護る者が呼ばれる。攻撃するから、攻撃される。

 攻撃をしなければ、僕らを狙う攻撃をこの世界自体がはじくはず。

「自分と自分の内側を競わせるのが理。 他人軸の競いは理を逸脱する。 なるほど……。 だから、これだけの長い時間、誰もがここを手に入れることができなかったわけか。 ここは在って、無いんだ」

 僕のつぶやきに、静音と雅がわけがわからないと声を上げたが、悠貴だけは得心できたのか首を縦に振っていた。珠樹はそれを見て、とりあえず戦闘態勢をといた。

「玉座の破壊方法がわかった。 ここからは僕の仕事だと思う。 手を出さないで……」

 ゆらゆらと、ぬらぬらと動き続ける黒い塊へと手を伸ばし、僕はそれを身に受け入れることを決めた。

 指先で黒い塊に触れると、塊は糸のような集合体だとわかった。

 それを指先でからめとっていくと、糸はたいした抵抗もなく、手の平から僕の体の中へと吸い込まれていく。

 僕ができるならと静音が手を伸ばしかけたが、それを僕は制した。

 静音の性質は僕と正反対だ。だからこその半身。

 これは静音には不可能であり、やってはならないことなのだ。

「触るな、僕が何とかするって言っただろう?」

 この黒い糸は僕の中身と同意の物のはず。

 僕が隠しこんできた殺気であり、悪意であり、攻撃性であり、闇の部分と同じ。

 それに触れさせてはいけない。

 ふわりと長い黒髪が風に持ち上げられて気が付いた。僕の肩ほどまであった髪が膝裏へ届いてしまうほどに伸びている。

 父のような銀色の髪が良かったなとこんな時にふと思って、笑ってしまった。

 どこまでも黒く、闇色より深い僕の髪を指先ですくいあげてみる。

「貴一の方がお姫様みたいで腹が立つ」

 やや不服気に言い放った静音の横顔に目をやると、彼女は中央神殿へとまっすぐに目を向けていた。

 言葉とは裏腹に、彼女の眉はひそめられており、唇はかたく引き結ばれている。

 横顔で十分に伝わってきた彼女の想いにふっと笑みがこぼれてしまった。

 静音にしかできないことがあると知ったのはほんの数秒前だ。

 彼女は過去、現在、未来の自分とリンクできるどころか、記憶を知識として共有できる。刻一刻変わっていく未来のデータを過去と現在で把握し、動くことができるのだろう。そこへ憑依師の才が混じるとどうなるか。モズの姿は過去で彼女がターゲットとして選んだ者の肉体であり、彼女自身は時間を遡っているわけではない。

 時間を遡るという干渉行為は必ず代償を受けるが、僕の天月眼同様に、才として与えられた物を行使することは罪に問われない。

 彼女は過去の出来事をまるで見てきたように流暢に語り、道を示すのはこれが理屈だ。それを自覚して行使していないあたりが怖いが、僕の魂の記憶より、フレッシュな記憶をその都度引き出してこれる彼女の発言は正確といって良い。

 その静音が険しい表情をしているということは、正念場、いや、岐路ということ。

 神坐のある神殿への階へと足をかけた瞬間に、僕の右目が激しく痛んだ。

 思わず、声を上げて膝を折ってしまうほどの痛みに襲われた。

 指の合間から生温かい流れが零れ落ちていく。

 勇気を振り絞って右の瞼を持ち上げようにも、針を刺したような痛みに拒まれた。

 静音が慌てて手を差し伸べてくれたが、僕はそれを断った。

 僕に触れさせてはいけない。

 これは直感であり、正解だ。


「静音、僕から離れて……」


 わけがわからないと声を上げている彼女に、僕は生まれて初めて怒鳴りつけた。


「つべこべ言うな!」


 僕自身もよくわかっていないのに、苛立っていた。


「君は自分自身の頭で今のこの事態を詳細に把握できるはずだ! わかったのなら、今すぐに離脱しろ!」


 一刻も早く、静音だけはこの空間から出さねばならない。

 本能だ。これは僕の魂からの警告音。

 神坐、いや、玉座と皆が求めたものは鏡のはず。鏡を破壊する時に、静音がいてはならない。鏡は己を映す物。僕と静音は互いを半身としてしまっている。それがもたらす作用は悪夢でしかない。


「雅、根の泉から伏雷を呼べ! 静音を外へ出せ!」


 雅がびくりと身体を震わせて、驚いたように僕を見た。

 理由を問わせる時間など僕は与えない。

 雅は困惑の表情を浮かべていたが、すぐに伏雷の召喚を始めた。数秒とたたない内に雅が地中深くから大きな蛇に似た雷を引きずり出したが、伏雷は何者かに木っ端みじんに破壊された。

 根の泉の八雷を一撃で退けることができるのは一人だけだ。


「宗像颯貴! 邪魔をするな!」


 右眼で見る世界が赤く、所々見えにくい。

 静音が僕のそばに近づくと、僕の意図するところをさぐろうとしている。

 僕はタイミングをはかるから、お前は外へ行けと小さく頷いた。

 必要なことなのかと問うような目の静音に、僕はもう一度、頷いた。


「あなたの事情は僕の人生には関係のないことだ」


 僕の前にひらりと舞い降りた颯貴がゆっくりと見下ろした。

 瞳の色が赤い。ルビーのような澄んだ赤ではない。

 赤黒く見えているのは琥珀の瞳が血で穢されているからだ。

 僕は後ろ手に静音をかばい立った。

 本当は静音の方が強い。だが、コイツの前では腕っぷしの強さは意味がない。

 小さく退がれと命じたが、静音が動こうとしない。

 それを見かねた雅が静音を抱え上げてくれた。

 暴れまわっている静音に僕はもう一度怒鳴りつけた。


「勝つ気があるのか? 勝つ気があるのなら、聞き分けろ! 雅、何が何でも外へ出せ!」


 静音の騒ぐ声が一瞬にして鎮まった。

 

「お前だけが頼りなんだ! 意味がわかるか? あぁ、もう! わからなくても良いから、とにかく退け! 退いて、勝つために事の成り行きを吟味しろ!」


 僕の名前を呼ぶ静音の声が遠ざかっていく。

 僕は僕の足元から数十メートルの封陣をはった。


「姉さん達、女王に鏡を割れとだけ伝えて!」


 黒い煙幕のような封陣は僕の足元から四方八方へ広がっていく。

 僕を残せないと動こうとした悠貴と珠樹をかろうじて締め出し、颯貴とがっつり向かい合った。


「鏡を割ったとて、何も変わらない」


 颯貴の言葉に僕は首を横に振った。


「変わらないのではなくて、変えるんだよ」


 地割れした下から覗くのは墓場そのものの景色。腐臭があたり一面に立ち上り始めた。

 この世界は僕の意志で形をかえる。望んでも、望まなくとも在って、無い。

「手を伸ばせばそこに爆発的な力の泉があるのに何故だ?」

「暴力的な力だからだよ。 僕はもうそこそこに持っているし、そのそこそこでやれると思ってる。 これ以上は許容できないし、するつもりもない」

「力がなくば、お前も盗まれるぞ」

「いいや、僕は盗まれないよ。 約束で縛りあっている関係ではないから」

「血系異端であるだけで必ず芽を摘まれる未来はかわらない」

「そういうあなたもまた血系異端。 それを抑え込んでくれていた半身を奪われた理由は簡単だ。 あなたの天月眼の片眼を半身に委ねていたからだろう? 夜となった魂達が狙われた理由は皆、この眼を半身に分け与えてしまったからだ」


 天月眼は特殊な瞳だ。

 両眼を制御するとなると身を斬るくらいではすまないほどの跳ね返りが来る。

 だから、彼らの半身はその痛みを分け合うために申し出たのだろう。

 本来、この眼のメリットとデメリットはたった一人で背負うべきなのだ。

 片眼ずつでは、正確な景色は見えないどころか、己の中の恐怖を助長させる景色を見ることとなる。それ故、一人で背負うしかないのだ。


「片眼ゆえに、互いにミスリードして、すれ違い、誤解した。 そこを突かれたのではないの? あなたはさっき、悔悟と言った。 あなたが一番許せないのはあなたではないの?」


 颯貴が僕の目をしっかりと見据えてから、小さく息を吐いた。


「だから、決着をつけたいんだ。 奴は血系異端であれば誰一人目こぼしすることなく排除する。 奴はいつも手を汚さない。 常に罪を犯さない。 ターゲットを自滅させ、捉えた半身を罪でがんじがらめにして支配しつくす」


 颯貴が自分の指の先に歯を立てて、指からしたたり落ちる血をみせて、皮肉めいた笑顔を浮かべた。


「この血がすべての悪だよ、宗像貴一」


 シュッと音がして、僕は喉元に金属の冷たさを感じた。

 これを引かれてしまうと、僕は終わるのかもしれない。

 なんだろう、この緊迫感のなさ。


「この血はすべての絆だよ、宗像颯貴。 僕は誇りに思う」


 ゆっくりと扇で喉元に突き付けられた刃物を押し返す。

 闘おうとしなければ、闘いにはならない。

 どうしてというように颯貴が額に汗をにじませている。

「動けないだろう? この世界は欲する者には何も与えないんだ」

「お前が本物という保証はない!」

「本物かどうかなんて僕にはどうでも良いことだ!」

「天月眼は世界を変えられるんだ! 私に譲らないと言うのならせめてあの玉座を望め!」

「目を覚ませ、その天月眼の者を奪った奏太が世界を変えることなどできていないだろう?  天月眼は奪う物じゃない。 与えられるものでもない! ただ『在る』だけのものだよ」

 颯貴の言葉を奪い、僕は扇を開いて、言葉を紡ぐ。


【天橋も長くもがも、高山も高くもがも、月読のもてる復若水いとりきて、君にまつりて、をち得しむもの。 おのが身は、この國の人にあらず、月の都の人なり。 吾の言の葉よ、春花秋月を寿げ】


「吾、月の都を望まず」


 僕は玉座に興味がない。

 だから、僕は手放す。


「玉座の破壊方法は一つだ。 手放すことで、手にした瞬間に砕くのみ」


 現時点で継承権のある僕がこの世界を手放せば済む話だ。

 ゆらりと白銀の円盤が僕の目の前に現れた。

 それに、そっと指先を触れさせた。


「月の鏡よ、砕けよ!」


 目で追えないほどの光とガラスが割れるような鋭い音がした。

 砕け散った破片の一部が僕の首筋をかすめた。残りの破片を何とかそれをよけきった直後、大きな欠片が僕の心臓を狙うかのように向かって飛んでくる。

 なるほど、鏡は僕を道連れにしたいらしいと思った瞬間、その欠片は僕の目の前で 

颯貴の背に深く突き刺さった。

「どうしてかばった?」

 颯貴がわずかに口の端に笑みを浮かべた。

 わかっていたはずだと激しく吐血しながら、彼女はつぶやいた。

「この世界は一に一だ。 破壊には破壊が来るのはわかっていたことだろう? お前が半身をここから退がらせた理由はお前がこれを想定していたからだ。 半身とは己をうつした鏡。 半身がここに残っていれば、お前の半身が命を落としていたかもしれない。 お前はそう考えたのだろう?」

「そうだったにせよ、あなたが僕をかばった理由にはならないだろう?」

「王には王、半身には半身だよ、貴一。 王が破壊したのならば、王が破壊されるべきだろう? ならば、破壊されるのは私で良い。 貴一が私に勝てぬほどに弱かったのならば、お前を殺して、次を待つ必要があった。 私が玉座を手にしたとしても、おそらく奴は落せないことは自明の理だったからな。 だが、お前は玉座を手放し、未来永劫、誰も手にできないようにしてくれた。 お前の言う通り、本当はわかっていたんだ。 ずっとこれを待っていたのかもしれない。 なぁ、貴一、私は津島が好きだった。 宗像の皆も好きだ。 だから、アイツに支配されてはいけないんだ。 これですべてが廻りだせばそれでいい……」

 地鳴りが大きくなっていき、立っているのもやっとの振動が伝わってくる。

 さらに大きく地割れがして、僕の足元もついに崩れ始めた。

 

「あなたも夜もすべて僕が輪廻へ還す!」


 僕はゆっくりと彼女にむけて手を伸ばし、指先で糸をからめとるように動かしていく。指先にしっかりと何かがひかかった感覚がして、指先に力を籠めると、黒曜石のような御魂が現れた。

 

「美しいままじゃないか。 どこが穢れていると? あなたは何一つ穢れてなどいないよ」


 僕はその御魂を手にして、身動き一つとれなくなっている颯貴の額に指を押し当てた。


「任せて。 僕がすべてに片を付ける」


 あれほど怒りに満ちた表情をしていた彼女が柔和な笑顔となっている。

 本当は楽になりたかったのだろう。

 身体を形どっていた輪郭が崩れ落ち、桜の花びらが舞い散っていく。


「月讀の名を以て命じる。 すべての夜を正道へ戻し、輪廻へ還せ!」


 パンっと音を立てて、封陣がはじけ飛んだ。

 不安定すぎる足元に気を付ける余裕もなく、僕は倒れこんだ。

 落下していく身体をとどめることができない。

 何とか崖の端にでもと手を伸ばすが届かない。封陣でめいいっぱいの力を使ったから、身を浮かせる技を繰り出すことなどできない。

 盈月と声に出そうとした僕の腕をがっしりとつかんでくれる力強い誰かがいた。

 僕の身体の落下が止まる。だが、腕一本でぶらさがったままだ。

 ぼんやりと見上げると、ぽとりぽとりと赤い雫が頬に落ちてくる。


「春の……雪?」


 彼だ。どうして、彼がここにいる。

 僕の腕をしっかりとつかんでくれているのだ。

 このまま落下すれば、僕は冥界の最下層へ真っ逆さまなはずだ。

 崖っぷちで、彼が渾身の力を込めて僕を上へと引きずり上げてくれた。

 僕のどうしてという質問を彼は指先で封じて、身体を抱え上げてくれた。


「最後の最後に役に立ってみせると言っただろう?」


 彼はそう言って、崩れ落ちる世界を器用に駆け抜けていく。

 まるで勝手知ったる場所のように駆け抜けていく。

 頬も肩も腕も何もかもが傷だらけで、かなりの血を失っているのがわかるほどに唇の色が真っ蒼だ。

 彼は僕の懐に丸い何かを差し込んできた。

「蒼の王は己の半身を持つことが赦されない。 梅にも桜にもなれない彼は最初から王でも人でもない。 故に彼の正義に正道はない。 正道は紅王のもとにある。 貴一、紅王のもとを離れてはならない。 忘れるなよ? 結構な無茶をしすぎたから、もうお前を護ってやれなくなる。 貴一、お前は覚えてないだろうが、小さかったお前が俺に触れたから、俺は目を覚ますことができたんだ。 颯貴を救ってくれて、ありがとう……」


 彼が柔らかく微笑んで、光の渦の中へ僕の身体を投げ込んでくれた。あまりのまぶしさに僕は目を閉じてしまい、意識が遠のいていった。これで輪廻へ戻れると彼の声が聞こえた気がした。




「志貴の息子くん、目を覚まして!」


 頬を誰かがはたいている感触がして、僕はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 遮るものが何もない一面の青空と直射日光が飛び込んできて、僕は激しくむせこんだ。すると、ぐらりと体がバランスを失って、落下していく。


「あぶないなぁ、もう!」


 大樹の枝の上で気を失っていたらしいが、それにしても扱いが雑だ。

 僕の襟の後ろを人懐っこい笑顔の少年がしっかりとつかんでくれているが、如何せん、宙ぶらりんだ。

 

「父さん、丁寧に扱ってよ!」


 父さんという違和感のある表現に、一瞬、ハテナマークが飛んだ。でも、その声をどこかで聞いたことがあった。ふっと視線をさげると、赤い髪が目に入った。

 美蘭がこちらを見上げている。綺麗にととのった眉を寄せて、僕の背後にいる彼をにらみつけている。

 そろそろ首がしまってきて苦しいと訴えると、こともあろうに男は手を離した。

 受け身を取ろうとかまえたが、すぐに柔らかな感触に包まれた。

「貴一、大丈夫だよ」

 どうやら、美蘭の鷹さんが救ってくれた模様だ。

 地に足をつけたまでは良かったが、僕は激しい眩暈がしてそのまま受け身も取れずに倒れてしまった。

 心臓が痛い。あの時と同じだ。あの時は父さんがいてくれたから何とかなったけれど、どうしよう。呼吸ができない。


「どれどれ、あぁ、なるほどねぇ」


 美蘭より柔らかな色合いの赤い髪が僕の頬に触れた。

 男は僕の背に指をあてて、小さく、解と唱えてくれた。

 鎖が引きちぎられるような鈍い金属音が耳の中で響き渡った。


「志貴の息子くん、ゆっくり息をしてごらん。 もう大丈夫」


 彼の手がゆっくりと背をなでてくれると、確かに痛みはひいており、楽に呼吸ができることがわかった。

 横たわったままで、ゆっくりと男を見上げた。

 美蘭が『父さん』と呼んだけれど、やっぱり年齢が合わない気がして、小首を傾げると、彼は苦笑した。


「本当は初めましてじゃないんだけど、一応、初めましてにしておこうかな? 僕は鴈楼蘭という。 この可愛い美蘭のパパで、通り名で言うのなら『白の王』と呼ばれることもある」


 白の王というのは、僕らの女王の盟友。

 東の二強の一角にある人だ。

 人の好さそうな表情をして、飄々としている彼が女王と互角の男。


「見てくれは永遠の18歳なんだけどねぇ、一応、パパなのよねぇ」


 言葉遣いが非常に緩いが、逆にそれが怖い。

 僕の父は見たままに強い男だが、今目の前にいる男は爪がどこに隠されているのかわからない。

 自然と口元が引きつってくるのがわかる。

 この笑顔の奥に隠された何かに肌身で感じる怖さがあるのだ。


「少年に育ってくると一心さんに似てくるもんだねぇ。 憎らしい顔だ、ほんとに!」


 気安い言葉を口にする彼に頬をつねられているが、僕の身体の緊張が解けない。

 本能でわかっている。相手の能力が桁違いだということを認識しているのだ。

 そして、彼は間違いなく怒っている。


「さすがに息子くんだね、鋭いね。 僕は今、とっても機嫌が悪いんだ。 蚊帳の外だったっていうのが一番気に食わないんだ。 ねぇ、仲間に入れてくれるよね?」


 あっさりと思考を盗み見られただけでなく、ぐっと顔を近づけられると、思わず、息を飲んでしまう。本当に目が笑っていない。

 美蘭が貴一は悪くないと弁明してくれているが、わかったと答えている割に彼の目は絶対に笑わない。

 美蘭の父の冷たい視線に寝ている場合じゃないなとゆっくりと体を起こすと、激しい頭痛がして、痛みをこらえようと僕は地面をにらみつけた。ひたすらに声を殺し、こらえつづける。


「どれだけ体に受け入れた?」


 楼蘭の声の質がかわった。

 さっきまでの安穏とした雰囲気はもうない。

 のろのろと視線をあげると、彼が鋭い目つきでこちらをみていた。

 父の眼力もそこそこに恐ろしいが、やはり彼は『王』だ。何かが違う。身体が自然に強ばってしまう。


「わかりません」


 どれだけと言われても本当にわからない。

 24番目の隠し里全体を葬った。夜となった魂達は輪廻へ還した。それを量で例えることができない。


「質問をかえる。 たぐった糸の色を教えろ」

 楼蘭が指先を動かして、こうやって手繰った糸の色だと示してくれた。

「黒です」

 僕が指にからめとったのは夜に似た黒い糸ばかりだ。

 なるほどと楼蘭は僕の目の前に胡坐をかいた。

「夜の王にならずして、夜を飲み込んだ。 流石と言うか、阿呆というか……」

 楼蘭は頬杖をついたまま続けた。

「そんななりでは半身に触れさせることも叶わないぞ?」

「わかっています。 だから、離しました」

「しかも、鏡を身体の一部として受け入れたみたいだしねぇ」

 僕ははっとして胸元をまさぐるが、意識を失う直前に懐に入れられた丸いものがどこを探してもない。

「困ったもんだ。 君が死ねばそのまま終わりってことね」

 楼蘭は少しだけ思案するように目を閉じて、ふうっと息を吐いた。

 ここへ君を放り捨てた相手は『春の雪』だなと楼蘭が僕に問うた。

 僕が大きく頷くと、さらに、彼はやっぱりなぁとつぶやき、胸の前で両腕を組んだ。やってくれるじゃないかと、楼蘭はわずかに口の端を片側だけつりあげた。

「彼を知っているのですか?」

「いつかこうなると思ってたよ。 彼はようやく『まともになれた』のだろう?」

 まるで言葉遊びをするような楼蘭は僕の反応を待っているようだった。

 まともになるとはどういう意味なのかと思った瞬間、僕の中で何かが繋がった。

 ばっと顔を上げると、楼蘭が静かにうなずいた。

「息子くんが最下層に堕ちて、黒いもやもやを何もかも拾い集めて、大魔王になってくれれば僕や志貴すら排除が妥当という判断をせざるを得ない状況になっていただろう。 でも、目論見は大いにはずれた。 春の雪の動きは予想外のもの。 その上、穢れから脱却させることができる僕が息子くんの目の前にいちゃうんだ。 さて、面白くなるぞ?」

 状況を楽しんでいるような表情の楼蘭を僕は呆然として見上げるしかできなかった。ここにきて、親の世代は頭がおかしいと雅がいつだったか言っていたことを思い出した。


『窮地にしか生きてこなかった人達は発想が壊れてる。 恐怖に対する耐性がありすぎるんだ』


 雅はそう話して、頭がおかしいと帰着させた。

 やばい悪鬼と対峙するたびに、怯えるどころか、嬉々として攻撃している姿に僕も概ね同意していたが、その親の世代の王ともなれば、ねじの外れ方は尋常じゃないと痛感した。

「志貴と僕が互角と称されるのは何故だかわかる?」

 楼蘭が僕の顔を覗き込んだ。

 僕はわからないと素直に答えた。

「僕は真っ黒を真っ白に変えてしまえる魔法使いみたいなものなんだよ」

 王号は『浄化』の特出した才を指して『白』なのだと楼蘭は語った。

 だから、春の雪は最後の力を振り絞って、僕をこの男の前に落としてくれたのか。

 玉座を破壊する行為は正道とはいえず、穢れの一端ともなる。

 それに、邪なる魂と化した夜を輪廻に戻す行為もまた正道とは言えない。

 己から引き離していた薄暗い部分をも取り入れた行為もまた同じ。

「浄化方法はある。 だけれど、魂に触れられるに近い行為となる。 君はそれに耐えられる? 僕に触れさせることができるか?」

 信じ切ることができるかと彼は問うているのだ。

 このままでは静音に害がでるのは明白だ。

 だけれど、他の血族の長に僕の魂を晒しても良いものか。

「僕はいち早く、混戦中の志貴の援護へ行きたい。 君の浄化は本来、二の次なんだけれど、志貴が命よりも大切に想っている息子くんだから我慢してここに居残っているんだ。 どうしたい?」

 僕は唇をかんで、ゆっくりと彼に頭を下げた。

 彼はわかったと小さく答えると、ついてこいと先に立って歩き始めた。


「行こう。 父さんがわかったと言ってくれているんだから、何とかなる」


 自力で立つこともままならない僕に美蘭が肩を貸してくれた。


「あ! 美蘭、離れて!」


 僕は何も考えずに美蘭の肩をかりて歩いている自分に気が付いて、彼女から身体を離そうとしたが、彼女は笑っていた。


「私は白の王の娘だ。 お前がどれだけ穢れを身に受けても、私は触れられるし、害もない。 安心しろ」


 にかっと笑って、美蘭がぐっと腕に力を入れて僕の身体を支えてくれた。 

 泰山の森の中を歩きながら、浄化ゆえの『白』、炎のような猛々しい戦闘力ゆえの『紅』と王号について美蘭は話してくれた。


「ねぇ、蒼の王の号の所以って何?」


 美蘭は僕の問いに逡巡した。

 わかりやすく答えたくないというような表情だ。

 やっぱりやめておくと言いかけた僕に美蘭がつぶやいた。


「大空にたゆたうもの。 地に属さず、血にも属さず、ただ空にあるもの」


 意味がわからない答えに僕が小首を傾げた頃、先を歩いていた楼蘭がゆっくりと振り返った。


「血族から離れることを条件に時間を手にしたから『蒼』だ。 時間と理の枠を外し、ただ大空から見守るのが彼に与えられた約束事だ。 『そこにある』が彼の王号の意味だ」


「王号というか……諡名みたい」


 僕の言葉に楼蘭がくすりと笑った。

「王号とはそもそも死後にいただくものをいう。 僕も志貴も先にそれをもらっているだけだよ」

 先にもらうってどういうことだ。

 僕が眉を寄せていると君は素直だなと楼蘭が破顔した。

 横にいる美蘭の顔をみると、どこか苦しそうな顔をしている。

 何で、そんな顔をしているのと聞こうとしたところで、僕はとんでもない景色を目にした。

 長いトンネルをくぐりぬけた先の高い崖の先に広がる景色に腰が抜けそうになった。これはなんだ。街そのものが地下にある。眼前にひろがるのは地下帝国。表現するなら、それだ。

 いつの間にか地下に導かれていた。いや、途中に術が幾重にもかけられていたのだろうが、全く気づけなかった。

 

「ようこそ、泰山へ」


 吹き上げてくる風を頬で感じて、僕は息を飲んだ。

 歴史大作の映画撮影でも楽々とできてしまいそうな規模だ。

 楼蘭が行こうと顎で先を促し、僕は美蘭の肩をかりたまま歩みをすすめる。

 以前、おとずれた時は宮城の中で外を知らなかった。

 驚いたままの表情がおかしかったのか、楼蘭が吹き出していたが、僕はそれどころではない。

 そして、ところどころに人でない物が闊歩している。

 それは悪鬼ではないのだが、獣、いや、妖魔に見える。

 だが、どれも楼蘭が横を通ると丁寧にお辞儀をしてみせるのだ。


「百鬼夜行が挨拶……」


 美蘭が泰山だから当たり前だとつぶやいた。

 一気に冷や汗が噴出してくる。何が当たり前というのだ。

 あまりのスケールの違いに、心臓が落ち着けずに早鐘をうっている。僕はおだやかな日本に生まれたことを心底感謝した。


 

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