第3章

1 同志

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 北風が吹く時期はとうに終わり、春を超え、蝉時雨も間もなく去る。時間は刻々と進んでいくが、荷物を道路に投げ出したまま忽然と消えてしまった高校生三人については未だに発見の兆しもない。凶悪な事件などめったに起きないこの地域で、一度に複数の学生が姿を消すなど前代未聞の事態だった。


 周辺の幼稚園は休園し、小学校は保護者同伴の登下校、中学校は地区ごとの集団での行動が決められ皆が過敏になっていた。当初三人の在籍する学校では頻繁に全校集会が開かれ、この謎めいた失踪に関する情報を幅広く寄せてほしいとの呼びかけがあり、原因究明の対策委員会も設置された。また精神状態が思わしくない生徒が出たことにより個別カウンセリングの時間が増やされスクールカウンセラーの増員も検討された。保護者やマスメディアへの対応、度重なる緊急会議、教育委員会や公共団体との連絡に忙殺された職員が悲鳴を上げている。だが何も解決の糸口には繋がらない。


 やがて三人の不在が当たり前になり学校も周囲も静まり出し、徐々に穏やかな日常が戻り始める。だが近しい人間にとってそれは堪らない現状でもある。


「莉央のおふくろさんに会ってるか?」


 苦い顔をしてジョッキを傾ける小西に蒔田は静かに頷いた。いつも二人が訪れる居酒屋は相変わらず賑やかで一つも変わった事などないが、客の方にしてみればそのいつも通りの喧騒がこの上なく鬱陶しい。


「そうか。様子は」


「相変わらず」


「まあそうだよな」


 はあ、と大きなため息をついて殆ど減っていないビールをテーブルに置く。普段ならば乾杯のあとは必ず一気に胃袋に流し込むが、ここ数か月はちびちび唇を濡らして終わりだ。


「あいつが戻ってこないんじゃ、こっちも商売あがったりなんだけどなぁ」


 見かけよりは器用で立ち回りの上手い小西の言葉は文字通りではない。確かに莉央の不在で大きなウェイトを占めていた仕事は減ってしまったが、それでも昔の伝手などを頼り、それなりの収入は確保している。だが、問題は金銭的な話だけではない。大きな体を小さく丸めて枝豆をつまむ小西を眺めながら蒔田は胡坐の膝に置いた手を握りしめる。


「なんだか娘が嫁に行くときもこんな感じなんだろうなあとかって思うわな」


 力なく笑い冗談めかして言うが、めでたい門出ならばともかく事情は全く異なっている。学生時代から豪快なこの男が肩を落とす姿を目にするなど思いもしなかったと蒔田も薄い笑みを浮かべた。


「すっかり父親気分だな」


「お前だってそうだろうが。少なくとも莉央の方はそれに近い存在だと思ってるだろう。俺らはどっちかっていうと共同戦線張ってる同志ってところだよ」


「なんだよそれ」


「まあ莉央がいない今だから言うが」 


 小西から聞く話は蒔田にとっては初耳の事ばかりだった。自分が失踪していた数年間、莉央と小西がどれだけ自分の立場を守るために奔走してくれたのか。


「いい教え子さんをお持ちですね」


 そう言われたことは何度もあった。だが純粋に莉央の才能が褒められているのだと思っていた。莉央に報告すれば、いつでもはにかむような控えめな笑みが返ってくるだけだ。ただそれを目にするたびにほっこりとした胸の温かみを感じ、それは自分だけの物だという優越感のような気持ちを持った。引っ込み思案な莉央からの好意はそれでもストレートに伝わってきて、行方不明になっていた間に予想外に貶められ人間不信になりかけていた蒔田からすれば、無条件に信頼を寄せる莉央の存在は救いであり、幸福の象徴だった。


 だが自分がそう感じていた一方で、莉央は想像以上の負担を強いられそれに耐えていた。そんな事実を淡々と話す小西に対して言葉が出ない。自分の愚鈍さが悔やまれる。


 夜眠りに落ち、目覚めたら全く知らない場所にいた。それでもなんとか数年を生き延びて、このままそこで生涯を過ごすことも覚悟した矢先、ちょっとしたトラブルに巻き込まれた。気を失い、目を覚ますと病院のベッドの上。それが失踪の全てだ。作為でも何でもない、自分の意思は皆無であった。


 何もかもを話してしまいたくなる。莉央を案ずるあまり、大好きだった酒もろくに喉を通らなくなったとぼやくこの男に。


 だか言ったとして信じてもらえるのだろうか、目の前に座る少し頰のこけてしまった十年来の親友に。自分自身、自らの失踪の真相と、莉央達の行方が分からない事態に関連があるのかはっきりとした答えを持っているわけではない。あり得るのではないかという程度の不確かな情報を告げる事に意味があるのか。


 ぞくりと背筋に冷気が走る。蒔田は失踪していた間の事をただ一人だけに打ち明けていた。自分を認めてくれた師である大場舘山に。だが結果は惨憺たるものだ。舘山は蒔田の失踪当初からすでに彼に見切りをつけていた。それに驚き真実を告げようとした蒔田の決死の告白は、それに追い打ちをかける結果になっただけだ。いたずらに信用を落とし画壇から排除された。言葉を重ねても評価が翻ることはない。恐らく彼が衰え実権を失うまで公の場で作品を発表することは難しいだろう。評価の場に出たが最後、彼と彼の一派に容赦なく叩き落されることが分かっている。大場舘山は蒔田の話を世迷言とでも考えたのか、言いふらすことはなく、それだけが唯一の救いではあった。お陰で傷が広がる前に記憶喪失の振りをして、かかる様々な面倒から逃げ出すことができたのだから。


「なあ、お前もあったよな」


 静かに落とされた言葉に、目を向ける。考えていたことを察したかのように、小西は真っすぐに蒔田を見ていた。まるで睨みつけるような強い視線だ。


「内容によっては酔っぱらいの戯言だって笑ってやる」


 言うと同時にいつの間に頼んだのかも分からない冷酒を一気に煽りグラスをテーブルに叩きつけた。


「ほら、俺はもう酔っぱらいだ。お前もそうだろ」


 ずい、と盛りこぼしの入った桝と空になったグラスを差し出された蒔田は「間接キスかぁ」と笑いながら桝の中の冷酒を受け取ったグラスに注ぎ、同じように一気に杯を空けた。意を決して口を開く。


「僕はねえ、夜普通に寝ただけなんだよ。いつもと何が違ったかって言えば、そうだな、強いて言えば莉央ちゃんが小学生向けの絵画展だったんだけど賞をもらってさ、一人部屋で祝杯を上げて、酔いに任せてテレビをつけっぱなしにして眠っちゃったことくらい?」


 真実を語るにはまだ酔い足りない。小西の分まで冷酒を追加し、運んできた店員から手渡しで受け取るとテーブルに置くこともせずそのまま一気に煽る。「うわぁ」と若い女性店員は眉をひそめたが構わず、取りこぼしの方も今度は桝から直接飲み込む。目で合図をすると、小西もまた同じように飲み干した。ぷはっと大きく吐き出された息にアルコールの臭気が多分に混じる。


「俺らの飲み会にはな、莉央も誘ってあんだよ。あいつが二十歳になったら酔わせてぶっ潰してやるつもりだ。ガキのくせに我慢ばっかりしやがって。一度思いっきりガス抜きさせてやらなきゃならねぇだろ」


「そうだねぇ」


 最後に会った莉央の姿を思い出す。思い悩んだ様子はあったが、バロックの力の名残で作り出した花弁を楽しそうに拾い集めていた。普段の、浮かぶ感情を隠すためのよそ行きの笑顔ではなく、年相応の自然な笑顔。古い付き合いの蒔田には見せてくれる。些細な事だが、そんなことたった一つにでも人は簡単に情を覚える。


「じゃあ告白しちゃおうかな。頭が痛くて目が覚めたんだ。二日酔いするほど飲んだわけじゃないのに。そしたら全然知らない薄暗い部屋でひっくり返ってて、周りを外国人のおっさんに取り囲まれててさ、そいつらがまたなんだかよくわからない言葉話し出すのよ。英語とかドイツ語とか、喋れなくてもなんとなく雰囲気で分かったりするじゃん。だけどもう全然聞き覚えのない言葉でさ。状況分からな過ぎてつい愛想笑いとかしちゃってね。でもなんとなく、夢というにはリアルなんだけど、だけどあんまりにも非現実的で、ああ、僕死んだのかも知れないなぁって思ったんだよね、その時は」


 小西は相槌も打たず、つまみを口に運ぶ。蒔田もまた今度は軽めのサワーを注文し同じつまみの皿に箸を落とす。


「おっさんたちに混じって、中に一人だけ若い男の子がいてさ。頭からフードみたいなの被ってて、人相とか全然わかんない怪しい子なんだこれが。だけどその子が何だかグチャグチャ―っとした呪文みたいなことを言った途端、そこら中から「貧相な男が来た」とか「だらしない」みたいな文句が聞こえてきたんだよ。まあ僕寝起きだし、だらしないっての言われるのも当然なわけだけど、でもそこで今まで何言ってんだか全然分からなかった言葉が突然分かるようになった事に気付いたの。魔法かよ!ってツッコミを入れていいのか迷っちゃったよ。でもそんなめちゃくちゃ訳わかんないところとか、ますます死後の世界っぽくない?」


「おう」


 小西がこの手の話に懐疑的なのは長い付き合いの中でとうに知っていたことだ。疑り深いというよりは怖がりなのだろう。立派な体格や豪快な性格で現実的なものへはすこぶる強いが、反面未知のものへの畏れが大きいのかもしれない。車の免許を取ったばかりの友人数名と深夜のドライブにでも出れば、行き先の候補に心霊スポットが上がることは珍しくないが、いざ行こうとなれば腹が痛いだなんだと理由をつけて逃げてしまう。別に蒔田の話はそんな眉唾物の心霊話ではないが、聞くほうからしてみれば大した差はない。本当に信じてもらえるのかは蒔田にも分からなかった。だが話し始めた以上、そんなことを心配していても仕方がない。最後まで話し続けるしかない。


「そこは僕たちから見れば本当に死後の世界と変わらないんだと思う。今ある自分っていう存在が、そのままポンと違う世界に行っちゃってさ。元の世界の事なんかもう何にもわかんないの。神隠しにあった人とかってこういう状態なんだろうなって思ったよね。どうしてそこにいるのか、どうやったら帰れるのかっていうか、本当に僕生きてんのかなってのも、もう何にも分からなくて焦った焦った」


 酒を飲んでいるのに酷く喉が渇いているのは緊張のせいだ。蒔田は空になったグラスをテーブルの脇に押しやり次を頼もうとしたが「ウーロン茶」と小西の声がそれを遮る。


「酔っぱらいの戯言にするにはお互いまだ足りないんじゃないの」


「しねぇよ。だからそんな茶化さなくていい。ちゃんと話せ」


「信じるの?」


「まあ、莉央の為にな」


 ふうと息を吐き頭をガシガシと掻く小西は覚悟を決めたようだった。


「お前にとって莉央がどんな存在なのか知ってるし、俺にとってもあいつは、まあなんだ、あれだ、金の卵だな。帰ってきてくれなきゃお互い困るだろ。お前の話の中に何かしらの手掛かりがあれば聞き逃すわけにはいかねぇだろうが」


「小西君、やだ、もしかしてジョシコーセーにお熱なんですかぁ?」


 両手で口を押え茶化しながらそう言うと、珍しく真っ赤になった小西がおしぼりを投げつけてくる。


「馬鹿野郎! あいつがいなきゃこっちは商売あがったりなんだよ」


「僕だってそうだってば!」


 主催する絵画教室の唯一の生徒。他にも収入源はあるが、本来蒔田の本分はこちらなのだ。


「ああくそ、胸糞わりぃ。お前んちで飲み直しだ。ここは奢るから家飲みの酒代はおまえ出せよ」


「絶対そっちのが高くつく!」


「そうだな、長くなりそうだもんな。まあいいや、俺明日仕事入れてないし」


「こっちは入れる仕事すらないんだけど……」


「分かったよ、割り勘な」


「そうして」


 尻のポケットから皺の寄った万札を出し二っと笑った小西の肩を軽く叩いて蒔田は椅子から腰を上げた。

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Baroque 麻城すず @suzuasa

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