「悠は普段厚かましいわりに肝心なときには水くさいのよね」


 莉央の父、篤の病気について何の相談もしなかったことを晃流の母に愚痴られた母は「だって落ち込んでるところ見られるのって格好悪いでしょ」と拗ねていた。そんな調子だったから曾根崎家にもきっと何も言ってはいないだろう。知れば葵はともかく、紅太と橙基、大人たちだって黙っているはずがない。進学先が遠方で現在一人暮らしをしている紅太は帰省するたびに土産を持って莉央の顔を見に来るし、橙基にしてもたまに誘われて一緒に買い物に行ったりする。三人の母から「莉央、お嫁に来るならどの子選んでくれてもいいわよ」などど冗談を言われるくらいには仲がいい。


(葵くんだけ)


 どうしてあんなにこじれてしまったのだろう。何度も考えたことをまたぐずぐずと考えてしまう。いっそ葵の全てを切り離してしまえば楽になるのに莉央にはどうしてもそれが出来ない。何度もそうしようと考え、葵のことなど好きじゃない、どうでもいいと思おうとした。しかし今もまたこうして考えてしまっている。この世界で互いに歩み寄ろうとしていたところを引き離されてしまったせいなのかも知れない。


 もっともフォルスブルグエンドに落ちてきてからも葵に対する感情の波は常に複雑で莉央自身にも理解できない部分が多々あった。そんな諸々も、簡単には会えなくなった今、顔を付き合わせれば分かるのではないかと思ったりもする。


 下から定期的に聞こえていた短い指示の声が止んだ。その後男たちの怒号にも似た低いかけ声が響く。訓練が終了したのだ。


(葵くん、帰っちゃう)


 葵の姿を見に来たはずなのに結局ぐずぐずと考えごとに耽ってしまっていた莉央ははっとして顔を上げた。途端、ふわりと足下から舞い上がる風に何枚かの紙が空に散った。


「だめ!」


 あくまでひっそり見ているつもりだったのに思わず声が出た。慌てて空気に乗る紙を追うが、風はそれを嘲るようにひらりとさらっていく。つかみ損ねた一枚が手すりを越えて流され、宙を掻く手も空しくゆっくりと降下し、それが地面に着く前に諦めた莉央は身を屈めて頭を抱えた。


(やだもう、これじゃあ……)


 まさか先ほどの空想通りのことが起こるとは。


 莉央なりに行動はしてみた。しかしそれが他人に知れてしまっては困る。城の中に保護されているはずのインタージャーが易々と人前に姿を晒していいものか分からない。だからあくまで密かに覗き見るだけのつもりだったのだ。落ちた絵は葵の姿を描いたものだ。本人が見れば莉央が描いたものだとすぐに分かってしまうだろう。他の隊員が見てもしかり。莉央が描いたかどうかは分からなくても、葵の姿を隠れ見る人間がいることは容易に知れる。こそこそとしていることが露見するのは単純に恥ずかしくもある。


 だが、少しの期待もあった。胸がばくばくと鳴っている。莉央に気づいたとき、長く顔を見られずにいた幼なじみがどんな反応をするのか気にならないはずもない。


 そのまましばらく顔を上げられないままでいた。だが時間が経てば徐々に気持ちも落ち着いてくる。下からはもう声が聞こえない。恐る恐る柵の隙間から覗き見れば既に人の気配もない。


(誰も気づかなかった)


 安堵と、それから少しの失望が胸に疼いた。すると急におかしくなってしまって口元に笑みが浮かぶ。自分でも陳腐だと思うような展開を想像して、あまつさえその結果までも期待してしまうなど滑稽だ。笑いと同時に涙が一粒足元に落ちた。


「葵くん」


 ずっと気を張って大人振るにも限界があった。どうにかしなければならないのにどうしていいのかが分からない。王子と交わした約束は、身の安全は保障するものの帰還を許すものではない。同じ顔をしたマベルは和やかに会話を交わしはするがそれだけだ。魔法省のカイトとは世間話はすれども、人見知りのある莉央にはまだ気を許せる存在とは言いがたい。唯一この世界で頼れる存在となってくれたディノとも会えず、もう心は限界に近かった。


「葵くん」


 一度声に出すと止まらなくなった。どうせ近くに誰がいるわけでもない。


「葵くん、会いたい」


 しゃくりあげる。一度溢れだした涙は止まることを知らず止めどもなく流れ落ちる。手元に残った紙にポツポツと音を立てて落ちていき、じわりと小さな染みを作った。


「葵くん、私帰りたいよ。一緒に帰ろうよ」


 鼻が詰まる。涙が喉に流れる。顎に痒みを覚える。だが拭うことはしなかった。思い切り泣きたかった。


「体なんて鍛えなくたっていい。強くなる必要なんてない。だって私たち帰るんだもん。そんなことしたってしょうがないよ」


 ずっと心の奥にしまっていた言葉が口をつく。認めることは惨めだった。目をそらしたままでいたかった。


「葵くん、楽しそうにしないでよ。こんな世界に馴染まないで。私のこと、置いていかないで。葵くん、私と一緒にいてよ……!」


 葵の前では決して言えない言葉を吐ききった莉央にできることはもう泣き崩れることぐらいのものだった。思い切り泣ききって、ようやくしばしばする目を擦りながら顔を上げたとき、そこに莉央は見た。


「お前の声、聞こえちゃったんだけど」


 気恥ずかしそうに目線を逸らしながら内廊下からの扉の前に立つ葵の姿を。


「あ、おい、くん?」


 声が掠れたのは泣きすぎたせいか、緊張のためか。それも分からずぽかんと見上げる莉央に柔らかい視線を送りながら歩み寄った葵は小さな体に覆い被さるようにして莉央を包み込んだ。


「寂しかったんだな」


 背中をゆっくりと優しく叩かれる。触れる温もりがまだ信じられなくて顔を上げると、額に葵の唇が触れた。


「あ、悪い」


 それほど近い距離にいたのに気づいた莉央は思わず身を引こうとしたが葵の方には焦る様子もなかった。しかし逃げようとした気配に呼応するかのように背の腕を解かれかけたことに気づいた莉央は反射的にその衣服をぎゅっと掴んだ。そして先ほどと同じ体勢になる。葵はそれを止めなかった。引き寄せられるがままに再び莉央の背に手を回し優しくリズミカルにそれを動かす。


 泣きすぎて頭に酸素が回っていないのかも知れない。どこか夢の中にいるような心地で莉央は思った。こんな風にあやすことなど葵はなかった。幼い頃から何かから庇ってくれた後には「お前がちゃんとしないからだろ」と叱咤されるのが常だった。甘やかすのはいつだって晃流の役割だった。だが今はそんな違いなど些細なことのように思える。


 葵の胸の中で幾度も深呼吸を繰り返した。少し汗くさかったが不快には感じなかった。それよりようやく触れたこの温もりを手放すことが不安だった。


 だがしばしの時を過ごし冷静になってくれば段々と落ち着かなくなる。結局莉央がその後一番最初に口にした言葉は


「葵くん、今日は怒らないの?」


 そんな疑問だった。一瞬葵の表情が強ばり、それで失言だったことに気づいた莉央はその先の言葉を想像して体を堅くしたが、ふう、と深いため息の後「怒らない」と優しく落とされた言葉に驚きで顔を跳ね上げた。


 ごきっと音がしたと同時に葵は尻餅をつき、莉央の目には火花が散る。お互い顎と頭を押さえ、暫く痛みに悶絶したあと、


「今怒った」


 その言葉に「ごめんね」と顔を上げた莉央は、言葉に反した笑みを浮かべる葵に目を瞬かせた。


「俺、そんなにいつも怒ってたっけ」


「うん……」


 惚けたように見上げる莉央の視線が葵には新鮮だった。今までとの違い、変に堅すぎず、かといって子供の頃ほどには気を許されていない。これが今の莉央なのだと改めて知る。


「お前があっちから出てきてくれて良かった。俺たち、向こうの棟には入れないんだ」


「私たち、こんな風に会っても良かったの?」


「ああ、申請がどうとか言われてたけど、偶然会えたようなもんだし別に問題ないだろ。隊長も特に何も言ってなかったし」


 ひらりと服の中から落ちた絵を取り出して葵は笑った。遠目に写し取っただけのデッサンだったが葵の体型の特徴はしっかり描かれているので人物の特定は容易だっただろう。A4ほどの大きさの紙に大きさを問わず十体以上描いてある。それが執着の表れのように感じられて、改めて自分で目にすれば羞恥の心がわきおこる。


 それにしても葵の言うとおりだったとしたらなんて無駄な時間を過ごしていたのだろうと莉央はため息をついた。さっさと行動さえしていればこの数ヶ月は必要なかったのかも知れない。それが出来なかったのは臆病すぎる自分のせいだ。


「そういやさ、お前普段何やってんの?」


「前と一緒。魔法省の方と力の使い方を練習してるよ。座学はお休み中なの」


 事情通のショウナのおかげで葵もそれは知っていた。莉央を勝手に城下に連れ出したディノは無期限の謹慎を言い渡されている。もっとも職務については立て込んでいるため、謹慎というよりは職務室での拘束といった色合いが強いらしいのだが、とにかく莉央の教育係としては面会を遮断されている。


 城下で二人を目撃したあの日、二人の関係に教育係とその生徒以上のものがあることを疑ったのだが、わだかまりとならなかったのは一緒にいたミンナのおかげだった。もし一人であの場に遭遇していたら、今まさに莉央を問い詰め責め立てていたかもしれない。そんな筋合いなどないにも関わらず。


 もしそうしていたならば、先ほどの窺うような様子からして莉央は再び葵を遮断していたことだろう。そうならずに済んだことに深く感謝しながら葵は話を続ける。


「体動かしたりは?」


「機会がなくて。今もちょっと早足しただけで息切れしちゃった」


 恥じるように笑う姿を葵はまじまじと見定める。元々莉央は痩せ気味であったが、さらに細くなったように見えるのは筋肉が落ちたせいなのかもしれない。


「たまには一緒にテニスやる?」


「テニス?」


「ああ、ラケット作ったからいつでも出来る」


「え、自分で作ったの? 葵くんすごい!」


 莉央が感嘆の声を上げたのに葵はほっとした。先ほどから考えすぎているように感じたからだ。せっかくの再会なのにぐずぐずと悩んでは欲しくない。その為にガットを用意するためにどれだけ苦心したか、ラケットを削り出すのに何度指を傷つけたか面白おかしく話したが、莉央の方はそれでまた葵の順応性に密かに落ち込む結果となっていた。互いに空回っていることには全く気づかない。


「葵くん、そろそろお昼だけど……」


 とうとういたたまれなくなった莉央が声を発した。


「ああ、俺は別に。午後半休だし、一緒に食堂に行って食う?」


「私はシイナさんが部屋に用意してくれるから戻らなきゃいけないと思う。ここには内緒で来たから」


「そうなのか……」


 しばしの沈黙が訪れた。どう口火を切ろうかと考えあぐねる莉央には声を出せない。何となくうつむいてしまう。葵がいつもと違い妙に優しいのが何故かを知りたいと思ったが、先ほど顔を強ばらせたのを忘れていなかった。下手なことを言えばまた怒られるかもしれない。ならば些細な疑問は飲み込むのが得策だ。


「なあ」


 莉央の頭に重みが乗った。怪訝に思い顔を上げると、葵の顔が間近にあって少し驚いた。感じる重みは目の前の葵の手だった。何度か優しく撫でられて、それで思い出したのは晃流に抱きしめられた時のことだった。あのとき晃流もこうして莉央の頭を撫でていた。髪に指を通し、梳くように何度も。


 晃流に会えない今、それは既に遠い思い出となっていた。目を閉じればあのときの気持ちが蘇る。三人で仲良く過ごした子供の頃を再び思い出し、そして。


 莉央が瞼を持ち上げたのは、一瞬の後だった。


「また、明日。この時間にここで会おう」


 少し掠れた声が耳に残る。


 目の前に立っていたはずの葵は既に後ろを向いて歩きだしていた。大股で、早足気味だったのであっと言う間に扉の横にある階段を降りていってしまう。


 それを最後まで見送った莉央は、一人になってなお動けないまま佇んでいた。


「え……」


 自分の身に起こったことが信じられず目を瞬かせた。そろそろと手を持ち上げ、指を唇に這わせてみる。先ほど感じたものが気のせいではない証拠がそこにあった。


 僅かに濡れた指先を眺めてもまだ信じられない。


「葵くんが、わたしに?」


 キスを。


 それを声に出すことはもちろん、恥じることも憤ることも出来ず、莉央はただ呆然と葵の去った方を見つめ続けるだけだった。


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