※※※



 朝、明るくなると同時にシイナが部屋を訪れる。普段であればまだベッドの中の時間帯に起き出すのは苦であったが、何日か続けば慣れてくる。そのときに着替えを運ばれ、着付けをされる。装束は見慣れないもので手伝ってもらわなければ自分では着ることができず、莉央は大人しくそれに頼った。


 食事は葵と一緒に、初日よりも小さな部屋で摂っていた。朝はほとんど会話をしない。その後の行動が別になる二人は食事の時間も入れ違いに近く、そのため挨拶を交わす程度だ。大抵先に食事を終える葵はヤンナについて軍の訓練へ、莉央は晴れて教育係となったディノの元へ赴く。


 喜々として教材を広げるこの大法官府長補佐の男は、その持ち時間の半分を莉央への質問で消費する。


 主に政治の話題となるので、一般常識程度しか把握していない莉央にとっては少し苦痛な時間である。だが分からないと答えれば、ディノはたやすく別の疑問を投げかける。未知の世界への興味は尽きないらしい。


 莉央は必死に問いへの答えを探り出す。曖昧な答えにディノが納得しない場合は葵に確認することを条件に保留にしてもらう。


 おそらくディノは直接葵に聞きたいに違いない。葵は莉央よりも、教科的な意味で政治経済が得意だ。しかし言葉の壁があるため、矢面に立つのはもっぱら莉央だ。


 そんな時間が約二時間。その後は休憩と昼食を挟み、バロックとしての力の使い方を学ぶ。教師は王城に勤める魔術師達だ。役は固定しておらず、その日によって替わる。ディノとの時間より、人見知りのある莉央にとって苦痛な時間だった。


 修練に使われる場所は王城内のスポットと呼ばれるところだ。窓のない正方形に近い形状の部屋である。広さは沢良宜家のリビングより少し広い程度に莉央の目には映った。もっともマンションのサイズだからさほどの広さはない。十畳あるかないかというところだろう。


 室内四隅には腰ほどの高さがある小さな、しかし豪奢な台が備えられており、その上には円状のトレイが置かれている。そこに黒い紙が敷かれていて、さらに大粒の真珠が乗せられていた。


 ディノからの説明で莉央はそれがどこから運ばれたものなのかをすでに知っている。


 国土の半分以上が海に面しているフォルスブルグエンドという国の王都は魔女の目という俗称で呼ばれている。東側に突き出た大きな半島は少し湾曲していて鉤状に見えることから魔女の鼻と呼ばれているらしい。その南側にある入り江は魔女の口。そのまま地続きに西は隣国イルデブランドの領地となる。


 イルデブランドは海から北に伸びる縦に長い鉱山地帯を有している。この鉱山は南の海に少々突き出た形をしていることから、魔法使いの喉仏と呼ばれており、それに続くように更に北には油田地帯が広がっている。イルデブランドの王都プラスラはその東側にあり、大陸の形状とその位置から魔法使いの耳との呼び名を持つ。


 燃料資源に富んでいるイルデブランドだが、国力はさほど強くない。国土は大きいが、豊富な資源は東側のみ、鉱山や油田の帯西側は砂漠地帯が広がっている。作物の育成に向く土地が限られているため食料時給率は低く、資源を切り売りする代わりに他国からの援助を受けている。


 反してフォルスブルグエンドは肥沃な大地と水産資源に恵まれており、その中にはスポットに置かれた真珠玉も含まれていた。魔女の鼻はその形状のため古い時代から真珠の養殖が盛んであり、また不思議なことにこの場所で育つ真珠には微量な魔力が含まれている。装飾用の真珠とは別に、これらは魔真珠と呼ばれていた。


 指導の初日に魔真珠を加工した指輪を与えられていた。虹色に光るその粒は相変わらず莉央の目にゆらゆらとした陽炎を映す。


「リオ様、まず朱から参りましょう」


 指示に従い指輪をした右手を正面に翳す。指先を前にぴんと伸ばした。その先には小さな蝋燭が置かれている。


 もう二週間近く繰り返されている聞きあきた言葉に、ややうんざりしながらも表情には出さず教えを受け入れる。


「難しく考える必要はありません。あの蝋燭が燃えているというイメージをするだけです。意識下の元、それが視界に映るまでに現実味を帯びれば、たちまちあの蝋燭は燃え尽きるでしょう」


 イメージはできている。目の前の蝋燭の芯が燃え上がるのを目に浮かべることは初日からたやすく出来た。


 しかし炎は生まれない。蝋燭は微動もせずそこにあって、しばらく続けてもなにも起こらない。


「……碧を」


 今度は魔真珠に左手を重ねる。別の場所に置かれた水瓶に向かい、その中身が飛び出してくる様を浮かび上がらせる。だがこちらも、水面に波一つ起こらない。


「では黄を」


 指輪を今度は高く掲げる。自分を中心に風を巻き上げるイメージを作り出す。が、やはり全くなにも起こらなかった。


 作業としては難しいものではない。けれども真剣に集中すればするほど精神的な疲労が溜まる。


 教師役の魔術師はあきれた様子を隠そうともしない。それがまた莉央にはプレッシャーとなり、よけいに疲れを重ねるのだ。


「今までのバロックは初日にはもう使いこなされていましたが、インタージャーともなられると余程の力がいるのでしょうかね」


 嫌みをはっきりと口にされる。


「ごめんなさい」


「私に詫びる必要はございません。けれども王子をあまりお待たせになりませぬように」


「努力します」


 インタージャーとして自分がすべきことは教えられていない。しかしせめてその力を使いこなすことが出来れば、王子に対して対等とはいかないまでも発言力を持つことが出来るのではないかと莉央は想像していた。


 インタージャーの存在はどうやら希少なもので、また他の人間にはない力を持ち得ているらしい。王子が異なる世界からわざわざ呼び寄せるほどに必要としているということは、簡単に代えられるものでもないはずだ。


 ディノの話を聞いている限り、その呼び出しは頻繁には行われていない。それ自体たやすい行為ではないのだろう。


 ならば王子の望む力を使いこなし、呼び出しの目的を満足いくように遂行すれば、晃流の救出と自分達の世界への帰還を叶えてもらえる率が上がるのではないか。そう考えて莉央は延々続く指導を受け入れている。


 だが望まれている力は全く生じる気配すらない。最初は指導役も魔法省の幹部だという年輩の男達だったが、一週間も経つ頃には早々に見切りをつけられたのか、おどおどとした見るからに新人らしき若者や、適当に時間を過ごそうとする怠惰な者が来るようになった。


 今日の指導役は一通りの練習に付き合った上に会話までしてくれているのだからまだましなほうである。


 二時間ほどの教習を終え、葵のいる客間に向かう。言葉を学ぶための時間を軍から許可されているため、莉央が部屋に着く頃にはすでに入浴を済ませて待っている。そのため回廊を進む足は無意識に速まる。


 軽く息切れをしながら扉の前に立ち、しかし何度か深呼吸をして呼吸の乱れを落ち着けてから重い扉を叩く。


「お疲れ」


 内側から開かれ、気だるい様子の葵が顔を出す。


「お疲れさま」


 負けずに疲れた顔をした莉央が返し、招かれるまま部屋に入る。


 莉央の教育係はディノの強固な意志と王子の一声であっけなく決まった。ネルからは葵との時間は莉央の教育係が決まるまでと言われていたが、余りにあっさりと決まってしまったため葵が言葉を学習する時間が足りず、特別に期間が延長されていた。


 文法は日本語とほとんど変わらないため、葵はとにかく語彙を増やすことに専念している。日本語とは違う言い回しや例えも多く、莉央も簡単な慣用句やことわざのようなものを覚えたほうがいい。そうヤンナからアドバイスを受けたため、莉央は慣用句事典を、葵は国語辞典をひたすら読みふける。そして一日の終わりに互いが覚えた言葉を説明しあい、確認する。


 それがこの二週間毎日繰り返されていた。


 変化がない生活。しかし疲れた顔をしていても、葵は軍でのカリキュラムに徐々に順応してきている。最初の一週間は突然始まった激しい運動に、自室に戻っても酷い頭痛で、一度横になったら起きあがれずにいた。そのため莉央も言葉を教えるという名目で訪問していながら、実質は看病で夕食までの時間を過ごすこととなった。


 しかしそれを過ぎると体が慣れてきたのだろう。ある日を境に体の不調を訴えることがなくなった。むしろ短期間にも関わらず今までとは違う場所に筋肉が増えてきたのが見た目にも表れはじめ、よほど嬉しいのか下手をしたらセクハラまがいの裸体披露を始め、莉央は正直辟易していた。


 葵は自分の体の変化を驚くほど無邪気に喜んでいる。それが分かっているため、毎回恥ずかしくて心臓が割れてしまいそうだと思いながらも、葵を止めることはしなかった。


「莉央、超能力っぽいやつ使えるようになった?」


「ううん」


 毎日投げかけられる質問。そして返すのは変化のない言葉。


「そうか、結構難しいんだな」


「……そうみたい」


 椅子の背もたれに体重を預け、ゆらゆらと揺れる葵は莉央の表情が曇ったことに気づかないまま、辞典を眺める。全く変化のない二週間を繰り返しているのは自分だけだということが莉央の心に重くのしかかっていた。


 早く晃流を助けたい。


 ディノから受けるこの世界についての講義は未知の知識を得るという意味で興味深くはあったが、同時に長居をするつもりのない国の政治など知る必要性もないと思っている。インタージャーとしての力にしてもそうだ。


 それでも大人しく聞き指導を受け入れているのは、それが自分たちの世界へ戻るためのステップになるはずだからだ。


 しかしおそらく葵はそれだけではない。必要に迫られている部分があるにしてもそこから生じる自分自身の変化、それは体力的なものだけでなく、言語の習得も含めて、新しいもの全般を好意的に受け止めている。


 そこが葵と莉央の大きな違いで、きっと相入れられない部分なのだ。


「なんだよ」


 視線を感じたのか葵が不思議そうな顔をして莉央をみた。


「ううん」


 笑って誤魔化すのを疑う様子もない。それが莉央に罪悪感のようなものを抱かせる。


 莉央よりも言葉が分からない分ハンデが大きいはずの異世界での生活を楽しめている。妬ましく思うのが筋違いなのは分かっていた。葵が努力をしていることも重々承知の上だ。しかし、こればかりはどうしようもない。莉央にはそこまでの余裕がない。


 意味の分からない言葉に顔をしかめる葵の質問に答えながら、そんな自分を嫌悪した。


 そのうちシイナが夕食の時間であることを告げにきた。莉央にはそれが救いのように感じる。これ以上葵に自分勝手な嫉妬を抱くことが嫌だった。


「あー、軍の食堂あんまり旨くないんだよな」


 伸びをしながら立ち上がる葵に向けて何とか作り出した笑みを見せ、莉央はテキストを整える。


 葵はヤンナに引き取られた一週間前から軍の宿舎に居住していた。いずれ、ネルのいうところによると「慣れてきたら」共にしている朝食も別に摂ることになるらしい。現在一日の中で、二人が一緒にいる時間は正味三時間ほどである。


 最初は離れるのが不安で周囲の視線など関係もなく同じ部屋を望んだ。もちろん幼馴染み同士、男女としての関係性は皆無だったために莉央はその行動を他の人間がどう受け取るかをろくに考えもしなかった。ネルとヤンナに咎められなかったせいもある。


 しかし城内に入ると、すでに別室に居を構えているにも関わらず、事あるごとにそれを責められた。口さがない人間というのはどこにでもいるものだから仕方がない。しかし事実無根だから納得は出来ない。それでも、周囲が言わんとすることが分からないほど幼くはなかった。


 今、こうして葵と二人だけでいる時間を、理由はどうあれよく思っていない人間はいる。


 城に入った初日に会ったきりの王子エルヴィラは王族の中でもあらゆる面において秀でているらしい。成人前に父王が倒れ、それ以来国政の面に立つこの青年は、十何年も前にこじれ国交が制限されていた隣国との交流を全面的に回復させた。再開された貿易により生まれた利潤は膨大で、豪商を配下に持つ貴族たちは完全に王子に心酔している。


 見目も麗しくその姿を目にした娘は皆一様に王子の崇拝者となる、とこれはディノの言葉だが、そのためか王子は成人した頃から常に顔を隠すようになり、ここ数年素顔を目にするのは身内か側仕えの数人のみ。そういえば莉央たちと面会したときも、フードで顔を覆い、目にすることが出来たのは口元だけだった。


 用心深さに感心する。そこまで徹底的に隠す必要があるとは思えない。顔を出さないのが公の立場にあるものとして不自然なように感じるのは、自分たちの世界では王族が象徴としての役割を果たしていることを知っているせいかもしれない。


 とにかく少しの疑問を持ちつつもこの国での王子の評価を耳にすれば、近い将来、王子の側に仕えることになるであろう莉央に他者が求めることは察しがつく。


 知識、知性、それなりの立ち振る舞いはもちろん、清廉であることは重要だろう。他の男の影を窺わせるようでは駄目だとディノにも言われた。


「じゃ、莉央。また明日な」


「うん。またね」


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