4 深窓
1
髪の長い少女が一人で震えていた。たすけて、と全身で叫んでいる。けれども口には決して出さない。それがじれったい。手を差し出しても取ることに戸惑いを見せ、許容量一杯まで我慢する。
タイミングが良かったのだ、きっと。もう少し遅ければ彼女は崩れてしまっていただろう。
まだ腕の中に残る気がする莉央の温もりを思い返しながら、晃流はベッドの上で微睡んでいた。
側に腰掛けている年を取った女性との会話はほとんどない。目が覚めてから今まで、まともなコミュニケーションをとれる相手はいなかったが、自分の状況についてはなんとなく把握出来ていた。
どうやらここは海外で、かなり裕福な人物の住まう豪邸らしいということ。窓からの日差しの位置からみて高層の建物ではないだろう。少なくとも自身の置かれている部屋は一階もしくは二階あたりの低層階だ。
外からは車の音が聞こえない。単純に庭が広いとかそんな理由ではないと思われた。なぜなら木々のざわめきや草木の放つ香りが皆無だからだ。風の音が高音なのは、恐らく周囲に石が多いせいだ。岩場に近い場所に建っているのか、もしくは石やタイルで覆い尽くされているのか。
しかしそれがわかったところでどうにもならない。体を動かすのが酷く億劫であったし、幾度か聞いた傍らの女性の言葉は全く訳が分からず、晃流はただ、一日に二度運ばれてくる食事を女性の介助を受けながら胃に流し込みひたすら横になっているだけの生活をしていた。
(莉央ちゃんと葵、一緒なのかな)
修羅場になるかと思われたあの日の夜、気づいたら早朝の森の中にいた。木々の隙間に気を失っている莉央と葵の姿を認め、なぜこんな場所にいるのかをいぶかしみながらも二人の無事を確かめるため歩み寄ろうとした瞬間後ろから何者かに拘束された。もがく間もなく頸部をきつく絞められ、そして再び意識を失い、目が覚めたらここにいた。
誘拐、なのだろうか。すでに数日この場所で過ごしているが、二人には会っていない。しかしそれに焦燥感を覚えるほどの体力が晃流にはなかった。続く倦怠感のせいか思考もおぼつかないままでいる。
傍らの女性は晃流に構わず熱心にレースを編んでいる。何のためにここにいるのか分からない。食事の手伝いだけならば、ほかの時は退室していても構わないだろうに、日がな一日ここでこうして手仕事を続けている。
まるで見張られているようだと晃流は思った。
しばらく寝たきりのような生活で食事以外に声を出すこともなかったせいか喉の調子が悪い。しかしいくら倦怠感が続いているとはいえ、いつまでもこのままの生活に甘んじているわけにもいかない。少し緊張するが声をかけてみる。
「あの、すいません」
最初こそ少し掠れたものの、出した声はさほどおかしくなかった。女性は少し驚いたように顔を上げる。口が利けないとでも思われていたのだろうかと晃流は考えたがどうやらそうではないようだ。立ち上がるとこちらを見もせずに部屋を出ていく。
多少の勇気を振り絞って声をかけたのに無視されたことに気が抜けて、晃流は肩に入っていた力を抜いた。
仰向けに見上げる天井は梁が白く塗られており、そこにはめ込むような形でフレスコ画が配置されている。どうやら宗教絵のようだ。特に興味はないが、退屈な毎日の慰めにはなった。明るい色合いが鮮やかで目を楽しませてくれる。
人の気配が完全に無くなることを特に望んだわけではなかったが何となく落ち着いた。全く関わりのない人間が隣にいて、さらに世話まで焼かれ、おまけに会話も出来ないとくれば、多少の緊張は誰でもするだろう。
しかし五分と経たず女性は戻ってきた。そして再びベッドの脇の椅子に腰掛けると編み物の続きを始める。
一体今の行動の意味は何だったのだろうと思いながらも晃流は目を閉じた。老女が戻ってきたせいで再び窮屈さを感じる。相手が何をする気もないならこちらものんびりさせてもらおうと体の力を抜いて、そうしてまた少しうとうととする。
突然ガタガタと椅子が動く音がした。再び微睡みの中に身を落とそうとしていた晃流はそれに驚いて目を開く。目の前には腰を低く落とす老女。その前には長い黒髪の、目鼻立ちのはっきりした白人の女性が立っていた。
「起きあがることはできるか」
不躾に聞かれ晃流は体を起こそうとしたが、長く横になっていたせいか目眩がした。途中で一度動きを止め、回る視界が収まるのを待ってからゆっくりとベッドに座り直す。
「体はどうか」
落ち着いた声と口調。深い緑の瞳がじっと見下ろす。三十代前半といったところだろうか。艶やかな髪と透き通る肌。まるで女優のようだと晃流は感嘆の息を吐く。
「少し頭がくらくらしてますけど、悪くはないです」
「そうか」
女は少し考えるようにして言葉を紡ぐ。
「君は日本人か」
「え、はぁ」
「マキタ、わかるか」
「マキタ?」
何を指しているのかがよく分からず聞き返すと女性は少し目を細めた。
「マキタは日本人。バロックだ」
日本人の、マキタ。心当たりがある。しかしここでその名を聞く意味が分からない。バロックという言葉も。
「画家の人ですか」
「ガカ?」
女性はそれほど日本語がうまくないようだった。片言で紡がれていた言葉は、そこで止まってしまう。
「絵を描く人です」
「ああ」
言い直した言葉に納得したように頷き「ガカだ」と繰り返す。晃流よりだいぶ年上だが微笑ましくみえる。
「あなたの言うマキタさんと一緒かどうかは分かりませんけど、友人の絵の先生をされている方に蒔田さんという人がいます。蒔田大祐さん」
「ああ、ダイスケ」
途端女性は晴れやかな笑顔を浮かべた。
莉央の師である蒔田とこの女性の関係は分からない。女性は晃流には理解できない言葉で傍らの老女に何かを伝えると、老女が部屋を出ていくのを待って再び口を開いた。
「マキタはバロックだ。君もそうだな」
「バロックですか?」
先ほどから出る言葉に首をひねる。晃流の様子を不審に思ったのか女性は少し眉をひそめた。
「何も知らないのか」
「え、はい、まぁ」
知らないと言えば、今の状況も相手のことも全てが分からない。今更かとも思ったが、まずこちらが確かめるべきことがある。
「あの、とりあえず聞きたいんですけど、ここどこですか」
「ここは私のきょじょう」
「きょ?」
きょじょうなんて地名があっただろうかと考え、少し遅れて納得する。居城だ。城だなんて大層な物言いだが、それもあながち誇張ではないのかも知れないと納得できるものがあった。
天井のフレスコ画はいわずもがな、調度品の一つ一つが華美ではないが重厚な作りである。こうして体を起こして今初めて室内をしっかりと目にしたが、和風なものは何もなく、最初の印象通り見るからに海外の豪邸、城というのにも納得がいく。しかし城で眠っていた理由が晃流には全く理解出来ない。
「ここはイルデブランドの王都プラスラ、通称魔法使いの耳と呼ばれている」
「魔法使いの耳?」
「ああ。この大陸は東側が人の横顔のような形ををしているのだ。東の隣国フォルスブルグエンドの王都は目、突き出た半島が鼻、その南にある入り江を口と呼ぶ。ここプラスラは耳、それから南の高山地帯が喉仏と呼ばれている」
「へえ……」
そんな特徴のある大陸があっただろうかと記憶を辿ってみるものの、心当たりがない。けれども世界は広いのだ、普段の不勉強が祟っているのだろうとは思えども、まさかここが異世界などとは今の晃流は当然想像すらしない。
「で、どうして俺はここで寝てるんですか」
肝心なのはそこだ。どうやら外国にいるらしいことは確定した。だがそこに至る過程については未だ分からない。
「友達も二人、一緒にいたはずなんですけど」
「男と女か」
「はい、ここにいるんですか」
女は二人のことを知っているらしい。晃流はほっと息を吐いた。だが、
「その二人はフォルスブルグエンドにいるだろう」
落とされた言葉に戸惑った。
「友達、というのは髪の長い少女と、線の細い少年だろう」
「はい、まあ」
少年少女という年でもないだろうが、女性からみればまだ十代の二人はそういう年代に見えるのだろう。もちろんそこに自分も含まれていることに晃流は気がついている。
「三人もいるとは思わなかったのだ。バロックは大抵一人ずつ現れる。だから一人で行かせた。私の思慮不足だ」
「そうですか」
言われていることの意味がさっぱりわからない晃流はただ相づちを打つのみだ。すると女性はそれに気づいたのか少し目を細めた。
「君の名は」
「芝形晃流です」
「私はアレシア。アレシア・クロエ・イルデブランド。君の知らないことを教えよう。だから君には協力をしてほしい。フォルスブルグエンドに捕らえられた君の友人を取り戻すことも約束する」
捕らえられたなどという不穏な言葉に晃流は思わずシーツを握りしめる。先ほどの夢が脳裏に浮かぶ。たすけて。小さくうずくまり、肩を震わせているのに、それでも晃流に手を伸ばすことのできない莉央の姿。
そこにもう一人の幼なじみの姿が浮かんだ。彼が手を伸ばしてもきっと、莉央はそれを求めることはしないだろう。
「莉央ちゃんと、葵。一緒なのかぁ」
まずいな、と晃流はひとりごちた。
二人の幼なじみが一緒にいるのならば本来なら安心すべきなのだろう。あの莉央が、もし今の晃流のように一人で知らない土地で目を覚ましたのなら、単純に動揺するだけで終わるとは思えない。
人一倍臆病で打たれ弱く、人見知りの性格が災いして良好な対人関係を築くまでには苦労するはずだ。それだけでも二人が一緒であることは不幸中の幸いだと言えるはずだった。
しかし莉央と付き合いだした直接のきっかけである葵が莉央と一緒にいる。また心ない言葉できっと莉央を傷つける。そう思えば早くそんな状況から助けてやりたいとも思う。ましてや目の前の女性アレシアは二人が捕らえられていると言った。
「俺に出来ることならします。だから莉央ちゃんと葵に会わせてください」
ベッドの上に正座をして頭を下げた晃流に、アレシアは少し険しい顔をする。
「ああ、だが少々長期線で挑まねばならない。君には色々やってもらうことがある」
すぐにどうにかなるのかと考えていた晃流は思いもよらない言葉に隠すことなく失望を見せた。
「ヒカル、まずは言葉を知ることだ。私は女王ゆえにあまり頻繁にここには来られない。代わりに私の側近の男をつける。彼もある程度の言葉は分かるからなるべく短期間でこの世界の言葉を身につけるように」
聞き捨てならない言葉に晃流は大きく反応する。
「女王? 女王って」
確かに名乗られた時に国の名前を名乗っていた。アレシア・クロエ・イルデブランド。しかし仮にも一国の王と単なる高校生がこんな簡単に対面を許されるものなのだろうか。しかも。
「この世界って」
「この世界では基本的に全ての国で共通の言葉が使われている。三百年ほど前の教育改革協定で定められたおかげで、古典を読む以外では共通語さえ知っていれば他国との交渉に不自由はない」
「俺が引っかかっているのはそこじゃなくて」
「ああ、では改めよう。私はこの国の第十三代女王。君はマキタと同じニホンという国からきたのだが、それはこの世界とはまた別の世界にある国だ。君たちはバロックと呼ばれる存在。異世界から稀に落ちてくる、この世界の人間とは異なる力を持つ人種」
「えぇ?」
「詳しく知りたければ言葉を覚えなさい。ニホンの言葉を分かるのは私と私の側近だけだ。だが君の友人を救うには皆の助力が必要だ。人を動かす為には、君が自分の言葉で話す必要がある」
ぽんぽんとリズミカルに紡がれた言葉を理解する暇もない。
「ヒカル、期待している」
ぽかんとしている晃流にそう言い残して部屋を出るアレシアと入れ違いに大柄な男が入室してきた。席を外していた老女が案内してきたのだろう。扉の隙間にその姿が見て取れた。
褐色の肌と黒い短髪、猫のようにつり上がった瞳はアレシアと同じ緑色だ。服の上から見ただけでも筋肉が盛り上がり、随分と逞しい体つきなのが分かる。
「エリアス・アドラー。私はあなたに言葉を教える。早く覚えないと、あなたの友人、間に合わない。危険」
アレシアとは比べものにならない稚拙な日本語を使う男の口から出た不穏な単語に驚く。アレシアの言葉ぶりではそれほどの緊急性を感じなかった。
「言葉覚えた後は、あなたの役目教える。あなた重要」
「お願いします」
決して状況を把握できたわけではない。むしろ中途半端にもたらされる言葉は危機感をあおるばかりだ。異世界なんて言葉に実感はないし、今のところ信じてもいない。
だがエリアスの言葉に偽りは感じられない。信じてはいないながらも一気に緊迫した状況に身を置かれた気になった晃流は、それでも逸る気持ちを抑え、深々と頭を下げた。
時さえくれば全てが分かる、 唯一そこに希望を見いだして相手を頼るしか術がなかった。
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