第7話 幸せな夢


 夢を見ていた。幸せな夢を——。


 春の陽気に包まれた庭園は桃と白木蓮の木が競い合うように咲き誇っていた。薄紅色の花弁と雪色の花弁が時折吹くそよ風にさらわれ、地面に落ちる。花弁の絨毯を踏むと、そこだけ色が濃くなるのは見ていて楽しい。薄紅色、次は白色、そして薄紅色と踏む色を決めて豹嘉は一人遊んでいた。


「まだかなぁ」


 雲一つない青空を見上げて豹嘉はぽつりと呟いた。

 恰幅の良い初老の男に連れていかれた二人の兄を待つのも飽きてきた。「ここで待っていなさい」と言われたので待っているが、もうそろそろ迎えに来て欲しい。

 けれど、まだかかるという事は知っていた。

 兄達を連れて行った男は亜王といってこの国で一番偉いという。男と話し合うのは豹嘉達、三兄妹の今後の振る舞いであった。その話は長いため豹嘉が暇にならないように庭園に置いていったことも知っていた。

 だから豹嘉は待っている。話しを終えた兄達が迎えにきてくれるのを。

 次はなにをして遊ぼうかな、と周囲を見渡した時、小さな花が視界に入る。鞠のように丸い花は桃色の花弁を固く閉じていた。他の花は咲いているのにこれだけはまだ蕾のまま。それがとても不思議で豹嘉は駆け寄ると幹に手をかける。


「今夜あたり咲くと思いますよ」


 背後から声をかけられて豹嘉は飛び跳ねた。庭園にいるのは自分一人だと思っていたからだ。

 振り返ると藍白の上衣と浅縹あさはなだ長裙ちょうくんに身を包んだ女性が立っていた。


「乙女椿と呼ばれています」


 年の頃は十代半ば。可愛らしい、というより美しいという言葉が似合う女性は豹嘉と目が合うと頬を綻ばせる。


「あっ」


 豹嘉は驚き、声をあげた。女性の右眼が黒ではなく、黄金色だったからだ。それは双子の兄達が言っていたと同じ特徴だった。

 しかし、その考えもすぐ捨てる。どう見ても目の前にいる人物は女性にしか見えない。


「えっと、わたしは」


 豹嘉は急いで姿勢を正した。彼女が誰か分からないがあの男の命令で自分を監視に来たのだと思った。その証に身に纏う衣服は高価そうだ。


「豹嘉、ですよね」


 女性は近づくと豹嘉の目線に合わせて地面に膝をつく。


「覚えていますか?」


 豹嘉は首を横に振る。


「ごめんなさい」

「いえ、僕も意地悪をしましたね」


 女性は袖で口元を隠し、ふふっと笑みをこぼした。


「貴女がまだ小さい頃に一緒に暮らしていたんですよ」


「大きくなりましたね」と両目を細めた。

 一緒に暮らしていた、という言葉に豹嘉はまじまじと女性の顔を見つめた。



「僕の名は玉鈴。……いえ、ゆえといった方がいいでしょうか」



 月——その名はよく知っていた。二人の兄が嬉しそうに話していたもう一人の兄の名前。彼に会うために豹嘉達はここまで来たのだ。




 ***




 長い睫毛を震わせ、豹嘉はゆっくりと目蓋を持ち上げた。


 ——夢?


 ここが現実だと理解した途端、喪失感に襲われる。

 夢で見たのは懐かしい記憶。忘れることのできない大切なひと時。もう少し、思い出に浸っていたかったと思いながら豹嘉はため息をつく。


 ——そういえば、ここは?


 豹嘉は周囲を見渡した。蒼鳴宮の自室ではない。

 昨日は確か玉鈴の身に危険が及ばないように木蘭の宮に避難したはず。なら、ここは木蘭の宮の一室で——。


 そこまで考えて、豹嘉は上半身を勢いよく起こした。

 ここは玉鈴が与えられた客房だ。

 昨夜、自分が泣きながら玉鈴の元を訪れていたことは覚えている。大切な彼が死んでしまったらと思うと不安で、心がどうにかなってしまいそうになった。夜になるにつれ、不安は強くなり、側にいたくて尋ねた。そして、そこで自分は彼に共寝を——。


 豹嘉は小さく悲鳴を上げると顔を覆った。自分はなんてはしたないことを口にしたのだろうか。幼い頃ならともかく、今や豹嘉は大人の女性だ。それなのに異性であり、主人である玉鈴に一緒に寝てほしいと頼むだなんて。玉鈴は困り果てていたのに自分の感情に精一杯でごり押ししてしまった。

 昨夜のことを思い出せば思い出すほど、顔は熱く、今にも炎が吹き出そうになる。

 よく分からない言葉を発し、記憶を消そうとためしみるが忘却することは叶わなかった。

 指を少し開いて、その間から視線だけを彷徨わせた。自分だけが臥台で眠っているのなら玉鈴はどこにいるのだろうか。

 しかし、玉鈴の姿は見当たらない。


「玉鈴様……?」


 名を呼んでも答える者はいない。

 豹嘉はまた不安になる。衾を投げ飛ばし、裸足で客房から飛び出そうとした時、回廊から聞こえる軽やかな足取りに気付く。


「ねえ、まだ眠っているの?」


 扉から顔を覗かせたのは木蘭だった。その側には水蝶もいる。豹嘉の乱れた寝衣を見て、水蝶はぎょっとして手にしていた盆を落としそうになった。


「あら、豹嘉じゃない」


 木蘭は両腕を広げて駆け寄ってきた。ここが玉鈴の客房であるのは知っている様子だが、特に気にする素振りを見せず、豹嘉を抱きしめて「寝起きかしら?」と両目を細める。


「あの、木蘭様、玉鈴様はどちらにいるのでしょうか?」


 力一杯撫でられるのを感受しながら豹嘉は首を傾げた。


「玉鈴? そういえばいないわね」

「……私、探してきます!」


 木蘭の腕から逃げようとする。けれど、木蘭はそれを許さなかった。


「大丈夫よ。あれがこの時間に起きているわけないじゃない」

「そうですけれど」

「起きててもどうせ寝ているわ」

「……はい」


 木蘭の言葉通り、玉鈴は朝にとても弱い。まず、二度寝は当たり前だし、起きたとしても覚醒するまでしばらくゆらゆらと体を動かすのみだ。本当に時々、かなり稀だが意識がはっきりしている事もあるが昨夜は遅くまで仕事をしていたので恐らくだが今はまだ夢の中だ。


「けど、心配です」

「大丈夫よ。刺しても死なないぐらい丈夫だし」


 龍の半身である玉鈴は自己治癒能力が恐ろしく高い。胸や腹を刺されても一週間足らずで回復し、火傷や骨折もある程度のものなら数日が経てば完治した。毒も酔いも摂取した直後はぐったりとしているが数刻後にはぴんぴんとしている。恐らく、彼を殺すのならば心臓や頭を潰さない限り無理だ。


「それでも……」

「大火傷だってすぐ治るもの」


 強みのある言い方に豹嘉は反論するのをやめた。


「ううん、でも、どこにいるのかしらね」

「恐らくですが中庭ではないでしょうか?」


 今まで無言だった水蝶が口を挟む。


「とりあえず、なぜ、貴女がここにいるのかは問いません。ですがその格好ではなくきちんとした装いをして下さい」


 水蝶は鋭い目付きで豹嘉の全身を見渡した。木蘭が甘い分、水蝶は鞭役として厳しく接してきた。誰にでも強気でいられる豹嘉でも母親のような二人には強く出れない。

 視線を落とした豹嘉はそこで自分が寝衣だったことに気づいた。すぐさま、はだけた襟を正す。


「着替えてまいります」


 頭を下げて豹嘉は早足で客房から出ようとしたが、木蘭によって止められる。


「だったら私の房室へやに来なさいな」

「けれど」

「いいのよ。渡したいものがたくさんあるの」

「……なら、お邪魔します」


 力も性格も強すぎる木蘭の言葉に逆らう気力などとうになく、豹嘉は着せ替え人形になることを選んだ。




 ***




「玉鈴様」


 名を呼ばれ、玉鈴は小さく唸った。


「起きてください」


 次は肩を掴まれ、揺すぶられる。


「……おはよう。豹嘉」


 薄らと目を開いた玉鈴は欠伸しながら体を伸ばした。木に寄りかかる体勢で眠っていたため、バキバキと軋む音が聞こえた。


「おや、可愛らしい格好をしていますね」


 玉鈴は豹嘉の姿を瞳に写した。薄桃色の上衣に紅色の裙を合わせた衣装に身を包んでいた。繊細な刺繍が施された袖が風により膨らみ、紅色の裙は幾重にもひだを作る。複雑に結いあげられた黒髪を飾るのは金釵と真珠が揺れる髪飾りと真っ赤な生花。可愛らしい面は薄らと化粧が施されていた。

 玉鈴の称賛に白粉が叩かれた頬が桃色に染まる。


「青や水色も似合うけど、赤も可愛らしいですよ」

「……青より似合いますか?」

「どっちも似合っています」


 心からの言葉を送っていると木の影に隠れていた木蘭が嬉々として走りよってきた。その後を水蝶は呆れ顔で付き従っている。


「そうでしょう! そうでしょうっ!」


 豹嘉を抱きしめ「可愛いでしょう」と連呼する。


「豹嘉はやっぱり赤も似合うのよ! なのに青ばっかり着てつまんなかったの」

「確かに豹嘉は青系統の服装が多いですね」

「情熱的な赤のほうが似合うわよ」


 二人に褒められて豹嘉は恥ずかしくなる。袖で顔を覆ってしまおうと考えるが背後から木蘭によってがっちりと両腕を掴まれているため隠すことはできない。


「照れている姿も可愛いわぁ」


 溺愛である。息子以上のでれでれっぷりに玉鈴は内心引きつつも言葉通りなので「僕もそう思います」と同意を示した。

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