昨日の薬指 2

宴の始まりは小田の一声だった。

「今回はぁ、うちをご用命いただきぃありがとぉごさいましたぁ。」

カウンターテーブル越しに辻岡と握手をする。

上下に軽く二、三回。

いやいや、こちらこそお世話になりましたとお決まりのやり取りが行われている。

その間、黒牟田は挨拶がてら客に一通り握手を交わし、「あら、ティンカーもええけど、あんたもまたええ男やねぇ!」

興奮気味のライトニングの求めに応じてピースサインやキメ顔を繰り返し、携帯電話で撮られている。

黒牟田は無意識なのか、仕事に戻ろうと体は厨房の方を向いて笑顔は強張っている。

「ライトニングはんさぁ...写真は結構やけど、黒ちゃん仕事に戻らんと飯でてこうへんで。」

コップ全体にしっとり細かい汗かいたお冷の水面からちょこんと突き出た氷の角を指先で撫でながら、遠回しに黒牟田を解放するよう説く。

声に力が無くあくまでも形式的なのは、空腹で力が湧いてこない上にこうなったら言っても無駄だと分かりきっているから。

杉原はひとり焦燥していた。

特に何も考えないで流れに任せたはいいが、懐具合と照らし合わせれば、あくまでも慎ましく飲まなければならない。

満足ゆくまで飲んで食べてをすれば、帰りの電車賃すら危うい。

お品書きが和紙に達筆な字でつらつら並んでいるが、どれひとつにも値段が書かれていない。

端の「なんでも作ります。」の自信に満ちた文言も怖い。

下手すれば、刺身一人前に軽く一杯で飛ぶ可能性があるのだ。

ピカピカに拭かれた机に、一種の無の境地に至った杉原の穏やかな顔がぼんやり映った。

「所長、ここまで流れに合わせて来ましたが正直、持ち合せがありません。支払いはどうしましょう。」

一字一句まさに言い出しかけた台詞が、丁度煙草を吸い終えた篠崎の口から出た事に、杉原は大いに驚いた。

目の前で手を開いて閉じて、物語の終盤に裏切り者の正体を知った。そんな顔で。

「えっ?あぁ、支払いねぇ。今日は僕が全部持つからいいよぉ。辻岡さんのぉ開店のお祝いとぉ、皆にはぁ色々とぉお世話になっているからねぇ。」

ぱちぱちぱち!両手を叩いて音を鳴らしたのはレディだった。

「いよ!おっちゃん太っ腹やん!みんな聞いたな!?みんな証人やで!」

レディは内心焦っていた。

この場所に店を構えるなんて、とんだ変り者が現れたもんだ。しかも案内所絡みで。

正体を探ろうとライトニングとティンカー

が協力を約束してくれたまでは良かったが、同時に何とかして案内所の噂の新人と接点を作れないかと。

信じられない事に、あの協力者が店にいる。

現時点でのレディから辻岡への接し方は、要警戒といったとこか。

小田のおごり宣言でどんちゃん騒ぎの中、おおよそ考えられるこれからの展開に、少し憂鬱になった。

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