第32話:フクロウは濡れて羽ばたく
月と星は見えない。空気が重く、肩にのしかかる。夜が進んで、昼に洗濯をした水辺から霧が上がっているのだ。
「ちぃ、雨まで降ってきやがった。お嬢さんがた、ひどくならないうちに送っていこう」
「いえそれは逆です。この雨は激しく降ったあと、ぴたりと止みます」
「へえ、なら待つとしようか。それまで起きていられるといいが」
でまかせを言い、雨宿りのテントをひとつ借りた。雨の降り始めは予測していたが、いつ止むかまで分かりはしない。
付き添う兵士はおどけた風に、あくびをしてみせた。
「それにしても辺鄙なところに、心細くはないのかい?」
天幕を打つ雨音が、徐々に強まっていく。兵士はテントの中へ入らず、庇代わりの前布の下で声を大きくした。
「父の居ない間は寂しいですが、姉も居ますから。それに母から言われています」
「ああ。たしか今は、三人暮らしと言ってたかな」
三十前くらいか。偽りの家族構成を思い出しただろう兵士は、声を落とした。
つらいことも多いだろうに、はきはきと話すマギー。実在しない女性を気遣い、何でも聞くよと先を促す。
「自分がどこまで出来るのか、考えたって分からない。だから気を付けて、何でもやってみなさいと」
メアリに最も多くのことを教えてくれた人。母から言われた、その言葉。ブースに捕らえられたさなかのことだ。思い出すと、悲しさと苦しさが胸を占める。
振り向いた兵士は見てはならぬものを見たと、慌てて元へ顔を戻す。
「その、あれだ。お母さんは、とても強い人らしい。見習うのはいいことだし、同じになれなくてもいい。君はあくまで、君なんだから」
「そうですね、ありがとうございます」
――そうよ。こんなところを母さんには見せられない。だってあなたたちはこれから……。
そろそろ頃合いだ、ブレンダと密かに頷き合う。咳払いをし、あらためて兵士に声をかけた。
「あの、兵隊さん」
「ん、何かな」
「焚き火が消えそうです」
「そうだね。しかしこの雨では仕方がない」
燃えやすいように細く割った薪は、大粒の雨に抵抗をやめようとしていた。目の前だけでなく、あちこちから白い煙が霧と混ざり合っていく。
「火がないのは危険です」
言いながらメアリは、ブレンダを連れて焚き火に近付く。兵士も「どうするんだい?」と問うだけで、怪しむ様子はない。
この火がなければ危険。その言葉に嘘も全くなかったが。
「こうすれば、火の勢いが増して消えなくなります」
誰かが椅子として使っていた、倒れた低木。根元辺りで、メアリの脚ほどはある。それを焚き火に落とし、まだ火勢のある薪を寄せた。
風を含んだ火は、乾いた樹皮を一気に喰い千切っていく。三、四分のうちに、メアリの顎を焼きそうなほど燃え上がった。
「あれが燃え尽きるころには、きっと雨も気にならなくなっています」
「そうか、さすがは土地の人だ」
気にならないという言葉を、きっと兵士は取り違えた。メアリの言った本来の意味を知ったのは、それからきっかり十を数えたあとだ。
薄く煙る霧の向こうに、閃光が五つ。それに気付いたのは、メアリとブレンダの他に居まい。
だがほぼ同時に、くぐもった発砲音も響いた。仮にも兵と名乗る者たちだ。これには素早く反応を見せる。
「敵襲! 全員、銃を取れ!」
いち早く立ち、指示を下したのはダーク。指揮官として、勇猛ではあるのだろう。その影が長く、霧に落ちる。
今度はひとつ、閃光が小さく見える。先の五つとは、方向が違う。
一秒。遅れて届いた銃声に、ダークは腹を穿たれる。衝撃に屈み込み、表情は驚愕に満ちた。
それからおよそ五秒。また一つの煌めきが、側頭を撃ち抜く。
「敵襲! 大隊長がやられた、対応せよ!」
雨音の中。湿った大地へ、ダークはいとも静かに倒れた。所在の知れぬ敵から、銃撃がある。誰も駆け寄る者はない。
次席の士官だろう、片膝立ちで指示を飛ばす。今度は発砲がない、まだ装填中だ。
「敵は少ない。分隊ごと、周囲を索敵!」
分隊の基本構成は十一人らしい。つまりこの場にあるのは、三個分隊。残りは小隊長や伝令とデニスから聞いている。
付き添っていた兵士も持ち場へ走り、指示を受けた三人の分隊長が各々叫ぶ。
「に、人数が。隊員が揃いません! 既に敵が侵入しています!」
さてそれぞれ、何人が動けるのか。
ブース隊の使い走りであったデニスは、薬剤もまとめて持たされていた。その中には、鎮痛剤もある。
普通に投与する数倍を、ブレンダは調味料に混ぜて提供した。しかも酒まで飲んでいる。感覚が麻痺し、途轍もない眠気が襲っているはずだ。
「伝令、伝令はどこだ!」
「小便から戻っておりません!」
この夜闇を、やはり一人で歩く者も居るようだ。ことごとく行動を読むデニスに、メアリは感謝した。
少なくともこの兵士たちの仲間でない。証明は十分すぎるだろう。
と、闇の向こうから次の銃撃がある。焚き火の傍でうずくまるメアリに、何人が倒れたかまで数えられないけれども。
「銃火はあっちだ! 構わん、当てずっぽうで撃て!」
次席の士官が出した命令は、それで最後となった。また二発、今度は肩と胸に風穴を空け、彼も泥に塗れる。
「用意。一斉に、撃てっ!」
号令の意味を成しているのか、慌てた声が矢継ぎ早に。だがさすがと褒めるべきだろう。ややリズムを狂わせながらも、連装銃が本来の強みを発揮する。
一つの分隊が、動ける五、六人で七発。四十発前後が続けざまに浴びせられる。
「怯んでいるぞ、前へ進め!」
一発撃つごと、一歩ずつ。撃ちきれば、控えた分隊がその前へ。後ろに回った分隊は、銃の先へ剣身を装着する。
互いの射程距離で発砲し合い、終われば接近して突き殺す。それが軍隊戦闘のやり方だ。
「前へ! 前へ!」
一箇所に固まっているデニスとドロレスたちは、身を守れる茂みや凹凸を利用しているはずだ。
対して兵士たちは、隠れることをしない。集団戦闘では、それが当たり前だからと。
知識のないメアリからすれば、撃たれて当然の棒立ちとしか見えなかった。
しかも今は、この手にも武器がある。
「銃剣を付けたのから狙って」
漆黒の僧服が、人一倍に濡れそぼつ。夜闇を単身。草葉に隠れつつ、ここまでやってきたアナ。
右手には彼女の拳銃が、雄々しく燃える焚き火を濡れた銃身に光らせる。左手には調理用のナイフが、雨の雫に朱色を流れ落とした。
運んでくれたライフルは、ブレンダが。もう一挺の拳銃を、メアリが。もう慣れた感覚さえ思いながら、無防備な兵士たちの背中に向けて構える。
「ワン」
訓練された号令を、真似る気にもならない。田舎町で、パン窯の前で、トウモロコシの畑で。息を合わせるときには誰もが言うように、タイミングを合わせる。
「ツー」
だから同時に叫ぶことができた。復讐の一撃を叩き込む、最後の合図を。
「スリー!」
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