第206話 脱獄

 既に日付も変わろうかという時刻ですが、アルダロスの王城には煌々と明かりが灯され、多くの兵士が動き回っています。

 自室へと戻り、騎士服を豪華にしたようないつもの服装に着替えたカミラは、騎士団長と渋い表情を突き合わせていました。


「カミラ、何がどうなっているのか説明してくれるかな?」

「お帰りなさいませ、魔王様。ラストックは……」

「うん、ヒュドラに追われた魔物の群れが迫って来ていて、かなり危ない状況だったけど、何とか守り切った感じだね」

「ヒュドラ! 本当にヒュドラが現れたのですか?」 

「僕は魔物に詳しくないけど、頭が三つあって、ギガースよりも更に大きなヘビが他にいるならばヒュドラじゃないかもね」


 カミラと顔を見合わせた後で、騎士団長が恐る恐るといった感じで訊ねてきました。


「魔王殿、そのヒュドラはどうされたのですか?」

「うん、たぶんだけど、バラバラになったかな……」

「ヒュドラをバラバラとは……どのような攻撃をなさったのですか?」

「うーん……いずれ、どこかからか伝わるかもしれないけど、まぁ、攻撃方法とかは別にいいんじゃない? それよりも、誰かが逃げたとか聞いたけど……」


 カミラと騎士団長は、揃って頭をさげました。


「申し訳ございません、魔王様。アーブル・カルヴァインに脱獄を許しました」

「やっぱりか……」


 第一王妃ご乱心、カミラ様は瀕死の重傷、王城に魔物が入り込んでいる……など、流言が飛び交い、王城は大混乱に陥っていたそうです。

 殆どの者の視線が後宮へと向けられている頃、収監していた牢が破られアーブル・カルヴァインは姿を消しました。


「第一王妃にデマを吹き込んだ人物か、それに協力する人間が手引きをしたってこと?」

「はい、まだ調べを進めている段階ですが、何人かが怪しげな情報を伝えて回り、王城内を混乱させていたようです」

「だとしても、王城の警備って、そんなに簡単に破られちゃうものなの?」

「申し訳ございません。どうやら今回は下水道を通って、水路へと抜け出たものと思われます」


 先日殺された国王は愚王とまで言われる状態でしたし、王子達もやりたい放題、王城の中は規律があって無いような状態で、投獄されるような者もおらず、牢獄は殆ど使われていなかったそうです。


 そのため警護を行っていた者も不慣れで、カミラの暗殺未遂に絡む騒動で浮き足立ち、持ち場を離れてしまったのだとか……なんだかもう、言葉が出て来ませんよね。

 それでも、通常の廊下を通っていれば、脱走を阻止できた可能性は高いようですが、アーブルと手引きをした人間は、下水に潜ったようなのです。


「王城の下水って、どうなってるの?」

「下水は一箇所に集められ、魔道具によって浄化された後、王城を囲む水堀へと流されます。ただ、浄化される前の通路を通れば、当然汚物まみれになります」

「まさか、そんな所を通るとは思っていなかったんだね」

「その通りですし、堀へ抜ける水路には鉄の格子が付けられていて、通常であれば人の出入りは出来ません」

「その格子が壊されていたとか?」

「はい、周到に準備されていたようです」


 どうやらアーブル・カルヴァインは、表立って動く者の他にも、王城に手の者を潜ませていたようです。

 議事の間での対決に敗れた後でも、生き残り、再起する道を残しておいたのでしょう。


 逃亡が発覚した時には、すでに日も暮れていて、王城の外に出たアーブルの追跡は難しかったようです。


「王城の中にまで協力者が居たのなら、王城の外にも当然居たと考えた方が良いよね?」

「はい、現在も調査は進めていますが、既に王都を離れていると考えるのが妥当でしょう」

「逃亡先は、当然自分の領地だよね?」

「恐らくは……」

「アーブルに協力しそうな貴族とか居るの?」

「その辺りは微妙です。アーブルは元々第二王子派の重鎮でしたし、自分の領地と境を接する者達を取り込んでいる可能性はあります」


 折角リーゼンブルグのゴタゴタは全部片付いたと思っていたのに、一番厄介なアーブルに逃げられたとなると、振り出しにまでは戻らないとしても、大幅に後退した感じがしますね。


 最悪、内戦という可能性も否定出来ません。

 アーブルの領地は、王都の北方、鉱山を含めた山地です。


 一ヶ月ほど前に偵察に行った時にも、アーブルの居城は薄っすらと雪化粧をしていました。

 もしかすると、深い雪に閉ざされたりするのでしょうか。


「ねぇカミラ、カルヴァイン領って、雪は多いのかな?」

「その年によっても変わるそうですが、冬の間は馬車ではなくソリによって荷物を運んでいるそうです」


 カルヴァイン領は、二ヶ月から三ヶ月の間、雪に道を閉ざされて、ソリを巧みに操る者が麓の他領との行き来をして、食料などを仕入れているそうです。

 鉱山での作業は、外で雪が降っても関係なく冬の間も続けられて、カルヴァイン領の財政を支えています。


「その状況だと、アーブルが逃げ帰っても王都に攻め上がってくる心配は少ないね」

「はい、おっしゃる通りですが、こちらからも攻め込むのは困難です」


 確かに、雪の山道を攻め上がって行くなんて、正気の沙汰じゃないもんね。


「それでカミラ、これからどうするつもり?」

「はい、出来る事ならば回避したいのですが、戦への備えを始めます」

「アーブルの領地に隣接する土地を治める貴族には、もう知らせを出した?」

「はい、味方になるかどうかは分かりませんが、早馬を走らせてあります」


 近隣の貴族が、これまでの友好関係と、国王殺害を始めとした反逆行為を天秤に掛けて、どちらの味方に付くかですが、普通ならばカミラの側に付くでしょう。

 ただし、相手は百戦練磨のアーブル・カルヴァインですから、どのような手を用いてくるか分かりません。


 カミラとしては、周辺貴族を味方に付けて、雪解けが済む頃にはカルヴァイン領を包囲する形を整えておきたいようです。

 いずれにしても、年末年始を控えた時期なので、貴族達も積極的には動きたがらないようで、物事が動き出すのは年が明けてからになる見通しです。


「騎士団長、アーブルの協力者の割り出しと排除を最初に片付けてもらいたい。この先もカミラの命が狙われて、混乱するのは御免だからね。毒見役を含めて、身辺警護の体制を整えてくれるかな」

「畏まりました。協力者に関しては、既に何名かを拘束しております。カミラ様の警護の体制も早急に整える所存です」

「それと、ヒュドラに追われた魔物の群れが、ラストックを超えて相当数入り込んでいる。グライスナー領を始めとして、南部地域の人々には警戒するように触れを出して」

「魔物の数はどの程度でしょうか?」

「正確な数は把握出来ていないけど、現状でラストックは魔の森に取り残されているような形だと思っておいた方が良いね。実際、川を超えて魔の森が溢れた感じだったからね」


 ニブルラットを中心とした魔物の群れの様子を伝えると、騎士団長は表情を曇らせました。


「アーブル・カルヴァインの他に、魔物対策にまで人員を割り振らなければならないとは……」

「でも、考え方次第なんじゃないの?」

「考え方ですか?」

「うん、僕が生まれ育った国と海を挟んだ隣の国では、国の中に都合の悪い事態が起こった時には、他の国を敵に仕立て上げて国内の批判をかわしたりするんだ。これをリーゼンブルグに置き換えてみるならば、アーブルの件が国内の厄介事、そして魔物の群れが他国って事になるよね」

「なるほど、魔物という共通の敵の下、国内を一つにまとめるのですな」

「そういう事。出来るよね、カミラ?」

「はい、魔王様から授けていただいた策をもって国内をまとめあげ、アーブルの件も解決して御覧に入れます」


 ラストックの孤立が長期化した場合の支援物資の運搬などについて打ち合わせた後、騎士団に持ち帰り対策を講じるために騎士団長は戻っていきました。

 カミラの居室は、廊下や窓の下、隣室に至るまで、女性騎士のチームが守りを固めているそうです。


 お茶などの給仕を担当する者にも、女性騎士が張り付き、怪しい行動をしないか見守ると同時に毒見役を務める事になりました。

 今も部屋の隅には二名の女性騎士が立って、こちらを監視している状態です。


「あの……魔王様、弟は、ディートヘルムは無事でしょうか?」

「うん、近衛のユルゲンに付き添われながら城壁上で指揮を執っていたよ。魔物の返り血を浴びる事になったけど、良い経験だったんじゃないのかな」

「魔物の返り血……それほど最前線で指揮していたのですね」

「えっ、う、うん……まぁ、そうかなぁ……」


 僕がやらかした結果の返り血なんだけど、ここは黙っておいた方が良いかな。


「魔王様、今回も命を救っていただき、ありがとうございました。私の身体も心も、全て捧げてお仕えする事を改めてお誓い申し上げます」


 ソファーから立ち上がり、僕の前に跪いたカミラの姿を見て、警護の女性騎士は驚愕の表情を浮かべています。


「今回は、ハルトが迅速に知らせてくれたから良かったけど、同じような状況で、いつも僕が間に合うとは限らないからね。西部の砂漠化の問題、それに今回の魔物の件、リーゼンブルグには課題が山積しているんだから、簡単に死ぬなんて許されないんだよ」

「はい、民を守り、国を豊かにするために働くとお約束いたします」


 再び頭を垂れたカミラに近付いて、抱き締めました。


「良かった……一時は駄目かと思ったんだからね」

「ま、魔王様」


 驚くカミラを強く抱きしめて、その温もりを確かめました。


「この鼓動を僕に断わり無く停めることは許さない」

「はい……」

「魔力増強のための特殊な薬を使ったから、僕は三日ほど動けなくなると思うから、絶対に油断するなよ」

「魔王様、それは私のため……」


 カミラの問いに、もう一度抱き締める事で答えた後、身体を離して立ち上がりました。


「我はヴォルザードへと帰還する。火急の際は、これまで通りハルトを通じて知らせよ。カミラ・リーゼンブルグ、民のために力を尽くせ!」

「はっ、仰せのままに」


 うっとりとした表情を一瞬で引き締め、厳しい声で答えながら頭を下げたカミラを見て、警護の女性騎士達も跪いて頭を下げました。

 うん、どんどん魔王っぽくなってるよね。


 闇の盾を出して、悠然とした歩みで影に潜った途端、限界が訪れました。

 がくっと膝から力が抜けて、立ち上がれません。


「ラインハルト、これ拙いかも……たぶん動けなくなる……」

『ケント様、どちらに戻られますか?』

「えっと、下宿は拙いから……魔の森も、ちょっと駄目か……」


 三日間寝込む事になると聞かされていましたが、対策を考えていませんでした。

 とりあえず、ヴォルザードのどこに戻るかなのですが、それすら考える気力が残っていなくて、どんどん意識が混濁していきます。


「えっと……えっと……」


 考えているうちに意識を手放してしまい、僕はこの後、ブースターの副作用の恐ろしさを嫌というほど味わう事になりました。


 目を覚ました時、僕はどこかの部屋のベッドの上に寝かせられていました。

 部屋の様子を見ようと、首を動かそうして愕然としました。


 意識は、かなりぼんやりとしていますが戻っているのに、身体が全く動きません。

 動かせるのは瞼と眼球程度で、視線を動かしてみると下宿の部屋ではないようで……慌ててラインハルトに念話で話し掛けました


『ラインハルト、ラインハルト!』

『ケント様、気が付かれましたか?』

『身体が動かない。どうしよう?』

『やはり、そうなりましたか……』

『どういう事? ラインハルトは、こうなるって知っていたの?』

『厳密に同じものではありませぬが、ワシらが生きていた時代にも同じような薬がありました。一時的に膨大な魔力を扱えるようになるが、反動として身体が動かせなくなる……』

『どうしよう、ねぇ、どうしたら良いの?』

『落ち着いて下されケント様、これは数日で元に戻ります』


 全く身体が動かない状況にパニックになりかけましたが、元に戻ると聞いてほっとすると同時に、喉がカラカラに渇いているのを自覚しました。


『ラインハルト、水、水を飲ませて』

『畏まりましたぞ。ただし、それはワシの役目ではありませんな』

『えっ、どういう事?』


 視界に三人の人影が飛び込んで来て、疑問は解消されました。


「健人、気が付いたの?」

「ケント、ケント、しっかりして」

「ケント様、良かった……」


 委員長、マノン、ベアトリーチェの心配そうな顔を見て、朝食を共にする約束を思い出しましたが、謝罪の言葉すら口にする事が出来ません。

 委員長とマノンに抱き起こしてもらって、カップを口に寄せてもらっても、上手く水を飲むことすら出来ませんでした。


 すると、委員長が水を含んで、口移しで飲ませてくれました。

 次はマノン、その次はベアトリーチェ。


『うん、動けないっていうのも、満更悪い事ばかりじゃないね』

『ケント様、ご自身で動けないという状況は、とても褒められた状況ではありませぬぞ』

『分かってるよ。でもさ、みんなに優しくしてもらえちゃうしさぁ……』

『ふむ……ケント様には、少し反省していただかねばなりませんな』

『いやいや、ちゃんと反省してるよ。もうブースターは使わないで済むように考えるしさ』


 三人に二回ずつ口移しで水を飲ませてもらうと、喉の渇きも癒されて少し意識がハッキリした感じですが、身体は全く動かせません。


『いやぁ……最近ずっと忙しかったから、たまにはノンビリするのも良いよね』

『はぁ……ケント様、やはり反省が足りないようですが、まぁ、すぐに後悔なさいますぞ』


 確かに身体が動くようになった後には、三人揃ってのお説教タイムが待っていそうだけど、今は至れり尽くせりの状況を楽しんじゃっても良いんじゃないかな。

 まったくラインハルトは心配性だよねぇ……なんて考えが、どれほど甘かったか、そいつは既に忍び寄って来ていました。


『うっ、どうしよう……』

『どうなされましたかな、ケント様』

『えっと……ちょっとトイレに……』

『ぬははは、どうぞどうぞ、遠慮なさらずに行って来てくだされ』

『いや、だって動けないし……』

『そうですな。これは介助が必要ですな。お伝えしておきましょう』

『えっ! ちょ、ちょっと待って、伝えるって誰に?』

『ケント様らしからぬ愚問ですな。目の前のお三方に決まっておりますぞ』

『いやいやいや、待って待って! 駄目駄目、それはちょっと……』

『ケント様、粗相なされますと、余分な世話を掛ける事になりますぞ』

『いや、だって……』

『それで、どちらですかな? 大ですか、小ですか?』

『えぇぇぇ……』


 ピクリとも動かない身体、高まり続けていく尿意、こんな事ならば口移しは一周で我慢しておけば良かったのでしょうか。

 漏らしてベッドを汚す訳にもいかず、厳しい現実を受け入れる覚悟を決めました。


 目を開けたままではいられず、固く固く目を閉じて、時が過ぎるのを待つしかありません。


「健人、尿瓶しびんを用意するから、ちょっと待ってね」

「えっ、えっ、リーチェ、脱がしちゃうの?」

「何を言ってるのですか、マノンさん、脱がさなければできませんよ」

「えっ、でも、男の人は脱がなくても……」

「やっぱり脱がした方が良いよ、マノン、手伝って」

「えっ、うん……」


 あぁ、ベルトを外され、ズボンのボタンが外され、下ろされて、完全に脱がされちゃいましたね。

 パンツの紐も解かれて……あぁ、スースーするんですけど……てか、なにこの沈黙と妙な間は。


「お二人とも、そのままではケント様が風邪をひいてしまいますよ」

「そ、そうね。急いであげないと……」

「そ、その、誰がするの?」

「えっ、それは……」

「この際ですから、三人で……」


 えぇぇ……そんな共同作業なんてしなくていいんじゃない?

 あっあぁぁぁ……。


『ぶはははは、ケント様、まさに至れり尽くせりでございますな、ぶはははは』

『うぅ……身体が動くようになるまで断食するからね』

『ぬははは、その時が来る前に、身体が動くようになると良いですな』

「健人、準備出来たから、いいよ……」


 結局、三人の手を添えられて、尿瓶へとあてがわれ、ベッドを汚さずに用を足し終えましたが、この後二日間、三人の手を借りて生活を続ける事になりました。

 早く回復するように少しでも栄養を取った方が良いと、三人は水だけでなく、スープやシチューなども食べさせてくれたんですよ。


 でも、胃腸が活動すれば、当然の生理的な欲求が訪れる訳でして、身体が動くようになるまでに僕の神経はガリガリと削られました。

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