第5話 うどん
「例え話をしようじゃないか」
少女の提案に、少年は小さく頷いた。
「非常に美味なうどん屋を知っているんだが、私がおごってあげるからと言ったら、キミはついてくるかい?」
ふむ、と少年は小さく唸る。親指と人差し指で下唇をつまむ。
「『美味』の定義による。詳細情報はないのか?」
すると、少女はなぜか、きょとんと不思議そうな顔をした。ぱちぱちと目を瞬かせ、適当に投げたボールが入ったバスケ1年目の初心者みたいな顔で、少年の顔を見つめている。
少年が憮然とした顔を返すのと、少女が口を開くのとは同時だった。
「驚いた。意外にも食いついてくるじゃないか。てっきり、こういう話題には興味がないものだと思っていた」
そう思うんならなぜ話そうと思ったのか、根本的な疑問を口にしかけたが、寸前でつぐんだ。問うべきなのはそこではない。何より少し遺憾であったため、少年は不機嫌な口調で言った。
「俺だって一人の人間だ。食い物の好みくらいある。悪いか」
「どうしてキミはいつもそう、すぐ悪いか悪くないかと聞いてくるんだ。いや、照れ隠しの類なのは分かっているが、言い方を工夫してみようという気にはならないのかね」
少年は答えてやらなかった。少女が面白がっているのが丸分かりだったからだ。
代わりに、目で話の続きを促してやると、少女はまだくすくすと笑いながら言った。
「そうだな。では、ここは定番に、『安くて美味い』といこうじゃないか。『高いが美味い』では、キミの気は引けそうにないからな」
確かにそれは間違いではない。高級品は必ずしも舌を満足させてくれるとは限らないことを、少年はよく知っている。やれフカヒレだ、やれツバメの巣だ、ああいうのにはこりごりだ。
なんとなく嫌なことを思い出して顔を歪ませたのをどう受け取ったか、少女は情報を追加してきた。
「値段は1杯約300円、量は十二分にあるとしよう。十二分というのは、そうだな、成人男性からするとやや物足りないかもしれないが、女性からすれば満腹一歩手前という、ベストバランスだ。キミのような食べ盛りの男子には少々物足りない」
「うどんならそんなものだろう。何のためにサイドメニューがある」
「…………」
また、きょとんとされてしまった。今度は少年もぶしつけに言う。
「なんでそう不思議そうな顔をするんだ」
「いや、他意はないんだが、なんというかだな」
少女にしては珍しく口ごもった。それは、笑いをこらえているとか恥ずかしいとかいう感情のせいではなく、単にどう表現したものか答えが見つけられなくて迷っているようすだった。
ごにょごにょごにょ。しばらく口の中だけで喋っていた少女が、ついに口を開く。
「今までのどの例え話よりも食いついてきたから、そうだな、びっくりしているんだ。どんな釣り餌もルアーも興味なしだったのに、試しに投げた釣り針オンリー状態のウキに入れ食いしてきたような、そんな気分。よもや、キミが食欲旺盛な男子に分類されるとは思っていなかったからな」
「幻滅でもしたか」
「おかしなことを言うな。新たな魅力を知って心が躍っているよ」
実際、少女の表情は朗らかで、楽しそうだった。
わざわざその気分を妨害する趣味をもたない少年は、答えを返してやることにした。300円でうどん1杯、量としては物足りなくとも他人に勧めるくらい美味いものであるというならば、少年の心は決まっている。
「俺がその店を知っているという可能性もある。ぜひ一度連れていってもらいたいところだな」
「キミは飲食店事情に詳しいのか?」
「ほどほどだ。詳しくなりたくとも先立つものが足りない」
「キミでか」
「俺で、だ」
小気味良いやり取りを繰り広げたところで、急に恥ずかしさが頬を襲った少年は、ごまかすように鞄を拾い上げて席を立った。気づいているのかいないのか、少女はくすっと笑いをこぼすと、自分の鞄に手を伸ばす。
「あまりがっつくものじゃないぞ。私にだって準備というものがある」
「……別に、今日連れていけとは言っていないが」
「む?」
「というか、例え話じゃなかったのか」
「おっと。……体裁を保つ必要はあるか。そうか、そうだな」
ため息をついて、少年は歩き出した。少女はごく自然な足取りで、その横に並んで歩き始めた。
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