深淵を覗く時、深淵もまた……
さて、待機させていた『フラワーエデン』の攻略対象ヒロインズが、いよいよ我慢しきれなくなってきたようです。
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すっかり日も沈んだこの時間、多くの女生徒たちは一日の疲れを取るべく入浴を始める。
このマンジュリカ女学院の寮には、広々とした大浴場が存在する。さすが、お嬢様ばかりが通う環境なだけあって、寮の設備が素晴らしい。
ボクはといえば、大浴場に隣接する物置部屋で、アイリスとともに息を潜めていた。
何故そんなことをしているのかって?そんなの決まっているよね。もちろんお嬢様たちの入浴を鑑賞するためである。
設備そのものは素晴らしいこの寮だが、一方で、建造されてからの歴史も長い。祖母の代からこの寮で青春を送っていた、なんて話も耳にするほどだ。
そのため、何度も補修されているものの、ところどころに補修しきれていない箇所がある。
大浴場と物置部屋を隔てる壁にできている、細い隙間もそのひとつだ。
「こんなこと言うのもあれだけどさ、シランは女なんだから普通に浴場に入ればいいんじゃねえの?」
「それじゃ、意味がない。アイリスは、何にも分かってない」
「えぇ……」
アイリスが声を潜めながら呟いた疑問に対し、ボクは呆れたようにため息をつく。本当に何も分かっていない。このボクがそこに気づかないわけがないじゃないか。
実際、寮に入った初日に大浴場の存在を知ったボクは、待ってましたと言わんばかりに大浴場へ突撃した。それはもう、このジト目が興奮で煌めくほどに意気揚々と。
けれど、その直後ボクは真理を理解することになる。
「入浴姿は、バレないように覗くからこそ、ドキドキする。スリルと浪漫、それが大切」
「えぇぇえ……」
そう。普通に女として浴場へ入っても、不思議とそれほど興奮しないのだ。寧ろ、なんというか普通に入浴しているだけ、って感覚に陥ってしまった。
いつも通りに入浴し、そこに日常感を感じてしまえば、それはもうただの当たり前になってしまう。そういうことなんだろう。
あのときの経験は、ボクから元男として大切な何かを失わせたが、一方で大切な心理に気づかせてくれた。
そんなことをしみじみと考えながら、満を持して壁の隙間を覗こうとしたタイミングで……ボクはおかしな気配を感じた。
「……アイリス。たぶん、何かいる」
「そりゃあ入浴時間なんだから、誰かしらいるんじゃねえの?」
「そうじゃない。ボクたちに向けて、視線を送ってる……気がする」
「マジかよ?! あたしは何も感じないんだけどなぁ……」
何でもない振りをしながら、目だけで静かに物置部屋内を見渡す。
そして……ボクは部屋の扉が僅かに開いていることに気がつく。
「そこ、誰かいるのは、分かっている」
「おい! 大人しく姿を見せろ!」
ボクが扉に向かって声を掛けると、慌ててアイリスも声を荒げる。
その瞬間、ドスンと尻もちをついた音がする。続けて、恐る恐ると扉が開く。
「あっ……うう……ひぃいっ……」
そこにいたのは、ひとりの女生徒だった。シランとして出会った記憶はない。だけど、ボクは彼女を知っている。
「これは、違うんです……あぁ……ごめんなさいぃぃぃぃいい」
「な、なんでアネモネが……」
アイリスの睨みにびくびくと怯えながら、涙を流して謝罪している彼女は、『フラワーエデン』の攻略対象ヒロイン、アネモネお嬢様だった。
まさか、どうしてアネモネがここに? お淑やかなヒロインだったはずのアネモネが、まさか覗き魔にでもジョブチェンジしたのだろうか。
いやまあ、ボクなんか大浴場を観察しようとした覗き魔なわけで、人のことを言えた立場ではないけども。
「違うんです……ただ、いつもみたいにシラン様の姿を眺めていたら、お二人で物置部屋に入っていったから……どうしても気になってしまって」
なるほど、それならば仕方がない。たしかに、こんな時間に二人で物置部屋へ入っていく姿を目にしたら、怪しくて気になってしまうのも当然だと思う。不覚だったなぁ。
…………ちょっと待った。今、「いつもみたいにシラン様の姿を眺めていたら」なんて言葉が聞こえたような。
いつも……ボクを!?!?
アネモネ = シャルディーニは、正真正銘『フラワーエデン』の攻略対象であるヒロインのひとりだ。
彼女はゲーム内で誰にも心を開かない孤独な少女として登場するが、アネモネルートでは主人公の積極的なアタックにより、徐々に心を開いていく。
孤独な少女が主人公にのみ心を開き、甘えた姿を見せる。そんなギャップが多くのプレイヤーを魅了し、作品の人気投票でも上位に食い込むほどのキャラクターだった。
ボク、さすがにこれはショックなんだけど……
立ち直れずに呆然としているボクと、ひくひくと身体を揺らしながら謝罪するアネモネ。
その間で、アイリスがどうしていいのか分からず声を漏らす。
「何この状況……」
そういえば、似たような衝撃を入学直後にも経験したな、と思い出し、ボクは思考を放棄した。
うん、今日はもう寝るべきだな。そう結論を出したボクは、覗き魔……アネモネを放置して、ふらふらと歩き始める。
もう大浴場を覗くのはやめよう。覗いていいのは覗かれる覚悟がある人間だけなんだよ、きっと。
はぁ……
◇
「ジト目のまま浴場に欲情しているシランちゃんも、ショックを受けて呆然としているシランちゃんも……あぁもう! 可愛すぎるって」
物置部屋の荷物に紛れ、じっとシランを眺めていた存在がもうひとり。
シランを愛してやまないリリー = ミシュレは、今日も彼女を観察していた。
「それにしても、私のシランちゃんをストーキングしている女の子がいたなんて……たしか、同級生だったかしら。少し警戒した方が良さそうね」
この場の誰にも気づかれないほどのストーキング能力を身につけているリリーは、自分のことをすっかり棚に上げて呟いた。
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キャメリア「なぜでしょう、胃がキリキリいたしますわ……」
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